旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

湧永庭園

2007年06月29日 23時36分36秒 | Weblog
広島県の中央部に、湧永庭園という広大な庭園があります。つい最近まで、バラ園が賑わっていました。その名のとおり、湧永製薬の創業者が個人で造った洋風の庭園だと聞いています。公園ではありません。

無料で市民に開放されています。よく整えられた庭園を歩くと、自然と一体化したような気分になれます。都会の喧騒を離れて、しばし自然の中で寛ぐにはいい場所です。こういうサービスはいいですね。湧永製薬の皆さんの溌剌とした対応にも好感が持てます。


ジャニス

2007年06月25日 23時44分41秒 | Weblog


なんとも凄まじい姐さんだ。CDを聴くたびに心を揺さぶられる。ジミヘン、ディラン、彼らと共通する何ものかを持っている。男狂いにロック、ブルーース狂い。それにしても搾り出すような9オクターブはすげえ。ヘロイン中毒で急逝、享年28歳。いつの時代にもいるのだ。この種のクレイジーな人間が。

ジャニス・ジョプリン

クレーム

2007年06月22日 09時07分18秒 | Weblog


本社から派遣された4人に支店長を加えて6名で話し合った。導き出された数値そのものに問題はない。証券に記載された数値の表示法に問題があるのだ。いわば条件つきの数値なのであるが、そのことが証券上に記載されていない。この証券に表示されるべき日時やコメントが表示されていないから、クライアントに説明がつかないのだ。わたしの主張はこの点で一貫している。

本社側では、数値そのものに問題がないことを説明しようと躍起だ。そんなことは半年前から承知している。クライアントは証券に記載された内容から契約内容を確認する。だから証券は、契約内容を明確に表示したものでなければならない。証券から契約された事実(契約の正しい内容)が推定される。

表示の内容に「漏れ」があることを、本社側は容易に認めた。しかし、システムそのものに誤りがないことを執拗に説く。察するに、システムそのものに問題はないようだ。そんなことはどうでもいい。問題は、あくまで表示が誤っているという事実なのである。

そこで、本社側に「折れ」てみることにした。確かに表示は誤っているが、クライアントはシステムそのものを疑うような動きを始めている。システムに異常はない。担当者としてこの点は強調しなければならない。

2007年06月22日 08時24分49秒 | Weblog



たっぷりと水分を取った10ばかりのバラの蕾は、来週にかけて大振りな緋色の花を楽しませてくれそうだ。色づき始めた赤と黄色のプチトマトも、やがて、はちきれそうな光沢へと変わっていくことであろう。スイカのつるは間もなく黄色い雌花をつける。久しぶりのいい雨になった。

『大学』 第三章

2007年06月21日 22時49分24秒 | Weblog
心不在焉 見而不見 聴而不聞 食而不知其味 此謂終身在正其心

心ここに在らざれば、見れども見えず、聴けども聞こえず、喰らえどもその味を知らず、此れを、身を修むるはその心を正すに在りと謂う。

(腹が立つことや恐れおののくこと、楽しみ浮かれるこころや悲しい心配事があると身の正しさを保つことができない。つまり、心が動揺すると身は修まらない。)
(したがって)心がしっかりと正常に落ち着いていないと、何かを見てもはっきりとは見えず、何かを聴いてもはっきりとは聞こえず、何かを食べてもその味がわからない。「わが身をよく修めるには、まず自分の心を正すことだ」というのは、こういうことである。(一部改竄)

        岩波文庫ワイド版 「大学・中庸」

禅では不動心と呼ばれる、あの境地のことなのであろう。

陽明学講話 

2007年06月21日 22時13分04秒 | Weblog
『書物というものは、手段である学問の、またその道具であるということを承知せねばなりません。王陽明は四書五経というような書物は、人の心を説明してあるもので、心が本文であって、書物は心の注釈だと申しております。
また申しますには、書物は財産目録のようなもので、財産そのものではない。世の学者はただ書物を目的にして学問をするが、これは昔の長者の子孫が、今は貧乏しているというのに、今はありもしない先祖の財産目録を振り回して、金持ち気取りでいるようなものだと戒めております。』

昭和9年8月、日本放送協会が朝の修養講座として聖典講義のラジオ放送を企画した。講師山田準による、その講義録の一部である。陽明学が学問研究を疎かにするという非難に対して、陽明学は決して学問を疎かにはしない。学問には「良知を致して聖人になる」という真の目的があることを所与として、上記の喩え話が続く。

エイトマン

2007年06月10日 22時03分35秒 | Weblog




光る海 光る大空 光る大地 
行こう 無限の 地平線 
走れエイトマン 弾よりも早く 
叫べ 胸を張れ 鋼鉄の胸を

呼んでいる 呼んでいる 呼んでいる 
立とう 正義の 旗の下 
誇れエイトマン 天より高く 
ふるえ その腕を 鋼鉄の腕を

燃える空 燃える風 燃える心 
進め 無敵の 力持て 
行けエイトマン 誰よりも強く 
響け轟け 鋼鉄の男 

      作詞 前田武彦


あーあ、エイトマンになりたいよ、まったく・・・ort.


戦い済んで日は暮れて

2007年06月09日 06時06分43秒 | Weblog
              鉄人28号 

火曜の夕方から、あしかけ5日間、延べで30時間も折衝しているというのに、本社は、いまだに意見を集約できない。依頼したのは、本社がクライアントに提出した4葉の証券の数値が正しいのか、間違っているのか判定して欲しい、ただそれだけの内容だ。

クライアントは医療法人である。しかも全く同じ証券4葉に集中して3度発生したクレームだ。クライアント側から見ると、1回目は過失で済む、2回目は重過失、3回目になると故意もしくはシステムに致命的な欠陥があるという判断になる。

相次いだ2度のクレームに営業生命を賭けて対処した。説得するのに半年かかった。ようやくクライアントが説得に応じてくれた矢先のクレームだ。私もこの件に関しては疲れ果てている。

本社は、誤りであったと認めた証券と同じ内容の証券をクライアントに送付しておいて、今回は数値が間違っていないというのだから、担当である私も戸惑っている。

わたしの知識をもってすれば、明らかに数値は誤っている。しかし、本社という奥の院には、営業マンの暴走を押しとどめるための「ウルトラC」や「あっと驚く 為ゴロー!」的な罠がそこいらじゅうに埋めてある。こちらも自ら勇んで罠にかかりに行くほど愚かではない。相応に老獪なのである。

まずは、わたしの知識や論拠に誤りがないかどうか、本社に検証させる必要がある。ところが今回は、その判定の任に当たる担当者がなかなか出てこない。前回、誤りを認めた担当者はアメリカに出張中だ。

私の同僚たちは悉く私の論拠が正しいと言う。本社が送った証券の数値が誤っているに決まっていると言う。ところが、同僚たちの烏合の衆的評定ほど当てにならないものはない。要は無責任なのだ。身内が窮すると付和雷同的に同僚の肩をもつ。したがって、ある種の仲間意識が冷静な判断の邪魔になっていることが多い。

事実はひとつなのだ。判定は、来週に持ち越された。さてさて、どのような判定が下ることやら・・・。わたしの闘いは続く。

アウトロー

2007年06月07日 06時08分04秒 | Weblog




その昔、気の置けない友人から「お前さんはアウトローだ。」と言われたことがある。outlawといえば、わが国では一般に「無法者」と翻訳される。英英辞典によると a person put outside the protection of the law つまり criminal 善意に解釈して、せいぜいが one driven out of his countryであるということになる。

他人の評価というものは、本人が自覚するその数倍は確かなようである。昨日のわたしは、どうしようもないアウトロー(無法者)であった。自分がアウトローであることを追認して、なお、お釣りがくるほどの狂態であった。

本社が2度ならず、3度もトチってくれた。怒り心頭で最高責任者に釈明を求めた。その管理責任を問うと逃げにかかった・・・、というよりも事態を把握していないことが判明した。頭にきて追い詰めると、最高責任者は返答に窮した。

本社要員400名を統括する職責だ。ひとつの失敗に拘泥したのでは本社の機能が停止しかねないことくらいは承知している。万物は流転するし諸行は無常なのだ。

ところがこっちは、リアルタイムでクライアントと折衝をしている。営業マンがしっかりしているのだから、本社はコンプライアンスと営業マンの意向に従って動いていればそれでよい。本社は現場の担当者、つまりわたしの指揮に従えばよいのだと日ごろから確信しているから、とうとう熱い血が逆流してしまった。で、気がつくと最高責任者を詰問していた。追い込んでいた。

こんなことばっかりやっているから地位や名誉と無縁だ。「アウトローの一匹狼」といえばカッコいいが偉くなれそうにもない。「オレって意外に経営者に向いていない?」と嘯いてみたら、経営者として相応の苦労をしている親愛なるKさんからピシャリと言われた。「戯けたことを言うな!アンタみたいなのが出世できるはずがない。私だってゼッタイにアンタみたいなのを上にはあげないから心配するな。働け働け!」・・・と。

「心配してくれなくたっていいよ。こっちは所詮アウトロー!なんだから・・・。」と言いかけてやめた。これじゃまるで負け犬の遠吠えだ。いい年をして、いまだに負けん気だけが強い自分に、少々疲れたような気がした。老いの一徹とでもいうのだろうか?性分なのだろうか?

最高責任者にたどり着くまでに、3人の社員を罵倒してしまった。鋭い舌鋒でやられた彼らの腸は、煮えくり返っているだろうなと思えば、後悔の念もたつ。本社とひと悶着あった後、なぜか「節度」という言葉が思い浮かんだ。またひとつ年をとったような気がする。小ぶりな赤いバラが3輪、庭に咲いた。

ドイツ哲学

2007年06月02日 00時01分23秒 | Weblog


『カントは、ドイツ語で、ギリシャ以来の哲学的思考を「翻訳」しながら、しかも独創的に考えようとした。ところが、カント時代のドイツ語は、学問語としては、一地方語に過ぎなかった。いまだラテン語が学問語であった。

したがって、カントの考えがきわめて重要であったにもかかわらず、それを簡明に盛り込むレディーメイドの「自国語」がなかった。だから、カントが造らなくてはならなかった。生煮えのドイツ語、生硬な表現の連続になった。

学問語はラテン語として固定すると、ごく少数の専門人にしか伝わらなくなったように、ドイツ語で哲学が成熟すると、ドイツ語以外での哲学はだめで、カント・ヘーゲル以外は哲学ではないという理由から、ドイツ語圏以外のところにうまく哲学が広がらなくなってきた。

日本に哲学が輸入されはじめたのは、ドイツ哲学が硬直化し始めた時期に当たる。ちょうどカントがドイツ語で「哲学」的思考を行ったように、日本人は、ドイツ語からの「翻訳」を通じて、日本語による哲学・論理的思考を始めた。』

「大学教授になる方法」で駄本を売りまくった鷲田小弥太教授の見解である。「哲学徒時代に、カント研究を志したが結局ものにならなかった」原因を以上のように言い訳している。正直なのか才能がないのか、素人の私には解らない。

しかし私とて、こういう解説を事前に聞いていれば、カントの読み方はもっと違ったものになっていたように思う。若かりし頃、哲学にかぶれて、カントを懸命に読み取ろうとしたものの、結局カントのカの字も理解できなかった。

カント的な言い回しになる。唯一理解できたのは、道徳律が存在することが神の実在を証明することになるという、詭弁なのか論証なのか判断に苦しむ詭弁的な論証くらいのものである。

翻訳という面からみるとカントは、堪能なサンスクリット語で書かれた仏典を、期するところあってドイツ語に翻訳しようと目論んだようなものだ。ドイツ語には仏教用語がないのだから、当然難解な翻訳にならざるをえない。

もっとも、原始仏典に関していうと、現在ではドイツの研究が最も進んでいることくらい承知している。あくまでものの喩えである。

月下独酌 其の四

2007年06月01日 00時01分32秒 | Weblog



月下独酌

窮愁千万端 美酒三百杯
愁多酒雖少 酒傾愁不来
所以知酒聖 酒酣心自開
辞粟臥首陽 屡空飢顔回
当代不楽飲 虚名安用哉
蟹螯即金液 糟丘是蓬莱
且須飲美酒 乗月辞高台

    李白

思うにまかせぬ愁いは幾千万、
美酒はわずかに二百杯。

愁いは多く酒は少ないけれど、
酒を傾ければ愁いは消える。

だからこそ、酒の聖なる効用が知られ、
酒がまわれば心は自ずから開くのだ。

周の粟を食べないで餓死した伯夷・寿叔兄弟、
学問に励んだ顔回は貧困の中で飢えた。

この世で酒を楽しまなければ、
節義や学問など何の役にも立たない。

蟹のハサミの肉こそが不老不死の金液、
酒糟の丘こそが不老不死の蓬莱山。

ひとまずは存分に美酒を飲み、
美しい月光に照らされたあの高楼で酔い知れることにしよう。