旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

近松門左衛門

2007年03月31日 23時40分35秒 | Weblog
1000円の値札がついていた日本古典文学全集「近松門左衛門集」全二巻を、会計のために馴染みの店員のところまでもって行くと、何も言わないのに600円にまけてくれた。アサヒグラフ別冊の美術特集「モディリアーニ」を併せて買った。定価1500円のところ500円の出費で済んだ。

その馴染みの店員から「うちは古本屋で骨董市じゃないんだから余り値切らないでよ。」と言われたが、正直なところ値切ってなんかいない。近松の方は最初から値切るつもりがなかった。「今回は近松門左衛門を値切らないから、モディリアーニを付録でつけろ。」とお願い(?)するつもりだったのだ。馴染みのおばちゃんに機先を制されてしまった。

「こっちの絵本(絵本ではない。モディリアーニの作品集なのだ。)はきっちり500円もらうからね。」と、ぴしゃりと言われた。合計で1100円である。「うちも商売なんだから、いらない本があったら安く売ってよ。」と追い討ちまでかけられた。「売る本なんかねえよ。」と腹の中でつぶやいてやった。


こちらの不勉強を棚に上げれば、近松門左衛門は鈴木大拙と同様、確かに著名なのであるが、わたしからすると何故ゆえ著名なのかがいまひとつ判然としない著名人のひとりなのである。作品をながめただけで好感が持てるモディリアーニとは、そこが違う。

巻頭は「近松門左衛門は日本の生んだ最高の劇詩人である。それは近松の天才によることはいうまでもない・・・。」という書き出しで始まる。ザックリ言うと、近松は浄瑠璃や歌舞伎の興隆期に登場した力量を備えた劇作家であったのだ。この点は確かなようだ。

ところが、誰が近松が天才であると評するのか、この点は不明である。わたしはそう評するひとと直接に会ったことがない。そこで、検証はみずからの読書意欲に依存することになる。

古典の範疇に入れられた作品の場合、幸いにして期待が大きく外れたためしはないので、特に名作との誉れが高い「曽根崎心中」を一気に読んでみた。見事な言葉の流れだ。テンポのよい七五調の口上に抵抗なく引き込まれる。

元禄の日本語は現代語に近いのでなおさら文字表現の壁を感じないで済む。近松が天才であるかどうかに言及する資格はないが、素晴らしい戯曲である。出色の作品であると言わざるを得ない。

吉本隆明

2007年03月28日 21時11分12秒 | Weblog
敗北の構造Ⅲ「宗教と自立」より

「おまえは自分を偉大な人間の救済者だとおもっているかもしれない。しかしおまえは、現実的には途方もないことを言って歩く乞食坊主にすぎない。弟子といったら十人ばかりの無知な男しかいないし、ろくなやつはいないじゃないか。おまえはちっとも義人じゃないし、偉大な宗教家でもない。要するに、ただでたらめいって歩いている乞食坊主にすぎないのだ。だからおまえを迫害したってなんでもないじゃないか。」という律法学者やパリサイ人の言い分に対して、マタイ伝の主人公は何も答えていない。

鈴木大拙選集

2007年03月27日 21時50分20秒 | Weblog
鈴木大拙という禅の研究者がいたことくらいは知っていた。ところが、どのような著作を著わし、どのような研究をしたのかを問われると、答えは多分にこころもとなくなる。だからというわけではない。鈴木大拙選集全13巻(春秋社)を買った。

序において、禅は行為である。生活である。日々の経験そのものである。日用光中の行往坐臥である。それで「平常心これ道」ともいい、「日々これ好日」ともいうと述べている。鈴木大拙は難解なのではないかという先入観があったが、意外に平明である。

選集第1巻「禅の思想」は、「今日の禅は中国で漢民族のあいだで成立したものゆえ、漢民族に特有の性格が織りこまれている。そしてそれは、インド民族的なものではない。」という解説から始まる。

次いで、一言でいうと、禅の思想は、無知の知、無念の念、無心の心、無意識の意識、無分別の分別、相非の相即、事事無碍、万法如々などという成語・成句であらわされる。禅の行為は、無垢用、無業の業、無用の用、無作の作、無求の求などと説明される。即ち、無知の知、無分別の分別をもって禅思想の根本であると続く。


原始仏典

2007年03月18日 01時18分13秒 | Weblog
何よりも解りやすいのがいい。「ブッダのことば」「感興のことば」「真理のことば」「ブッダ最後の旅」を、文字が大きくてとっても眼に優しいワイド版の岩波文庫で読んでいます。岩波文庫の原始仏典シリーズはすべて揃えました。小さな活字の岩波文庫は、目下積読中です。

ブッダの死にざまが描かれている「ブッダ最後の旅」は毎日持ち歩いて、「ブッダの思想って、ほらこんなに易しいんだよ。」とひとに語りかけては顰蹙を買っています。その他の原始仏典もたまに読みなおしていますが、新たな感動に打たれることが多い。原始仏典とは生涯にわたってお付き合いをすることになりそうです。

風姿花伝

2007年03月13日 13時36分29秒 | Weblog
事態が好転し始める予感とでもいうのだろうか、ようやく周りの反応に善意を感じることができるようになった。先日の釣りがよかったようだ。まる一日釣りに興じたおかげで胸の芯に抱えていた重いものが吹っ飛んだ。事態は本人が思いつめていたほど悲観的ではない。悲観的にせしめたのはこちらの焦りであったことに気づいた。

馴染みの古本屋で、新潮日本古典集成「世阿弥芸術論集」を買った。「風姿花伝」にとどまらず、「至花道」「花鏡」「九位」の一字一句が身に沁みる。

「風姿花伝」の年来稽古条々に従えば、「能は下がらねども、力なく、やうやう年たけゆけば、身の花も、よそ見の花も失せるなり。・・・さきほどの人も、直面の申楽は、年寄りては見られぬものなり。さるほどにこの一方は欠けたり。」という年齢に達したということになる。