Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『LUCY / ルーシー』

2014-09-06 00:02:38 | 映画
映画『LUCY / ルーシー』を観てきました。

監督は、『ニキータ』『レオン』『フィフス・エレメント』
『ジャンヌ・ダルク』などを世に送り出したフランスのリュック・ベッソン。
主演はスカーレット・ヨハンソン。

スカーレット・ヨハンソンはかわいくてスタイルが抜群。
それで昨日、第一子ご出産だそうで、おめでとうございます。
もう29歳なんですね。
僕が初めて彼女を観た映画はソフィア・コッポラ監督の
『ロスト・イン・トランスレーション』でした。
あの頃から抜群にかわいい子でした。
というか、『ロスト・イン』以降の彼女をスクリーンなどで
観ることがなかったです、もったいなかった。
それでも、40歳くらいまでのハリウッド女優の中ではベスト3に入るくらい、
僕は好きな女優さんなんです。

映画のほうはというと、
人類は脳の10%しか使えていない、それを100%使えたらどうなるか。
それを、スカーレット演じるルーシーが裏社会に引きずりこまれたことを契機に、
脳をどんどん使えてしまうヒロインに変貌していく話。

しかし、脳って、ニューロンという神経細胞と、まだよくその働きが判明していない
グリア細胞というので出来ているはずですが、
この映画で言う、10%しか使えていないっていうのは、神経細胞の中でのことなのか、
グリア細胞も含めてのことなのか、判然としません。
僕は何かの本で、脳は10%しか使えてないから100%使えたらどうなるかという問いに対して、
10%使うように設計されていて、休息だとか、メンテナンスだとか、余白だとか、
そういうのが必要だから、10%を超えることもないし、越える必要もない、
というような説明を読んだことがあります。
脳は10%しか使えていないんだよ、という、そこから端を発する期待は、
現実的ではなく、10%しか使えてないようにみえて、それでいっぱいなんだ、
というような理解をしました。

なので、この「100%脳を使えてしまう」という設定には、
手放しで引き込まれることはできなかった。
この映画のように、いろいろな能力が開花していくとしたら、
それは脳の容量が大きくなったとき、その大きくなったうちの10%っていうのが、
以前と比べての10%よりも多くなるでしょうから、それで変化するかもね、
と思います。
ただ、そうなったときに、人間は巨大化するのか。
頭だけ大きくなったら、醜くなるなぁと、残念な気持ちになります。

それと、本編でも明かされますが、ルーシーという名前は、
人類の祖先、最初の人類として認められた個体の名前だったはず。
そういう意味合いでの、重ね合わせの遊びがありました。

90分くらいで終わる映画でしたが、なんだか物足りなさもありました。
いろいろなパーツを繋げて作った、ちょっぴり無機質な印象のある
プラモデル的な映画のような気もした。少しですよ、少し。
もちろん、パリでのカーアクションは迫力があるし、
銃撃戦もすさまじい。クライマックスからエンディングにかけての
流れもよかったです。
ただ、淡泊なのかな。無駄にシーンや描写をひっぱらない映画なんです。
それがコンパクトでもあるし、ちょっとした物足りなさでもあるという、
もろ刃の刃みたいなことになっているように感じました。
でも、ちゃんと楽しめる映画で、悪くはないですよ。

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『ホットロード』

2014-09-04 00:47:57 | 映画
またいきなりな感じで、レイトショーで
能年玲奈さん主演の映画『ホットロード』を
観てきました。

暴走族の話。
家庭がごたごたした女の子の、
愛とアイデンティティの話。

能年玲奈さん演じる和希に、
彼女のもつ母性を強く感じた。
彼女にとどまらず、木村佳乃さん演じる母親もそうだったし、
暴走族の取り巻きの女の子たちもそうだったし、
リーダーの恋人である太田莉奈さん演じる女性もそうだったし、
みんなに母性を感じた。

そういう女の人の母性に包まれているような映画だと思った。
母性ってのは、受け入れるおおらかさみたいなのが一つありますよね。
だから、どうしようもない男にも女性がくっついてくれたりもする。

なんだか、男って「点」で、女は「線」かもしれない、
なんて、和希のいや能年さんの素のようなやさしい表情をみながら考えていた。

途中で、鵠沼診療所っていうのが出てきますが、
これがちょっとした偶然で、今読んでいる村上春樹さんの雑文集に出てくる地名で、
少しの間彼が住んでいたのが鵠沼なんですよね。
神奈川県藤沢市鵠沼。
ちなみに、そこに村上春樹さんが住んでいた頃に書いたのが、
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』だそうです。
この作品は10代の頃に読んで、もっとも衝撃を受けた、
というかフェイバリットだった作品。
今まで3回かな、読み返してます。
鵠沼という地名は、この雑文集のその部分を読んだ2日前くらいに
初めて知った地名でした。

そんな偶然があると、なんだかこの映画とは縁があったというか、
もうみるべき映画だったのかなぁという気さえしてきます。

高校生くらいの男女6,7人が僕の上の席に陣取って、
映画の最初の予告のときなんか、軽い感じでその映画を冷笑的に笑ったり、
あれこれツッコンだり下手な冗談を言ったりしていて、
でも、能年さんの次回作である海月姫の予告が終わったころには
何もしゃべらなくなって、それはきっと予告中に「エリート童貞」という
言葉が出てきたから、きっと彼らは「童貞」という言葉にセンシティブだからだろうと推測されて、
可笑しくなりました。
そんな彼らは、映画のクライマックスの部分で、すすり泣くすすり泣く。
男も「うえっうえっ」とやりながら洟をすすって、たまに泣き笑いまでしてるのは
恥ずかしいからなんだろうな。
女子も、「私ら女子だから」的な、ここは泣いていいシーンだと計算したので泣きます、みたいに、
これは正統です、みたいな鼻のすすり方をしてました。

そんなわけで、10代の、この映画にでてくる人たち同じくらいの年の人は泣けるのかもね。
というか、あまり映画慣れというかフィクション慣れしてないから泣いてたんじゃないのかな。
そうも思えました。

能年玲奈さんの演技を久しぶりに観ましたがよかったです。
能年さん自体がいいもんねぇ。
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『思い出のマーニー』

2014-09-02 00:03:16 | 映画
スタジオジブリの最新作、
映画『思い出のマーニー』を観てきました。

原作ではそうなのか知りませんけれども、
北海道が舞台ということなので、
近しい感覚で見られるかなと思いきや、
冒頭で札幌駅のホームが出てきたのです。
そのアングルと描かれているすべてと、
まさに札幌駅のホームそのまんま、
というかお釣りがくるくらい見事にスクリーンに流れたので、
知っているところがアニメの舞台だなんて!と、
いきなり知っている(バイトのために二年か三年くらい利用した)
ところが聖地化して、ざわざわしてしまいました。

そこから描かれる土地も、どこか涼しげな北海道的で、
ずっと住んでいる僕にとっては夢のような作品でした。
そして、これまた面白かったんですよ。
きゅうと胸を掴まれるところもあって、
涙がほほを伝いまして。いい歳をして。

僕はやっぱり、今作をみていて確信しましたが、
人生が、サッカーでいうアウェイのようになっている人たちを、
特に子どもだとかを、出来ることならば元気づけたりしたい人、
出来ればそっちの側にいたい人のようです。

今読んでいるとある小説家のエッセイにも、
そういう人たちを物語で救ったり、
虚構でこそ描ける真理をいつも物語に込めたい、みたいなことが
書かれていて、僕もそういう物語を作ってみたいなって思いました。
『思い出のマーニー』みたいなのを創作できたら、
受け手がその作品をステキに思ってくれそうじゃないですか。

子どもなんかは、大人と違ってあんまり孤独すぎるのは可哀想なんですよ。
大人は好んで孤独に浸ったりしますが、
子どもの中にはよくわかんないままに、
人とのコミュニケーションのいいところも
孤独の悪いところも知らないままに孤独になっちゃう子がいる。
子どもはちょっとしたコミュニケーションの悪いところに心が囚われたりもするし、
うまく言葉で表現できないですし、
自分の気持ちが大人よりも勝ってしまう部分ってあります。
そういう不器用さって、実は空気ばかり読むよりも、
まったく自然な状態だと思いますけども、
つらいなぁって苦しんだり、
つらいっていう言葉になる前に身体によくない症状がでたりしてしまう。

そして、物語という形でしか寄り添えないような子どもいるんじゃないかな。
これは大人でもそうかな。
そういうふうに考えたときに、物語を作る仕事って素晴らしいと思えちゃう。
問題は、ラノベは売れているのかもしれないですが、小説離れだとかが進んでいて、
商売あがったりらしいということです。
書き手がそれなりに仕事をしていたら、まず生活はできるっていうくらいも怪しそう。
・・・みんな、もっと物語を読もうぜ。
贈与論的連帯感の世界に近寄っていくと、
そういうこともちょっと解消されるような予感があります。
そういう世界を、僕の母校のある教授の言葉を借りると、
詩的共同体といいます。逆に、殺伐としているような、
自分は自分、ガチガチのわかりやすい利己でいきますっていうようなのは、
散文的抗争体といいます。
あの教授先生は贈与論は読んでいたのかなぁ、ちょっと思い出してみました。

『思い出のマーニー』はジブリがこの先しばし長編の発表をお休みする前の
最後の作品にふさわしい秀作でした。
大好きな映画がまたひとつ増えました。

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タイ料理を食す。

2014-09-01 00:09:50 | days
このあいだ、26日の火曜日の夜だけれど、
札幌のすすきの近くにあるタイ料理店「ジッラダ」に行ってきました。
両親の分の晩御飯を作ってから、従兄と合流して行ってきたんです。
うちはそういうところが面倒なところですが、しょうがないですからね。

久しぶりにすすきのあたりを歩くと、
きれいなお姉さんたちがたくさん歩いているのを眺められて元気になります。
また、ちょうど真ん前を歩くおねえさんの生足がしゅっとして、
細すぎもせずすごくきれいで、見惚れて歩いていたりします。

それはそれとして。

「ジッラダ」では、
僕はトムヤムクンとグリーンカレーを注文しました。
トムヤムクンって、あれはスープだけ飲むものなのかな、
具のような出汁殻のようなネギみたいなのだとかも入ってて、
さすがにそれは硬い繊維質で食えないやってなりましたが、
ニンニクだとかは食べてしまいましたよ。
レモンの強い香りと酸味にプラスして唐辛子の辛みがあり、
それらを持ちあげるようにベースに出汁の味がありました。
中鍋の下の固形アルコール燃料がまだ燃えている中、
どんどんそのおいしいスープをどんぶりによそってすすっていくんですが、
さすが世界四大スープのひとつといわれるだけあって、
その魅惑にとりつかれるように、ぜんぜん飽きずに、
2~3人前あったスープが胃の中に落ちていきました。
従兄にも小どんぶりによそってあげたのですが、
どうもこういう酸味ってあまり食べられないというので、
1/2杯程度しか彼は頂きませんでした。
僕にとってはおいしくて、満足しました。
僕がすすった大量のトムヤムクンは、身体をぽかぽかと温めるばかりではなく、
内側からのエネルギーに変化していったようです、それは発電のように。
そうやってトムヤムクンであったものは精気のように僕の身体をかけめぐり、
そこは同じアジアの風土としてはそんなに湿度と温度は高くない札幌であり、
そこから遠くない土地から来た者だったとしても、
異質でありながらもどこかで繋がっているような、
小さい頃から馴染んでいた料理ではなくても、
比較的受け止めやすい食として享受することになり、
タイの人たちと同じように、この料理で元気になる。
タイに最適化し洗練された料理は、日本で、
そこに住む者のその舌で理解できないわけではないです。
きっとタイ国のその風土にあって、もっともきらめくであろう効果は、
日本でも、いつもとは角度を変えた視座(いや、味覚の座なのですが)で
十分に楽しめるのです。

続いて、グリーンカレーがきます。
これは前にレトルトのものを食べたことがあって、
大体の味は知っていたのですが、
今回のグリーンカレーはそれよりも、当たり前かもしれませんが、
食べやすくおいしかったです。
エビとチキンが選べて、トムヤムクンがエビだったので、
カレーのほうはチキンにしました。さっぱりとした胸肉です。
前に食べたレトルトのほうではたけのこの細切りが入っていましたが、
今回のはスープ主体で、パプリカや茄子やししとうなどの夏野菜と、
たぶん、あれがパクチーだと思うのですが、
けっこう香りに独特の特徴と強さのある葉っぱがありました。
辛みもちょうどよく、僕なんかはあまり辛すぎるものを食べると、
鼻がぐずぐずしたり、汗が額や鼻の下に浮いたりするのですけれども、
そういうこともなく楽しめました。
どちらかというと、トムヤムクンのほうが辛かったです
(でも、ちゃんと食べられる辛さ)。
グリーンカレーはココナッツミルクの甘みと香りと、
なんで色がグリーンなのかは知らないですが、
これもタイ風の出汁が効いていておいしい。
ついてきたご飯はタイ米ではなかったですが、
日本米にもよくあうグリーンカレーでした。
トムヤムクンにグリーンカレー。
アジアの気候の本場のようにも思えるタイの料理を食することで、
僕の体質のうち、特にアジア的なものが元気になり癒された
ような気さえしました。

さて、従兄は、まずタイ風焼き鳥を注文していました。
一本もらったのですが、甘くないピーナッツクリーム
(ピーナッツ味噌みたいなもの)につけて食べるんですね。
かじるとピーナッツのコクとともにカレー的スパイスの風味も後からやってきて、
そのものもおいしいながらもさらに食欲が増進するような一品でした。
きっと、タイ国って暑い国なので、タイ料理は食欲を促進するような効果もある
スパイスの使い方をしているんじゃないか。

次に、従兄が注文したのは、
バジルと鶏挽肉の炒めたものを乗っけたご飯(ガパオライス)です。
これも、某弁当チェーン店のものを食べたことがあって、
それだと、少しナンプラーの香りがしたものですが、
今回のほうは、一口もらって食べたら、多少趣が違う味のように感じられました。
それが、本場の味、ということなのでしょうか。
ナンプラーを使っているかどうかはわからなかったですが、おいしかったです。
このガパオが最後にきた料理でしたが、従兄はまってましたとばかりに、
幸福そうな顔をして、もりもり食べていました。

この「ジッラダ」は月曜定休日の17:30~22:00までの営業だそうです。
さらにワンドリンク制なので、ソフトドリンクでもアルコールでも、
何か一つ飲み物を頼まないといけません。

僕の勘定は3000円をちょっと超えたくらい。
従兄は2000円ちょっとでした。
グリーンカレーとガパオライスの量は、それほど多いというものでもなく、
人によっては、足りないくらいかもしれないです。
大盛りにできたのかどうか、そこまでは気が回らなかったです。

店員のお姉さんが綺麗でしたが、発声というか発音がよくて(といって大声というわけではない)
パリッとしゃべるので、アナウンサー志望なんだろうかだとか思いましたが、
もしかすると、日本人と見分けのつかないような外見の、
日本語をきっちりとマスターしたタイ国からやってきた留学生なのかもしれない。
お客さんは、早い時間帯だったのもあると思いますが、僕らを入れて2組。
途中からそのお姉さんではなく、料理を作っていると見られるマスター(あるいはコックさん)が
料理を運んでくれたり、会計をしてくれて、もしかすると、
僕らのところに寄ってこなくなったそのお姉さんには嫌われたのかな
とちょっと申し訳ないような気持ちにもなりました。
でも、今度行ったら、きっとまたきりりとした応対をしっかりしてくれるんじゃないかな。
たぶん、杞憂です。

魅力的で、味わってみるとやっぱりおいしいタイ料理。
アジアンな味に飢えている人は是非いってみてください。

従兄がまた他のタイ料理屋さんにいって味比べをしてみたいようなので、
またいつか、違うタイ料理屋さんに行きそうです。
そのときはそのときで、おいしかったらまた書きます。

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