私は初老男である。
・・・前のブログのマクラで、世間で一番騒がれている事案については私がUpしなくてもいいという風に書いた。
しかし、やっぱり我慢できなくなった。
タイトルに示した二つの事案は、結果的に同じ結論になる。
それは
「法律は人間の感情をカバーできない」
と言うことである。
亀岡の事故は「危険運転致死罪」には問えないだろう。
そして、小沢事件は「有罪」にはならないだろう。
答は簡単である。
現在の日本の法律では、それらを人の感情を満たすように考えられていないからだ。
しっかりと法律のことを調べもしないで、こうしたことをUpすべきではないのかもしれない。
しかし、初老男になってみて、こうしたことに憤りを感じながらもどこかに「仕方がない・・・」と思わずにいられない。
戦後の数ある事件がさまざまあって、その中には「冤罪」も相当数あっただろう。
信じられないかもしれないが、私の子供の頃は警察や検察・裁判所が「間違いを犯すことはない」と思っていた。
それは子供の私だけでなく、大人たちもそうだったと思う。
どこかに「お上」のやることに「間違いはない」と思っていたからだ。(江戸時代か!)
しかし、それからの時間の流れは信じられないくらいに早くなった。
だいたい法律と言うのは、その時代時代によって当然のごとく是正していかなければならないものだ。
しかし、日本はこの「法律改正」に鈍感だ。
先日、評論家生活にピリオドを打つことを宣言した三宅久之さんも言っていたが、政治と言うものは時間がかかる。
政治とはつまり「法律を作ること」だ。
昔は、政治家たちは内紛・政争を繰り返しながらも自民党の安定政権の中で法律を作ってきた。
・・・結局、いつもこうだ。
時事ネタはちょっとUpに手間取ると、それより大きな事件が起きてUpする気が失せる。
今や(5月2日)タイトルの二つの事件よりも「群馬高速バス事故」の方に世間の目が行ってしまった。
そのことに対しても、言いたいことはある。
しらけながらも、結論を言ってしまおう。
こうした時間の流れが、加速度的に早くなってしまった現代において、作られた法律は成立したその時から、すでに今現在に通用しない法律になってしまう。
そうした中で「犯罪」と言うものは、日本人の中に残っている「正義」の意識ではなく、「法律的にどう判断されるか」になっている。
法律的に言えば、亀岡の無免許運転は「危険な運転」でなく、小沢一郎の4億円はどこから出てきたかわからなくても「政治資金を巡って収支報告書にうその記載をした」ことについては「無罪」なのである。
まあ、小沢事件は「市民感覚」を反映した検察審査会の判断は、心情としてはよくわかるけれど、検察が起訴できなかったものが、こうした「強制起訴」で有罪になることはほとんどないと思っていたけどね。
光市母子殺害事件・福岡海の中道大橋飲酒運転事故・附属池田小事件・・・こんな事件が起きることはそれ以前には考えられなかったし、起きた後にずいぶん法律が整備されたはずだ。
それでも、それを超えるような大事件が日々起きている。
だが、どこまで行ってもそれらの犯罪の被害者の「敵討ち」的なことで方は整備されない。
「人間の人権の尊厳」みたいなものを、こうした事件・事故が起きるたびに考え直さずにはいられない。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。それでも人間の「性善説」を信じていたいのは私だけだろうか・・・。
May
群馬高速バス事故の運転手は「自動車運転過失致死傷容疑」で、逮捕されたという。この運転手の罪状と量刑はどれくらいになるのだろう。亀岡無免許運転事件と、どれくらい違うかとても興味がある。
・・・前のブログのマクラで、世間で一番騒がれている事案については私がUpしなくてもいいという風に書いた。
しかし、やっぱり我慢できなくなった。
タイトルに示した二つの事案は、結果的に同じ結論になる。
それは
「法律は人間の感情をカバーできない」
と言うことである。
亀岡の事故は「危険運転致死罪」には問えないだろう。
そして、小沢事件は「有罪」にはならないだろう。
答は簡単である。
現在の日本の法律では、それらを人の感情を満たすように考えられていないからだ。
しっかりと法律のことを調べもしないで、こうしたことをUpすべきではないのかもしれない。
しかし、初老男になってみて、こうしたことに憤りを感じながらもどこかに「仕方がない・・・」と思わずにいられない。
戦後の数ある事件がさまざまあって、その中には「冤罪」も相当数あっただろう。
信じられないかもしれないが、私の子供の頃は警察や検察・裁判所が「間違いを犯すことはない」と思っていた。
それは子供の私だけでなく、大人たちもそうだったと思う。
どこかに「お上」のやることに「間違いはない」と思っていたからだ。(江戸時代か!)
しかし、それからの時間の流れは信じられないくらいに早くなった。
だいたい法律と言うのは、その時代時代によって当然のごとく是正していかなければならないものだ。
しかし、日本はこの「法律改正」に鈍感だ。
先日、評論家生活にピリオドを打つことを宣言した三宅久之さんも言っていたが、政治と言うものは時間がかかる。
政治とはつまり「法律を作ること」だ。
昔は、政治家たちは内紛・政争を繰り返しながらも自民党の安定政権の中で法律を作ってきた。
・・・結局、いつもこうだ。
時事ネタはちょっとUpに手間取ると、それより大きな事件が起きてUpする気が失せる。
今や(5月2日)タイトルの二つの事件よりも「群馬高速バス事故」の方に世間の目が行ってしまった。
そのことに対しても、言いたいことはある。
しらけながらも、結論を言ってしまおう。
こうした時間の流れが、加速度的に早くなってしまった現代において、作られた法律は成立したその時から、すでに今現在に通用しない法律になってしまう。
そうした中で「犯罪」と言うものは、日本人の中に残っている「正義」の意識ではなく、「法律的にどう判断されるか」になっている。
法律的に言えば、亀岡の無免許運転は「危険な運転」でなく、小沢一郎の4億円はどこから出てきたかわからなくても「政治資金を巡って収支報告書にうその記載をした」ことについては「無罪」なのである。
まあ、小沢事件は「市民感覚」を反映した検察審査会の判断は、心情としてはよくわかるけれど、検察が起訴できなかったものが、こうした「強制起訴」で有罪になることはほとんどないと思っていたけどね。
光市母子殺害事件・福岡海の中道大橋飲酒運転事故・附属池田小事件・・・こんな事件が起きることはそれ以前には考えられなかったし、起きた後にずいぶん法律が整備されたはずだ。
それでも、それを超えるような大事件が日々起きている。
だが、どこまで行ってもそれらの犯罪の被害者の「敵討ち」的なことで方は整備されない。
「人間の人権の尊厳」みたいなものを、こうした事件・事故が起きるたびに考え直さずにはいられない。
今回も最後までお付き合いいただきありがとう。それでも人間の「性善説」を信じていたいのは私だけだろうか・・・。
May
群馬高速バス事故の運転手は「自動車運転過失致死傷容疑」で、逮捕されたという。この運転手の罪状と量刑はどれくらいになるのだろう。亀岡無免許運転事件と、どれくらい違うかとても興味がある。