旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

もしも、誰にでも会えるとしたら・・・

2005年08月31日 12時38分22秒 | Weblog
              修行中のブッダ

超大物でいうと、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)と会ってみたい。敢えて理由を挙げると、「ひとはパンのみにて生くるものにあらず。」といったキリストと同様に人騒がせな人物なのだけれど、何故だか彼の言動が気にかかる。ちょっと怖そうだけれど、マホメットの生のアジテーションも聞いてみたい。

逆に、大物たちのなかでは、ニーチェとかカントとかへーゲルにフォイエルバッハ、この種のどちらかというと理屈っぽくて自己主張が強そうなひとは避けて通りたい。日本人なら、儒学の系統がこれに当たります。

日本の宗教家についていうと、鎌倉仏教の親鸞・日蓮・道元、いずれの皆さんも厳格で理屈っぽいので、パス。じゃ、良寛や一休などの癒し系はどうかというと、なんだかあの明るさにはこっちの方が気後れしてしまいます。

人気商売の中で揉まれて来た、世阿弥さんなら会ってみたい。「風姿花伝」を書き始めたころの世阿弥さんではなくて、もっと、若かりし頃の世阿弥、稽古三昧の頃のかれから、大衆に受けるための心構えや「強い」稽古についての解説を受けてみたい。

このように書いてくると、自分の読書傾向をなぞっているようで、なんだか妙な気分になります。

侍ニッポン

2005年08月31日 11時28分12秒 | Weblog

人を斬るのが 侍ならば
恋の未練が なぜ斬れぬ
伸びた月代 さびしく撫でて
新納鶴千代 にが笑い

昨日勤王 明日は佐幕
その日その日の 出来心
どうせおいらは 裏切者よ
野暮な大小 落し差し

流れ流れて 大利根越えて
水戸は二の丸 三の丸
おれも生きたや 人間らしく
梅の花咲く 春じゃもの

命とろうか 女をとろか
死ぬも生きるも 五分と五分
泣いて笑って 鯉口切れば
江戸の桜田 雪が降る

日本霊異記

2005年08月29日 17時17分14秒 | Weblog
              閻魔大王

愛顧する古本屋では、小学館の「日本古典文学全集」のばら売りもやっている。一冊500円である。口語訳つきなので読みやすい。

「日本霊異記」は、天皇が皇后とエッチをしているところに闖入してしまった待者が、天皇から雷(いなずち)を捕獲することを命じられという話から始まる。もちろん待者は雷様を捕らえるのであるが・・・。

十数年前から岩波文庫の黄色帯を買い揃える努力をしてきた。ところが、読書の合間の休憩を怠ると文庫の文字のサイズが眼精疲労を招く。眼のせいで読みたい本も読めないのじゃストレスが溜まる。だから、じっくりと読みたい古典の場合、全集のばら売りでもなんでもいいから活字のサイズが大きい本を更にもう一冊買わざるを得ない。おかげで書斎は益々狭くなって足の踏み場もないほどだ。


風土記

2005年08月28日 12時12分19秒 | Weblog


「人文地理的記述に傾いて、風俗記・名勝記・名産名物記などにもわたる地方誌というのが風土記に当たろう。」と校注者は述べている。島根方面にドライブに行くことが多い。附図を参照しながら難解な訓み下し文と取り組んでいる理由のひとつに、出雲をドライブする際に薀蓄のひとつでも垂れることができれば、同行者の歓心を買うことができるのではないかという不純な動機がある。

価格を需給関係からのみ設定してくれる例のありがたい古本屋で、岩波古典文學大系 2 「風土記」を300円で手に入れた。昭和33年の刊行で当時の定価が1000円、岩波のこの古典文學大系は現在でも図書館には必ずといってよいほど備えてある。

装丁や製本の重厚な仕上がりは刊行から50年近くを経た現在でも維持されているので、書籍と呼ぶに相応しい風格を備えた「風土記」をじっくり読むことがわたしにとってある種の贅沢であるとも言える。

抱擁

2005年08月28日 00時23分56秒 | Weblog

女友達が悩みを打ち明けると、わたしは女友達に解決策をあれこれ提示する。当然だ。ところが女友達は、そんな解決策についてあれこれ言う前に、もっとその悩みの内容をわたしに受けとめてもらいたいと言い切った。また今日は、男と女について考えさせられてしまった。

風姿花伝

2005年08月24日 00時48分42秒 | Weblog
              渡辺淳一

三島由紀夫の「葉隠」、石原慎太郎の「法華経」は一般に知られている。石原は、その著作である「法華経を生きる」の序章で、法華経について「ある時期から法華経が、私が生ある者として存在することを、その根底で支えてくれてきた。」と記している。われらが渡辺淳一は、「風姿花伝」をその種の古典として位置づけているようだ。「秘すれば花」という表題で、「風姿花伝」の解説書を書いた渡辺は、その序文で「わたしはこの書を人生の指針として愛読してきた。」と明言している。

ところが、この「秘すれば花」では、その「序」での戒め、即ち「好色・博奕・大酒、三重戒、これ古人の掟なり。」の解説が、ものの見事に割愛されているのである。「風姿花伝」を人生の指針にしている渡辺さん、大酒なら酒量の問題でかわせるだろうし、博奕なら現代でも法律で禁じられている。しかし、三重戒のひとつとして好色を戒められたのじゃ商売にならない、お手上げであろう。で、この好色関連の解説をすっ飛ばしたのであろうか?

実をいうと、この「風姿花伝」はわたしの愛読書でもあるのだ。食に関する嗜好といい、心の糧とする本著といい、妙に趣味嗜好が似ているような気がして心中が穏やかではないので、氏に軽いジャブを飛ばしてみる。多分届かないのであろうが・・・。

柄谷行人

2005年08月23日 00時09分28秒 | Weblog

予定通り、都合10日間きっちりと休暇を取った。考える時間も十分にあったし、かねてから読みたかった本に目を通すこともできた。今日は、久しぶりの社会復帰ならぬ会社復帰の日だった。仕事を片付けてから早めに会社を出て、久しぶりに近くの「ブックオフ」に寄った。食に関わるエッセーや「風姿花伝」の解説書等、何故か渡辺淳一の本が目に留まる。

帰宅後、柄谷行人の「探求 Ⅰ」の第3章 「売る立場」を読み直してみた。
「市場=社会的空間は根本的に多数体系的である。相異なる多数体系がなければ、剰余価値したがって資本もありえないであろう。だが、たしかに、そこにある均衡が成立しているようにみえる。アダム・スミスが「見えざる神の手」が働いているといったように。しかし、この均衡は、システム論的なものではない。すなわち、それは、規則によって交換がコントロールされているからではなく、反対に、個々の交換が耐えず規則を変更するからこそなのだ。」
市場経済の鬼っ子、営業に従事する者ならでは実感できる、一貫した理屈こそが柄谷行人の真骨頂なのである。

待賢門院璋子

2005年08月18日 19時15分05秒 | Weblog

正式には「たいけんもんいん たまこ」と読む。璋子は鳥羽天皇の中宮(皇后)になってからも、養父で鳥羽天皇の叔父に当たる白河上皇との間に関係があったといわれる。鳥羽天皇は、のちの崇徳天皇が白河上皇の子であることを疑い、かれを「叔父子」殿と呼んだ。その腹を痛めた7人の子供のうちのもうひとりが後白河天皇になった。ふたりはのち保元の乱で争う。

泰子が摂関家より皇后として送り込まれ、鳥羽天皇は美貌の得子に夢中で抱いてもくれない。公私共に璋子は悶々としていた。18歳年少の北面の武士、佐藤義清(西行)が母「みゆきの前」に似た璋子と叶わぬ恋に陥るのはこの頃である。肉体関係があったかどうかは定かではない。辻邦生もこの辺りは曖昧にしている。いずれにしても義清は激しい恋に身を焦がした。

当時独身であった古文の教諭が、この西行と璋子の恋について遠まわしな言い方で解説したことをぼんやりと思い出す。従姉憲康の急死や璋子との叶わぬ恋が出家の原因だと言われても、当時の社会的な背景や皇族の女性たちの生活環境、こういうものに関する理解もないのに、いきなり愛だ恋だ出家だ芸術家の孤独だじゃ、古文を嫌いにならないほうがおかしいと、今になって苦手科目の言い訳をしてみる。

璋子の生理について徹底的に調べあげて、のちの崇徳天皇が鳥羽天皇の子である可能性は全くないという結論を出した学者がいる。専門家と言うものは本当に怖い。

ダンマパダ(真理のことば)

2005年08月17日 08時46分28秒 | Weblog
 法句経    友松円諦 訳  

    152 聞くこと
       少なきひとは
       かの犂を引く
       牡牛のごとく
       ただ老ゆるなり
       その肉は肥ゆれど
       その智慧は
       増すことなからん
  
友松諦道 現代語訳 
学ぶことの少ないような、こうしたひとは、ちょうど牡牛のように、ただいたずらに生長するのみである。彼の肉体は肥えまさってくるけれども、しかし彼の智識は決して向上していくことがない。

 ブッダ真理のことば   中村元 訳

152 学ぶことの少ないひとは、牛のように老いる。かれの肉は増えるが、かれの知識は増えない。


いずれも、碩学によるパーリ語で書かれたダンマパダという経典の翻訳である。3つの訳はそれぞれ同じ内容をわれわれに伝えようとしているのであるが、こちらの心への響き様が、それぞれ異なる。
中村元が参照した邦訳として挙げている「新訳法句経講話」の著者である渡辺照宏が書く文章には曖昧さがないことを、過去、彼の著作を読んで熟知しているので、久しぶりに彼のこの著作に挑んでみようと思う。
我妻栄(民法学者)、林達夫や小林秀雄と同様に、渡辺照宏はわたしが畏敬する、明晰な文章の書き手のうちのひとりなのである。


女友達への手紙 ②

2005年08月17日 08時44分07秒 | Weblog


このメールを送ったのには理由がある。短絡的な考えといえなくもないが、鍼は結構いいのじゃないのかと思う。女性にも評判がいいようだ。そこでだ。体と栄養のバランスについて悩んでいるあなたのようなのが女性版鍼灸師になれば、これは受けると思う。断定的な言い方をすると臍を曲げそうだから、これ以上は言わない。

鍼灸按摩を拠って立つ職業にして、栄養の指導を付随して行えば更にいい。特に、国家資格を持った鍼灸按摩師というのは意外なほど稀で、女性の鍼灸師に至っては、殆どいない。最近知ったのだが似たような業種のカイロプラクティックやマッサージ、整体は民間資格なのだ。東洋医学の再評価も始まっている。どうだこうだと言われるのが嫌いなあなただから、自分で調べてから検討してみるといい。
                                  
おれは、あなたのように「ナンチャッテマクロビ」というほどふざけていないから、口にするものの一部自家栽培を始めた。トマトにキュウリという素人の定番であることが残念だが、自給して余りがあるほどの収穫だ。近いうちに相応の規模でファーミングを始める。格闘技については、少々オジン臭いが太極拳と取り組んでいる。お蔭で今までバカにしていた気功にも関心が持てるようになった。一応病人だから、目下、柔軟体操とトレーニングについては休んでいる。

じゃ・・・。


続 西行花伝

2005年08月16日 22時50分57秒 | Weblog

鳥羽院四天王のひとり源重実は、クソ真面目な若き佐藤義清(のちの西行)に向かって以下のような能書きを垂れる。『この世を楽しむには、まず留まることが必要なのだ。矢を射るとき、的に当てることだけを考えるひとは、目的を追うひとだ。だが、矢を射ることそのものが好きなひと、当たれば嬉しいが、当たらなくても嬉しいひと、そういうひとこそが、留まるひと、つまり雅であるひとだ。』

なんだか、坊さんの説法を聞いているようで面白くもなんともないが、妙に解り易い。ただ今、三の帖まで読み終えた。二十一の帖の終わりが525ページだから・・・、前途は多難だ。ここまで読んで初めて知ったのだが、平清盛と佐藤義清(西行)は同い歳であり、同じ北面の武士という元同僚同士であったという新発見もあった。以前から西行が生きた時代には興味があったので、一気に読み通したいと思う。

辻邦生著「西行花伝」

2005年08月16日 22時26分00秒 | Weblog

ぶらりと寄った古本屋で辻邦生の「西行花伝」を立ち読みしているうちに、この本が欲しくなった。価格がつけられていないのでレジの女性に尋ねた。「2000円までが800円で、えーと定価が3500円だから、1000円でどうですか?」という回答だった。この立派な装丁の本がたったの1000円とは・・・、拍子抜けした。

「買うてんですか?」という問いに「もちろん。」次いで、聞いてもいないのに、レジのおばちゃん「今年はお盆だというのに売上げが伸びなくてね。」だって。「はいはい、もちろんいただきますよ、そちらの気が変わらない内にね。」ニヤ?「なーにバカなこと言ってるのお客さん、ぎゃはは。」そういえば10年ほど前にこの店で、「日本国語大辞典全20巻」を5000円で買ったっけ?

なにしろ、風が向くまま気が向くままの自堕落なヴァケーションなのだ。自宅で、立ち読み部分以降の「西行家伝」を読み続ける。ふーん、西行ってマザコンで、スポーツが得意で、感受性が強く、長身のハンサムだったのか。蹴鞠が得意だったようだから、今ならプロサッカーチームで活躍して逆玉だな、などと不謹慎なことをつい考えてしまう。


清水文雄

2005年08月16日 13時27分48秒 | Weblog

三島といえば、学習院時代の恩師、故清水文雄という広島高等師範を出た国文学者を終生の師と仰いでいたことが知られている。後、清水文雄は広島大学で教鞭をとり、定年退官後は比治山女子短期大学の学長を務めた。

2003年の8月に、「師・清水文雄への手紙 三島由紀夫」という本が出版され、手紙99通が公表されている。手紙のあて先が高陽町の下深川になっているので、清水文雄はわが家のかなり近くに住んでいたということになる。そういえば、息子さんが広島で高校の教職についているという話を聞いたことがある。

三島の「豊饒の海」4部のうち「春の雪」と「奔馬」までは読み進んでいる。ちょうど後半部に相当する「暁の寺」と「天人五衰」を読んでみたくなった。一昨年に初版本を購入している。

読書について ③

2005年08月14日 23時32分48秒 | Weblog


決して「読まず嫌い」ではないが、わたしと著作や作者との間には、相性の良し悪しというものが歴然としてある。

例えば、わたしは五木寛之と相性が悪い。「さらばモスクワ愚連隊」や「青年は荒野をめざす」を読んで、正直言って呆れた。同じ世代の野坂昭如は積極的に読むというのに、以後、五木は読む気すらしない。特別な理由などない。ただ五木の他の著作のさわりを読むだけで相性が悪いように感じてしまうのだ。

一方でどうやら、柄谷行人とは相性がいい。文庫本で5冊ほど買い込んだ。かなり目にきついので、大きな文字のハードカバーを探している。いまだに見つからない。眼精疲労を覚悟で文庫本で読んでみるかどうかを、思案中である。

なにしろ思想書だから、新本を求めようなどという気は毛頭もない。少々古かろうが、読めればそれでいいのだ。しばらくは古本屋巡りが続きそうだ。古本屋巡り、これがまた楽しくてならないのだ。