旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

寿命

2008年04月29日 12時36分22秒 | Weblog
身体の不調を感じて「家庭の医学」を読んでいると身体の違和感がかなりの病気や症候群に該当しているように思われることが多い。「家庭の医学」の類の本は症状を網羅的に言葉で並びたてている。たとえば頭痛といってもいろいろな「痛み様」がある。これを「痛み様」別に活字で説明することは至難である。だから当然のように実際に自分がどのような原因の頭痛を発症しているのか判断に迷う。やはり身体の不調や変調があると病院・医院に足を運ぶことになる。

わたしの持病は乱視と高血圧、今はやりのメタポシンドローム。変形性頚椎症からくる肩こり、高音聴力の低下といったところである。乱視といっても裸眼での視力検査では右1.5の左2.0である。余計に目が疲れやすい。日に5時間はパソコンとにらめっこしているので少々辛い。が、我慢すれば足りる。メタポについてはウエストをあと3センチ絞り込むと卒業だ。変形性頚椎症については高校時代に器械体操をやっていたころの後遺症のようなものだ。日に5時間のお勤めをやめれば治まる。難聴は加齢による。日常生活に支障がないので受け入れることにした。

高血圧についてはお手上げの状態である。ホームドクターから血液降下剤の処方を強く勧められている。一身上の都合で逃げ回っている。高血圧のみの扱いが厄介だ。塩之入洋著「高血圧の医学」中公新書 2002年初版、尾前照雄著「血圧の話」岩波新書 1996年初版、高沢譲二著「血圧革命」講談社 2006年初版、浜六郎著「高血圧は薬で下げるな」角川α新書 2005年初版等を読み漁りながら神妙に考えを巡らせてみる。

特に浜六郎著「高血圧は薬で下げるな」では、臨床の統計から、血圧降下剤を飲み続けると確かに循環器系が原因の死亡リスクは低下するが、逆に癌にかかるリスクが高まって余命を延ばしたり生活の質を高めるといった観点からはその処方に一考の余地があることを強調している。わたしは目下(先は解らない)、いたずらに生きながらるよりも生活の質を重視した側なのでこの意見に従って処方から逃げ回っている。「好きなようにしなさい。あんたの身体なのだから。」というホームドクターの言葉が身にしみる。

本態性

2008年04月29日 11時09分57秒 | Weblog
この一か月というもの下が平均で120だからかなり重症。それでも今日まで塩分断ちやら適度の運動をやるつもりで降下剤の処方を逃れてきた。もちろん美食家のおお食らい、スポーツが億劫な本の虫とくれば節制が効くはずもない。

昨日はホームドクターから「動脈硬化がかなり進んでいる。このままだとあと2から3年・・・。」と意味深長なことを言われた。しかたなくストレス(心因)性なのか本態性の高血圧なのか、それだけを見極めるための人体実験に応じてみることにした。安定剤を飲んでから血圧を計れば判断ができるのだそうだ。

4月の空

2008年04月28日 23時38分00秒 | Weblog
桜が終わったかと思ったら山ツツジにフジ、新緑が鮮やかです。船越で週末に2件、相次いで親戚の葬儀がありました。残された者たちは棺の前に立ち尽くすのみです。久しぶりに会った女友達やいとこたちは元気そうでした。それでも葬儀の後でながめる山々はなぜか悲しい。

今日は、高血圧がストレス性のものかどうかを調べるために精神安定剤の処方を受けました。安定剤は初めての経験です。何だかお迎えが近づいてきたような妙な気分を味わっています。安定剤を飲んだ後しばらくして血圧を計ってみたら下が15ポイントほど下がっていました。

読書録

2008年04月25日 23時49分39秒 | Weblog
「本の虫」である。下手な文章だけは読まないという癖がある。典型的な乱読で分野を問わない。好奇心が赴くままにひたすら活字を追ってきた。

「風姿花伝」は、世阿弥が能の世界できそう者の心構えについて述べた秘伝の書である。能の世界と同様に、きそうことを宿命づけられた営業マン生活の指針となった。

王陽明は「伝習録」中巻の「抜本塞源論」において、自分が良い、正しいと思うことを行いなさいと明快に説いている。「知行合一」は「言行一致」と同義ではない。

HN

2008年04月25日 20時22分07秒 | Weblog
ネットの世界、特にブログの世界は原則匿名の世界なので書きたいことを自由に書くことができるのです。本名を明かしちゃうとそうはいきません。そこでブログでは一般にハンドルネームとかニックネームとかと呼ばれるネット上の名前を名乗ることになります。こちらの名前の方が何かと好都合なのです。

大事に至ることは極めて稀なのですが、こちらが本名を名乗っているのに相手が匿名だと、例は悪いのですが、ネットで恋の相談をもちかけた相手がなんとこちらの恋敵だったってこともありうるわけです。だから、互いのプライバシーを侵害しないように、まずは匿名から始めようというのが先人たちの教訓になって現在に至っているようです。

この世の中、わたしやあなたみたいな善人ばかりではありません。ネットの世界には、せっかく匿名にしているのにそれが誰であるかを暴くこと(これを業界用語?で「特定する」と言います。)を生きがいにしている魑魅魍魎が潜んでいます。ご用心!

孤立無援の思想

2008年04月12日 01時19分10秒 | Weblog

30有余年ぶりに「孤立無援の思想」を読んだ。「高橋和巳著作集7 エッセイ集 思想編」の中に収録されている。1970年、河出書房新社の出版である。

高橋はこの小論文の中で、まず大衆社会の政治的危うさについて論じる。大衆社会における情勢判断とは、ひとつの判断と他の判断が雌雄を決すべく争うことである。その運動の過程で死んでいった者の意識にこだわることではないと論及する。このような情勢論的論理が有効性を発揮できない「思想という悪魔的な知恵」がある。「この知恵は、多数決で押し切り、妥協点を見出すという形で終わらないし、一個の人間の生涯を通じての生き方にかかわるものであるからである。」

高橋は小論文の最後を「これも拒絶し、あれも拒絶し、その挙句の果てに徒手空拳、孤立無援の自分自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。」と結ぶ。

社会科学とその実践の有効性を知る者からすると、なんだか気持ちが殺伐としてくる小論文である。まず、高橋が言うところの「思想」の意味内容が不明である。その昔、高橋の小説「悲の器」「邪宗門」「憂鬱なる党派」などを読んでいる。高橋和巳はこれらの小説の中では指導的な立場にある者たちのエゴイズムを描いているように思う。

言うまでもないが、文学の題材として頻繁に取り上げられるエゴ(利己)は、社会科学でいうところの個人主義の個人ではない。高橋の論調には「知り過ぎた者」「見え過ぎる者」という独善的な、しかも歪んだ知識人意識が見え隠れするのである。

散策

2008年04月11日 00時22分10秒 | Weblog



見渡すと淵に沿って桜の花が、桜並木が、そして桜色の絨毯が続く。湖面はあくまで青く、芝生はいまだ褐色だ。立ち木は黄緑の芽を吹いている。雨あがりの昼下がり。他愛のない話をしながら湖畔を歩く。女友達と湖畔を散策する。八千代湖は靄に包まれている。

文選

2008年04月08日 11時47分49秒 | Weblog


あるご縁で広島大学斯波文庫を知った。昨日久しぶりにその電子版漢籍目録に目を通してみた。好きな曹操の古詩「短歌行」が「文選」に選集されていることを知った。文庫を残した広島大学名誉教授故斯波六郎博士は「文選」の研究者であった。

知行合一

2008年04月04日 23時40分30秒 | Weblog
「伝習録 中巻」

読み下し文
「知の真切篤実の処はすなわちこれ行にして、行の明覚精察の処はすなわちこれ知。知行の工夫は本離るべからず。真知はすなわち行たる所以にして、行わずんばこれを知と謂うに足らず。知行の体は本来かくのごとし。」


知が心の本体において真切篤実に発現する。そのところがとりもなおさず知であり、行いが、澄明な自覚と精察において機能する、そのところがとりもなおさず知であり、知と行の功夫は、もともと不可分のものです。真の知とは行いとなってこそのものであり、行わなければ知というに値しない。知行の本来的なあり方とはもともとこのようなものである。


真切・・・気持ちや表現に真実さがあること。まじめであること。またそのさま。(小学館 日本国語大辞典)
篤実・・・人情があつく、まじめなこと。正直で親切なこと。(角川 新国語辞典)
澄明・・・チョウメイと読む。
功夫・・・=工夫

読み下し文
「心は一のみ。その全体惻怛を以て言えば、これを仁と謂い、その宜しきを得るを以て言えば、これを義と謂い、その条理を以て言えば、これを理と言う。心を外にし以て仁を求むべからず。心を外にし以て義を求むべからず。心を外にして以て理を求むべけんや。理を吾が心に求むるは、これ聖門の知行合一の教えなり。」


心は一つのものです。その全きあり方において人の悲哀を惻怛とわが身に哀憐する。その側面からこれを仁といい、それが宜しきにかなっている側面からはこれを義といい、それが条理にかなっている側面からこれを理という。


惻怛・・・悲しんで心をいためること。ソクダツと読む。(小学館 日本国語大辞典)

以上、中央公論社「世界の名著 朱子 王陽明」溝口雄三訳 (注は、はやと)

な、何なのだ、この訳は一体。

大学 第3章

2008年04月03日 23時10分54秒 | Weblog
「わが身に腹のたつことがあると身の正常を保つことはできず、恐れおののくことがあると身の正しさを保つことは出来ず、楽しい好きごころがあると身の正しさを保つことができず、悲しい心配ごとがあると身の正しさを保つことはできない。つまり、心が動揺すると身は修まらないということである。
心がしっかりと正常に落ちついていないと、何かを見てもはっきりとは見えず、何かを聴いてもはっきりとは聞こえず、何かを食べてもその味がわからない。『わが身をよく修めるには、まず自分の心を正すことだ』というのは、そういうことである。」

このような崇高な教訓を垂れられると自分が聖人君主とは無縁の存在であることを思い知らされる。古人は上手いことを言うものだ。それにしても今日という日はこの文言に随分と慰めてもらった。