旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

カール・ヤスパースの戦争責任論

2008年01月29日 23時18分43秒 | Weblog

ヤスパースは各人が負っているであろう罪責の内容をはっきりさせるために、
①刑法上の罪 
ニュルンベルクの国際軍事裁判で裁かれる罪
②政治上の罪 
ナチス国家を支持してきたという罪
③道徳上の罪 
自らの内面において良心の呵責を感じる作為に対応する罪
④形而上学的な罪 
同じ人間としてこの世に生きていながら、知らないところで苦しんでいるひとたちに対して何もしてあげられない罪
の4つの罪概念を区別して、ドイツ国民の戦争責任をめぐる議論の先駆けになった。

仲正昌樹著「日本とドイツ 二つの戦後思想」より抜粋改竄


カール・ヤスパース - Wikipedia

来歴
早い頃から哲学に関心を抱いていたものの、父が法曹に身を置いていたため、ヤスパースは大学で法学を学びはじめる。まもなく1901年には医学の道へ転向。1909年に医学部を卒業した後はハイデルベルクの精神病院で医師として働く。そこで当時の医学界の精神病に対する姿勢に疑問を抱き、精神医学の方法論の改良を目指すようになる。1913年にはハイデルベルク大学で精神医学を教え始め、以後、臨床に戻ることはなかった。しかし彼自身の精神医学に対する関心は終生変わることはなく、処女作『精神病理学総論』の分量を大幅に増やし、改訂版第4版として公刊したのは第二次世界大戦後である。

精神医学から哲学に転じたヤスパースは1921年から1937年まで同大学哲学教授を務める。この時代にハンナ・アーレントも彼の教えを受けた。ナチス台頭後、妻のゲルトルートがユダヤ人であったことやナチスに対する反抗で大学を追われたものの、妻の強制収容所送致については自宅に2人で立て籠もり、阻止し通す。大戦も末期の頃、ヤスパース夫妻の収容所移送が決定されもはや自殺する以外に打つ手がなくなるところまで追い詰められたが、その移送予定日も残すところ数十日程度に迫った頃に米軍が彼の住むハイデルベルクを占領したため、後年自ら「自国の政府により殺される寸前、敵国の軍隊により命を救われた」と述懐しており、この戦争体験は彼の哲学に対して見逃すことのできない強い影響を与えたと言われている。戦後、ハイデルベルク大学の復興に尽力するも、ドイツの戦争責任問題について執筆した『責罪論』を巡って周囲から心ない非難を浴びせられたため、ドイツの将来に失望して、1948年にスイスのバーゼル大学の哲学教授となった。ドイツに対する裏切り者呼ばわりされ、彼は深く傷ついたという。

しかし彼の多彩な活動はとどまるところを知らず、特に戦争体験を機に彼は政治哲学的著作を数多く執筆し、既述されている『責罪論』もその1つである。また戦後に始まった資本主義と社会主義の二大陣営による東西冷戦が核武装競争と化す過程に対して、核兵器という全人類を絶滅させる恐れのある兵器、及びその破壊力に対する恐れから両陣営ともが気にかける手詰まり状況、このような状況を彼自らの概念である「限界状況」と捉え、政治的な対話を「交わり」と捉えるなど、単なる学問としての哲学にとどまらない積極的な活動を展開していたことも、彼の戦争体験が深く関わっていると考えられる。1959年、エラスムス賞受賞。


思想
限界状況のうちに超越者との遭遇が隠されており自己の存在と超越者を求める努力は、挫折する。しかし挫折を暗号として解読することに超越者の存在が証言されるとした。

彼はキルケゴールの影響を強く受け、特に著作『世界観の心理学』においては、キルケゴールの著作『不安の概念』及び『死に至る病』から多くを引用した「キルケゴール報告」の1章を設けている。そこからヤスパースは、神へと向かう人間存在(実存)についての「心理学的研究」というキルケゴールの方法論を見出し、その際の心的状態が「不安」及び「絶望」である。ヤスパースの主著『哲学』第2巻『実存開明』において、<交わり><限界状況><絶対的意識>の3つが彼の哲学の目標とするところの「存在意識の変革」へと達するための重要な概念である。まず<交わり>とは自己開示であり、各人が自らに閉じこもることなく他者へと向かい、それにより自己自身の存在に対する意識を反省するのである。次に<限界状況>とは誰もが突き当たる壁のようなものであり、それの典型的なものが「自己の死」であるとされ、それに突き当たることによって、各人がそれまで意識していた自己自身の存在に対する確実性の挫折を自覚させられるのである。そして最後の<絶対的意識>とは自己自身の存在確信にして、超越的な存在に面している意識である。<限界状況>により自己存在の有限性は意識させられたが、それはまだ消極的な有限性の意識であり、「無制約的なもの」という超越的存在に面することにより自らの有限的な存在が反省させられ、そのような超越的存在に面している自己自身という存在確信が得られるのである。そしてキルケゴールから得た<不安>とはヤスパースによると「絶対的意識の動因」となる。なぜなら我々は自己存在の確実性をいかなるものからも得られず、このような心的状態が不安であり、他者や財産及び自己自身の肉体のあらゆるものをもってしてもこの不安が解消されないので、そのために人間は「超越的なもの」へと向かって自己存在の確信を得るとともにこの不安を克服する勇気をも得るのである。

精神医学分野では、エトムント・フッサールの唱えた「奥にある本質病理に関する直観的推測」を排し、ひたすら患者の言葉の正確な記述に徹する「記述精神病理学」を試みた。


主な著書
『人間とは何か』 (Was ist der Mensch?)
『教育とは何か』 (Was ist Erziehung?)
『現代の精神的状況』 (Die geistige Situation der Zeit)
『哲学』
『哲学とは何か』 (Was ist Philosophie?)
『哲学入門』 (Einführung in die Philosophie)
『哲学的論理学第1部 真理について』
『理性と実存』
『偉大な哲学者たち』 (Die grossen Philosophen)
『ニーチェ』 (Nietzsche)
『世界観の心理学』 (Psychologie der Weltanschauungen)
『歴史の起源と目標』 (Vom Ursprung und Ziel der Geschichte)
『ヤスパース・アレント往復書簡』
(Briefwechsel 1926-1969, Hannah Arendt, Karl Jaspers)
『ヤスパース・ハイデッガー往復書簡』
(Briefwechsel 1920-1963, Martin Heidegger, Karl Jaspers)

改め 釈迦に説法

2008年01月23日 00時13分00秒 | Weblog
①>搾取による貧困なら 貧困の話しても しょうがないってことだったんで そうじゃない貧困があるなんて 知らなかったんで<

②>イレギュラーな自然災害 もしくは、 搾取のない所に 果たして 食うに困るような貧困があるでしょうか? 僕は、ないと思うので どうにでもなる と言いました。 そして、 貧困の原因が 前者ならば、 それはどうしようもない。 後者ならば、 貧困を話題にしてもしょうがない。<

ここでもおしゃかさんさまは貧困という言葉を、飢餓という言葉と混同しているように思われますが、まあいいでしょう。①に対する反証です。『ひとりの自営業者がいました。あるひとから頼まれて、家を担保にいれてお金を借りて貸しました。回収できなくなりました。家屋敷を売り、有り金をはたいて借金は返しました。自営業者は目下無一文です。これって貧困じゃないんですか?この自営業者って搾取されていますか?』もちろんNoですから、搾取によらない貧困があるということです。あなたが知らない、あるいは、あなたの想像力が貧困なだけです。

②については、おしゃかさんさまが貧困という言葉の用法を誤っているように思いますが、まあ、愛嬌ということでいいでしょう。貧困とは、貧しく苦しいこと。乏しいこと。欠けていること。を言います。搾取や天災が原因ではない「貧しく苦しいこと」なんてたくさん事例があります。ないと言えるおしゃかさんさまの良識と想像力を疑いたくなります。搾取理論の鬼マルクスだって、搾取を条件としない貧困はこの世に存在しないなんて言っていません。「資本論」執筆中のマルクスは、搾取をされるような環境じゃなかったのに貧困の極みにあったことはよく知られています。搾取という概念の勉強が足りないのではないですか。おしゃかさんさま?

新々 釈迦に説法

2008年01月22日 20時01分27秒 | Weblog
>妥協と言いますが、 弁護士になる ということは 目的にならないでしょう? 到達点、通過点にしかならない。 そんなものは 状況に応じていくらでも変更していく判断力 が寧ろ必要だと思う。<
おしゃかさんさま?わたしができるだけあなたのコメントを、そのまま引用していることに留意してください。この意見は、わたしのどういうコメントに対する意見なのですか?このコメントでは何を言いたいのかさっぱり解りません。

>弁護士になりたいという意欲について例示してみただけです。意欲とは①意思と欲望 ②何かをしようと思う心のことですから、「あのひとは裁判官になりたいという大いなる意欲をもって、ロースクールに入学した。」という表現はおかしくありません。<
というコメントに対する意見ならば、回りくどい表現はやめて、「あのひとは裁判官になりたいという大いなる意欲をもって、ロースクールに入学した。」という表現が正しいものかどうかについて、YesかNoかで答えてください。Noという回答ならばその論拠を示してください。

>言葉の意味には 幅があるし 時が経てば変わっていく。<
だからこそ相手に誤解を与えないように、用心深くコメントする必要があるのです。相手に解り易くコメントする必要があるのです。

>話題のキーとなる言葉に対して、 その一般的意味を発展させた 独自の使い方をして 話を展開していくっていうのは 頻繁に見られる手法だと思うので<
その『独自の使い方』というのが曲者でね。特に、おしゃかさんさま、あなたの場合。

>かなりの人が、 強大なコンプレックスに縛られて 身動きが制限され 視界が遮られている様に思えてならない。 自ら、世界を制限している様に見えて あまりにもどかしい。<
最初は何を言いたいのかと思いましたが・・・、ここで使うべきはコンプレックスという言葉じゃないでしょ?新興宗教の開祖じゃないのだからおしゃかさんさま、こういうオーバーな表現は慎みましょうね。

>"あります。" と断言された 貧困の話を 私としては 何より聞きたいです。 お願いします。<
「貧困を話題にしてもしょうがない。」とついさっき言っておいて、また話が逆戻りですか?搾取の話がしたいんじゃないのですか?おしゃかさんさま・・・。おしゃかさんさまはわたしのコメントを読んでいないし、自分が書いたことも忘れている。支離滅裂ですよこれじゃ。呆れる・・・。

>私は、 そもそも無駄と思ったら、とっとと見切って相手にしない質ですので どうか、気を悪くしないで頂きたい。<
とおしゃかさんさまは言いますが、ま、せいぜい相手に見限られないようにしてくださいな。

新 釈迦に説法

2008年01月21日 11時47分31秒 | Weblog
確かにね、
>つくづく 他人がどう受け取るかは予想付かないもんだ。 と思いました <
なのでしょうね。一理あります。

でもね、相手が誠実に対応しようとしているのに、
>私は、 そもそも無駄と思ったら、とっとと見切って相手にしない質ですので どうか、気を悪くしないで頂きたい。<
と言われと、
>つくづく 他人がどう受け取るかは予想付かないもんだ。 と思いました <
では済みませんよ。

だから、
>ネットの書き込みって 本人はそんなつもりなくても とっても攻撃的とか 否定的とかに 映ってしまったりなんてのが ありがちだったりするから、 それを嫌って、 本筋とは関係ないことを、 長くなりがちなのを 一方で気にしながらも それを犠牲にしてでも 書き添えてみたんですが、 失敗以上の逆効果だったみたいです。<
と自戒されるする前に、自分が書いた
>私は、 そもそも無駄と思ったら、とっとと見切って相手にしない質ですので どうか、気を悪くしないで頂きたい。<
という言葉が、どれだけ不遜で傲慢な言葉であるかを考え直してみた方がいいですよ。

自分はすべてを理解しているのだから、何を言っても相手は理解してくれるはずだと考えるのは大きな間違いです。あなたが、次にコメントすべきは、
>なんとも傲慢な響きがありますね?ご自身を何様だと考えているのでしょうか?そんなこと言われると議論が成り立ちません。困ったおしゃかさんさまですね?<
という感慨に対する弁解で然るべきであったのではないでしょうか ?


>ここで どんなのでもいいから ニューパーソンが登場してくれると、 いい感じかなぁと、思ったりして… <
これから本格的な会話が始まるというのに、もう旅支度ですか?
>私は、 そもそも無駄と思ったら、とっとと見切って相手にしない質ですので どうか、気を悪くしないで頂きたい。<
わたしは、自分に都合が悪くなる、自分の考え方と異なる相手だと消えるのではなくて、「去る者は追わず、来る者は拒まず。」を信条としています。ま、お元気で・・・。



意欲という言葉は、①意思と欲望 ②何かをしようと思う心、をいいます。だから、おしゃかさんさまの意欲という言葉に対する認識と、わたしの意欲という言葉に対する認識にさほど大きな差異があろうはずがありません。否、認識に大きな差異があったら会話はなりたちません。

>意欲の定義を ここで議論するつもりはなかったので<
とおしゃかさんさまは言いますが、たとえば、何かをしようと思う心(意欲)が経済的な要因でかき消されることなんて、ありふれたことで、むしろ自明のことじゃないですか。定義云々の問題じゃありません。おしゃかさんさまが別の定義を用いるのならば、その特殊な定義を開示していただかないことには、話が前に進みません。

それを、
>意欲と食うことは 別の話で 食うことなんて どうとでもなるんですよ 頭カチコチでなければ。<
だなんて・・・。わたしは本当に理解に苦しみます。おしゃかさんさんさまはきっと恵まれた環境に身を置いているのでしょうね。だから、無関心に世の中を見つめておれるのでしょう。経済的事情によって意欲を遮られている例なんて、スモーキーマウンテンでゴミ漁りをしているフィリピンの子供の例を出すまでもなく、ありふれています。日本国内には貧困が原因で絶望的な生活を送っている子供たちがいないとでも考えているのでしょうか。

当初の論題であった自己満足という言葉は、「自分自身または自分の行為に、みずから不満のないこと。」であって、おしゃかさんさまが別の解釈をしたにしても、やはりそういう意味なのです。他人から意見を聞こうとか、他人に自分の考え方を解ってほしいという願望があるのなら、意欲があるのならば、もっと解りやすい文体を心がけた方がいい。

ハッキリ言って、今のお釈迦さんさまの論法は、子供のそれです。自分が言いたいことを表現できていないのに、相手に理解を求める。そういう「obscureな曖昧主義」(羽に五郎曰く)の態度では、それこそ、言動のすべてが自己満足に終わってしまいます。ご用心、ご用心。


発熱

2008年01月20日 20時55分26秒 | Weblog
罰が当たったといわれても、ひとに罰を与える存在なんて信じていない。自業自得というのであろう。平生の不摂生が祟って風邪をひいた。昨日など震えがきたので体温を計ると39度5分である。

今日の昼前に当番医にみてもらった。インフルエンザの可能性があるとのことだった。「検査しますか?」と言われたので躊躇なく「お願いします。」と答えた。15分ばかりを経て、「インフルエンザ」ではないという検査結果が出た。いっしょに検査をうけたひとがインフルエンザであった。待ち会いで15分ほど同じ空気を吸ったことに一抹の不安を残したが、まずは一安心した。

昨夜は、布団の中でガタガタ震えながら、昨年行ったバリの太陽と空気、田園風景を思い浮かべていた。今日は病院帰りの氷雨の中で、約束をしている明日のフランス料理の会食をどうするかを考えていた。

思えば

2008年01月17日 21時28分19秒 | Weblog
11日にはアメリカ帰りの友人と夜明け前まで飲んだ。12日にはクラブの仲間と真夜中まで飲んだ。13日は友人の奥さんの通夜、13日が葬儀であった。15日は大学の同窓会幹事仲間と新年会で飲み、のち同僚と深夜まで飲んだ。そして19日は身内の納骨、20日は元同僚の7回忌にでる。26日には法事がある。酒と葬祭の合間に仕事をして食べそして眠っているような日々が続く。

西部邁著「経済倫理学入門」

2008年01月14日 23時57分20秒 | Weblog
久しぶりに西部邁の著作に目を通してみた。古本屋で立ち読みをした段階ではレトリックが過ぎるような気がしないでもなかった。それにしても105円である。迷わずに買った。「ケインズの墓碑銘」と「ヴェブレンの黙示録」の二部構成である。

ケインズ理論の中核が数学であることを承知している、だから興味がわかない。また、殆どの経済学のテキストはケインズ理論にふれているので、西部の手を借りる必要もない。飛ばし読みで済ませた。読書に関しては好き嫌いが激しいのである。

異端の経済学者ヴェブレンについては「ヴェブレン研究」という専門書をもっている。十分な予備知識があるし、勃興期のアメリカ経済の実相について描かれた「有閑階級の理論」は若かりし頃の愛読書だ。

衒示的(げんじてき)消費という概念は、消費の動機一般が、その使用価値にのみ依存するものではないことを見事に例証している。例えば金持ちは、他人よりも高いものやサービスを買うことそのものに消費の動機があるのであって、コストや使用することによって得られる効用と価格との間には、学者たちが言うほどの相関関係がないというのである。

ヴェブレンは典型的な奇人変人であった。どのくらい変っていたかについて西部の言及は詳細にわたっている。ところが西部の表現は、どちらかというと社会科学的ではなくて文学的なのである。その結果、ヴェブレンの奇人変人ぶりの印象が強すぎて、その個性が彼の経済学にどのような影響を与えたかについて解明することに失敗しているように思う。


夢のカリフォルニア

2008年01月14日 20時59分33秒 | Weblog
夢のカリフォルニア
(California dreamin)

All the leaves are brown
All the leaves are brown
And the sky is grey
And the sky is grey
Ive been for a walk
Ive been for a walk
On a winters day
On a winters day
Id be safe and warm
Id be safe and warm
If I was in l.a.
If I was in l.a.
California dreamin
California dreamin
On such a winters day

Stopped into a church
I passed along the way
Well, I got down on my knees
Got down on my knees
And I pretend to pray
I pretend to pray
You know the preacher likes the cold
Preacher likes the cold
He knows Im gonna stay
Knows Im gonna stay
California dreamin
California dreamin
On such a winters day

All the leaves are brown
All the leaves are brown
And the sky is grey
And the sky is grey
Ive been for a walk
Ive been for a walk
On a winters day
On a winters day
If I didnt tell her
If I didnt tell her
I could leave today
I could leave today
California dreamin
California dreamin
On such a winters day
California dreaming
On such a winters day
California dreaming
On such a winters day


Mamas & The Papas lyrics

執着

2008年01月14日 12時19分42秒 | Weblog
つい最近、若い女友達から「観念と意欲の塊のようなひとね、なにもかも自分の定規で測らないと気が済まないひとなのね?」とお褒めの?言葉をいただきました。「ああ。」と答えておきました。「山岡鉄舟に憧れる愚者」さんのアドバイスもありがたく、わたしなりの「無の境地」で拝読させていただきました。

「無を目指したら」の無は、おそらくは禅でいうところの無のことじゃないかと推察します。「悟りとはどのような境地を言うのですか?」と師如浄に問いかけた道元に対して、師は「悟りとは坐禅のことをいう。」と答えています。きっと「自分の頭で考えろ。」という助言なのでしょうね。

鈴木大拙はその著作のなかで、禅宗は中国人の仏教であって、シッダールタ固有の仏教とは異なる仏教であると考えた方が理解しやすいと評しています。原始仏典を心の糧にしています。 原始仏典を通読して見えてきたのは、シッダールタの宗教は思想の範疇なのではないのかということです。無の境地については改めて学んでみることにします。

このように考えるわたくしですから、執着や欲(特に学ぶ意欲)を容易に断ち切ることができそうにありません。ただ「いっそ ご自分の物差しを捨てて,無を目指したら,叡智が生まれるような気がします…」という励ましのお言葉は、しっかりと心にとどめておきます。ありがとうございました。


続 釈迦に説法

2008年01月14日 03時37分06秒 | Weblog
資本主義の世の中では、企業はサービスないしは財貨を売って儲け続けない限りは倒産の憂き目にあいます。経済的に安定して初めて哲学だの思想だのと言えるのであって、倒産しそうな会社に勤めていたり、破産しそうな生計を営んでいるようではそんな余裕なんて生まれません。

不労所得があるひとや学歴に既得権益があるひとならば、思想だの哲学だのに「ウツツヲヌカス」余裕もあることでしょう。ところが、わたしのように不労所得はない、際立った学歴もないとなると、営業の実践の中から、またはアフターファイブを利用して「哲学する」「思想する」しかないわけです。

過酷な現実に直面して悩んでいるビジネスマンが多い。わたしのような生業としての会社勤め、すなわちサラリーマンやビジネスマンを業とする労働者は、我が国の圧倒的な多数派です。だから、お金儲け専従の結果、精神や心が荒廃しやすい環境下にあります。哲学とか思想にふれることと営業という極めて資本主義的な職種とは馴染まないと考えているひとも多いし、実際にビジネス、特に営業の世界では哲学や思想が無力です。数字が優先する分野ですから、挙績の悪い営業の哲学や思想は総じて「いいわけ」であるととられてしまいます。

突き詰めると解決法は二通りに集約されます。すなわち環境(外界)を変えるか自ら(内面)を変えるか。われわれに世界観を提示して、正しい勤労について指針を与えてくれたり、心に新たな息吹を与えるのが哲学なり思想なりの力じゃないのかと考えてます。新たに何事を始めるにもまず必要なのは先達からのヒントです。宗教や信仰だっておそらくは同様の力をもっているのじゃないかと思います。(特定の信仰をもっていないので、正直なところよく解りません。)

以前にも書いたように、目下、王陽明クレイジーです。「知行合一」とか「心即理」とか「万物一体の仁」とかの成句で知られています。原著に当たって、これらの成句にかかわる部分を通読するだけで、日本語的な響きとはかなり異なった含蓄がありますのでお勧めしておきます。中国哲学、といっても儒学のごく狭い学識しかありません。それでも「論語」や「大学・中庸」、陽明の「伝習録」を読むだけで見えてくるものがあります。

でもご用心。わたしの心に響く同じ古典が、例えばおしゃかさんの心に響くとは限りません。興味ないしは知的な好奇心が赴くまま片っ端からとにかく読んでみる。こういう読書がわれわれの哲学なり思想なりを形造ってゆくのでしょうね。以上、「釈迦に説法」になっていないことを祈っています。長文に駄文で失礼しました。

酔っ払いの戯言

2008年01月14日 00時29分33秒 | Weblog
一昨日の夜の9時頃から始めて、その翌日にあたる昨日の午前2時頃まで食べて飲んだ。美味しいイタリア料理にワイン、美女二人に知性派の男性とわたし。最高のステージが用意された。ところがである。自分のからだにやさしい方のわたしはかなりご立腹のようすだ。「もう2度と酒を飲むな、滋養の豊富な美味しい料理に手をつけるな。」とえらい剣幕である。

飲み代・食事代は、明らかにわたしより年少である医師の資格を持つ知性派の男性のブラックカードで支払われた。かれは、コンピュータをはじめとする文明の進展を理由に、古典は一般に古臭いとけなした。貶めた。古典に目を向ける余裕すらないから、みずからの進路を悩むのである。理屈ではない。古典の良さが解らないようなひとには碌な人間がいないということを言い聞かせたつもりであるが、理科系は一般に古典に疎い。説得に失敗したようだ。

わたしは食前酒としてワンボトル6,800円也のワインを注文した。ドクトルは17,000円也のワインを注文したらしい。そのあたりも気に入らない。これじゃ、美女2人に対して貫禄負けである。しかし、明らかに大衆向けのイタメシ屋であのワインは行き過ぎである。しかし、ドクトルは結果的にいいワインを選んでいた。美味しかった。肩書きで敗れ、資金力で敗れた。フランスワインなら負けない。イタリアワインは、よく解らないとひとりうそぶいてみる。

とはいっても、けっこう謙虚な好青年というか好中年ドクトルなので、そのあたりの無礼の数々は大目に見てあげることにした。しかし、わたしに内緒で、しかも、ブラックカードで支払いを済ませたことだけは許せない。東京に行く機会があるので、おごり返す旨の連絡だけは済ませておいた。こちらはもちろん平カードだ。イタメシ屋でワンボトル17,000円のワインは行き過ぎだ。食前酒はできることなら、ワンボトル5,000円以下で済ませたいものである。

昨日、所蔵するクラブの新年会があった。夕方の5時ごろから飲み始めた。酒はやたらに勧めるが、肴が貧弱である。ビールを2杯飲んでから白ワインをデキャンタで2本分飲んだ。したがって生演奏が終わる9時ころには既に空腹であった。そこであろうことか、一昨日のイタメシ屋でまたしてもコースを食べるはめになってしまった。一昨日の店でビールが2本ほど新たに胃袋に消えた。一昨日の深夜2時を回って別れたドクトルと美女のうちのひとりのカップルは、美味しいお酒を飲ませる店を知らないかと尋ねたそうである。恐るべしアメリカ帰り。

飲み過ぎたので、昨日の同伴者と1時間ばかりいっしょに歩いた。そして別れた。幸いなことに間違いは起こらなかった。良かった。3キロばかりを歩いた。わたしと相手の距離は平均で4メートル、ニアミスは生じなかった。帰りのタクシーの運転手さんから「最近特に中年男性とかなり年少の女性とのカップルが多い。ほいじゃがその殆どは破たんして、男の方がひどい目に遭ったという話をよく聞くけん、お客さんも気をつけなさいよ。」とありがたい説法を受けた。「火遊びをするほどの度胸はないし、実際にもてないからご心配なく。」と正直に言いたかったが、「そうじゃね、気をつけんといけんね。」と笑ってその事実をごまかした。けっこう見栄っ張りなのである。昨日は無事、昨日中に帰宅することができた。

そして本日(正確に言うと、すでに昨日)世話になった方の奥様が逝去されたという連絡を受けた。今日がお通夜で、明日が葬儀である。今日のお通夜で合法磊落なドクターは、赤く泣きはらした目で弔問の皆さんに挨拶をされた。こちらも、つい辛い気持になった。涙がこみ上げてきた。明日(正確に言うと今日)が葬儀である。ドクターがのぞまれているので葬儀にも出席する。奥様もよく存じ上げていたのだ。

釈迦に説法

2008年01月10日 00時00分16秒 | Weblog
満足しているひとはそれなりに幸せなのではないでしょうか。足らないことを憂うのではなくて等しくないことを憂いなさいとお節介なことを言うひともいたようですが、足りているひとには憂いすらないわけです。

詭弁じゃありません。あきらめを裏面に例えると自己満足はその表面であると考えることだってできます。だからこそ足りているひと、すなわち自己に満足しているひとのあきらめは心の平安につながるという推論も成り立つのではないか、そういうことです。

このように自己満足の裏面に何が潜んでいるのか、そっちの方が重要なのではないでしょうか。自己満足の裏側に自信とか実績とか経験とかが控えていることだってあります。わたしは目下、陽明クレイジーなのです。かれは人欲を諸悪の根源とみています。最近になってようやくその意味が理解できるようになりました。

自己満足って単なる言葉なんだもの、ひとそれぞれにどのような解釈だってできます。確かに狭い自己という世界で満足しているひとって手がつけられませんよね。でも、どうしようもありません。だから、自己満足の意義を論じあうことは、さらにどうしようもありません。

「自己満足に陥っているあんた、もっと広い世界を見ろよ、もっと深く考えろよ。」といくら言葉で説得しても、自分に満足しているひとを動かすことはできません。そんな人種をこちらが否定してかかっても否定されている方が動じなければ否定したことにはなりません。

営業を経験したことがあるひとならほとんどのひとが気がついているはずです。こちらの使命感に簡単に反応するようなお客さんはひとが良い、騙されやすい。ただそれだけのひとたちです。

ほんとうの営業力を問われるのは自己満足している相手にモノやサービスを売り込むことなんですよ。わたしの経験でいうと頭のいいひとほど売れない。営業の世界と学問の世界は正反対なのです。学者にモノは売れません。もっとも、セールスマンは一般に、講義や研究ができないのですから五分ですか。

本人も何を言っているのかよく解らなくなってきましたが、そういうことです。単純明快に言うと、わたしには「自己満足」の意義について語る資格がないということにでもなるのでしょうね。すいません。

2冊の入門書

2008年01月09日 01時00分08秒 | Weblog
林田明大著「真説『陽明学』入門」と吉田和男著「桜の下の陽明学」を読み比べてみた。前者は陽明の思想について述べる部分が少ない。後者はその殆どを陽明の思想について述べている。

前者は、全編を通じて陽明が偉大な人物であることを前提にしている。一方で、陽明学徒については辛辣な評を下している。後者は、陽明のどのような考え方が偉大であるかについて述べている。また、陽明学徒については深く言及していない。

前者は、陽明学徒を網羅的に述べるが、その網羅しているところは学会で陽明学徒であることを認証された人物や著名人ばかりである。後者は、列挙する陽明学徒について、なぜかれらが陽明学から影響を受けたのかについて何らかのコメントを加えている。

いずれも入門書である点では共通しているが、前者は、文章がよく練れていない。後者の文章は、自分の頭で考えて、自分の言葉で表現しようと努めていることを読んで取れる。両者の力量の差が歴然としているということだ。

吉田和男著「現代に甦る陽明学」

2008年01月03日 01時36分53秒 | Weblog
解読に手間取っている「伝習録」に、よい入門書はないものかと紀伊国屋に寄ってみた。愛読者が多いに違いないと思っている王陽明であるが、哲学・思想コーナーに並べられた関連本はヒジョーに少ない。

その少ない関連本の中で、吉田和男著「現代に甦る陽明学」副題「伝習録(巻の上)を読む」が目にとまった。著者は、わたしと同世代の元官僚で、現在は京都大学大学院経済研究科の教授である。時代背景や制度は異なるが、役所勤めの経験がある点と教育に携わっている点が陽明と共通している。

著者は、伝習録の読書会である桜下塾という私塾を主宰している。独学の弊に悩むわたしからすると羨ましいような環境である。「格物」という慣れない言葉について、著者がわたしと同様の解釈をしていることを知って胸をなでおろした。わたしの解釈はブレてはいない。

また、格物に関する朱子と陽明との解釈が根本の部分で異なっていることは原典を読めば解る。その差異について述べる著者の口語は、わたしの言い回しに近い。親近感を覚えた。


伝習録 上 7

2008年01月02日 00時01分30秒 | Weblog
『格物は、その心の正しからざるを去り、もってその本体の正を全うするなり。但だ意念の在る所、すなはちその不正を去りてもってその正を全うするを要す。すなはち時となく処となく、これ天理を存せざらんや。すなはちこれ窮理なり。天理はこれすなはち明徳なり。窮理はすなはちこれ明徳を明らかにするなり。』

本体の正
『本体の正はすなはち天理。不正を去ってその正を全くするはすなはち窮理。朱子はすなはち格物の字をもって、直ちに窮理の字となす。所以に異なれりとなすなり。』

正しい考え方とはどのような考え方なのか?正しい行いとはどのような行いをいうのか?正義とは何か?善とは何か?道徳に叶うとはどういうことなのか?こういう質問に答えることができないないような儒学は学問の名に値しないと陽明は言う。陽明は後進に「正しい知、行い」を解明するところから学問の道に入るように諭している。