完全無欠な「もうすぐ前期高齢男」日記

「もうすぐ前期高齢男」に進級「老いの自覚」を中心にUpしていきます。

イヤになった自分の先々Up  ~祖母葬儀に際して~

2007年08月14日 | 家族・肉親
私は中年である。

ついに「差し歯」が入ったのである。

私の数か月分のこづかいに相当する「84000円」の「歯」である。

ちゃんとしたこの歯が入るまで、プラスチックの仮歯だった。

それはそれで一ヶ月も入っていて、口の一部になっていたので、
逆にちゃんとしたこの歯の方が、今は「違和感」がある。

たしかに、とても自然でよほどよく見ないと他の人には分からないだろう。

前にもUpしたが、こうして「自分自身」を失いながらそこに「人工的
スペア部品」を付け足しながら歳をとっていくのだろうなぁ・・・。


さて、私は母を事故で亡くしたのだが、その母の母(つまり、祖母)は存命して
居た。

それが、9日の未明に逝去した。93歳。

4年近く入退院を繰り返し、最後は呼吸不全を起こして亡くなった。
最後は顎が外れて元に戻らなくなり、その顎が気道をふさいでしまい呼吸困難に
なった。それを近親者達が手で支えて三晩をすごし、小康状態になって
安心した途端の訃報だった。

入院する前から「アルツハイマー」が進んでいて、私を見ても多分誰だかは
分かっていなかったろう。

長生きするのは「幸せ」なことばかりではなく、同じくらい、いや人によっては
それ以上「不幸せ」なことも味わうこともある。

彼女は「幸せ」なことの方が多かったと私は思っている。

「中年」になって良くそう思うのだが、自分の身の回りの近い人たちが「老年」に
なり、様々な「見苦しさ」を露呈すると、私は間違いなく自分の「行く先」を
垣間見る。


祖母は「大正」生まれ、私の親たちは「昭和一桁」生まれ、そして私は
「昭和36年」生まれである。

どの世代でも、劇的な変化が起きた中に身をおき、経験を積む形になるが、
自分が若い時に培った「価値観」は容易に変化するものではない。

しかし、問題なのは時代に合わせた「感受性」をいかに持つか、である。

そうした意味でも親父とどこまでいっても、意見の交わることがないのは
分かりきっていた。そして最近決定的な一言を親父の口から聞いた。

       「誰が育ててやったと思っている!」

・・・私も親になり、まがりなりにも「親とはどうあるべきか」とかも随分
考えた。その中でこれだけは言ってはいけない、と思っている言葉が、正に
このセリフだった。

たしかにこのセリフを言いたくなることもあるだろう。しかし、こういわれたら

私はこう答えるしかない。

        「誰が育ててくれと頼んだ!」

更に言いたい。
        「誰が産んでくれと頼んだ!」
と。

SEXが出産につながっていることを、知らない奴はいないがそれを実感する
男は女に比べて圧倒的に少ない。だから、こんなセリフを吐きたがる。

そして、実際子どもは「親を選んで」生まれては来れない。逆もまた真なり。
親は生まれてくる子を「選べない」。

だからこそ「偶然という奇跡」の重みを受け止めて一生懸命子育てをせねば
ならないのだ。そこに疑問を持ってはいけないのだ。

これは世代が変わろうとも絶対に変わらないと私は思っている。

それを、いとも簡単にこういうセリフで子どもを失望させる。

・・・しかし、その親父に似ている部分を自分に多く見つけているのも
事実なのだ。

すると私も子どもに対して、そんなセリフを吐く時が来るのだろうか?

そんなことの無い様に気合いを入れている今日この頃なのだ。

今回も最後までお付き合いいただきありがとう。
これを読んだみんなが「血脈」の偉大さにオノノキ、更に逆らう気力を
もてますように。

                      may

長らく「停滞」申し訳ありませんでした。
                          
                          
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