読書。
『戦いの日本史』 本郷和人
を読んだ。
武士が誕生し台頭していくあたりから徳川幕府樹立までの、その時代時代を代表する一対の対立軸から、相対する二人を一組として合計八組とりあげて歴史を解読していく本です。武家がどのように力を得ていって覇者になっていくかがわかります。
ご承知のように、古い武家は新しい武家に取って代わられながら時代は進んでいきますが、その都度、力を増して、最後には(徳川氏の時代には)日本全国を支配するほどのものとなる。それがどういった流れだったのか。資料に乏しいところや資料を疑うべきところを歴史学者の著者の推察や推測で構築しながら、ひとつの仮説的に解いていく体裁でした。
義務教育から高校まで、歴史といえばもう決定した過去を暗記する学問、というふうに捉えている方は多いかもしれません。かくいう僕はほとんどそう考えていました。資料のあるところはその解読はずいぶん以前に完了していて、解釈も決まっている。資料がない部分はその近辺のわかっている(ものと決めている)情勢などから鑑みて埋めてやって、「○○だったのではないかと考えられている」などと短く終える。そういうものだと捉えていて、事件や改革など大きな点をちょっと知ってしまえば面白さは感じなくなり、その他の細かく暗記するところで面倒になる、と思っていた。とにかく、歴史とは解釈が終わったもので、地層のようにゆるぎないものだと理解していた。
でも歴史は、現代でも解釈がいっぽうからもういっぽうへと急に大きく針がふれたりするんですよね。悪者とされていた人が、実はなんのことはない平凡な人だっただとかに変化するなどです。たとえば本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、僕が子どもの頃だった30年くらい前には、裏切り者で悪役の最たるものとされていた。有名なゲームですが『信長の野望』というシミュレーションゲームでの明智光秀の、隠しパラメータ「義理」が低かったりなどしました。表パラメータの忠誠心も低かったですし。でも、信長を討ったくらいだし、それ以前にも重用されていた武将だから政治力だとか軍事面での能力だとかは高かったです。それが今では、新聞記事で新資料発見なんてでたときに、謀反はやむを得ない理由があったっぽいだとか、黒幕がいて明智光秀本人は駒にすぎないだとか、いろいろな説がでてきて、人物像もそれぞれ異なる解釈がされていたりします。それは歴史小説という場で歴史を語るときには特にそうなのではないでしょうか。
本書は、そういった歴史の解釈はアクティブに変化していくもので、まだまだ完成していないものなのだ(または、完成するものでもないものなのだ)というような立場で歴史を見ることをまず教えてくれます。その上で、著者一流の歴史の読解で論理的に納得のいく解釈を進めていってくれる。それがとてもエキサイティングなのでした。
鎌倉時代、後鳥羽上皇と北条義時とを扱った章、この章でのクライマックスである大事件は「承久の乱」ですが、その時代の状況や「なぜ官軍の後鳥羽上皇が負けたのか」との疑問、その前後、そして人物像まで、丁寧な述懐にずいぶん引きこまれて読むことになりました。このような読書体験が、歴史は無機質な暗記モノなんかじゃなくて、考えるものとして学んだり研究したりできるものだぞ、という知見をもたらしてくれます。日本史という学問へのおもしろそうなイメージと親近感が生まれました。
興味のある方のため、八つの対立は誰と誰かを記しておきます。①平清盛と源頼朝、②後鳥羽上皇と北条義時、③安達泰盛と平頼綱、④足利尊氏と後醍醐天皇、⑤細川勝元と山名宗全、⑥今川義元と北条氏康、⑦三好長慶と織田信長、⑧豊臣秀吉と徳川家康。
最後になりますが、ちょっと独特な読み方をしたところについて書いていきます。「一日に一度は庭で生首をみないと気持ちが悪い」とそこらの人たちを切り捨てさせている武士がいて、そういう残酷さは珍しくないとあったんです。室町時代のはじまりの頃のこと。子どもの頃から犬追物(犬を追いかけて弓矢で射て殺す)をさせているし、人間ってどういうふうにも育つものなのだ、と思ってしまいました。たぶん、こういう残酷なことをしてもそこに葛藤を持たなくていいような成立の仕方をした社会にいれば、気に病むこともなくなるのかもしれないです。それはたとえば、今の心理学で定めるような「現代の人間像」って絶対ではないことを教えてくれます。戦場の苛烈さに違いはあるのですが、現代には兵士のPTSDの問題があります。現代のふつうに生活を送っているスタンダードな社会の考え方や価値観がつよくて、それらと板挟みになるからPTSDなどの精神的な病が起こるのかもしれないなんて思いました。
鎌倉時代や室町時代つまり、武士の世。社会が暴虐に対してゆるくて、その暴虐を行使する位置にいる人々が共有する暴虐肯定の社会観が、武士の存在が幅を利かせるようになったがため、それがローカルなものというよりもひろく行き渡っていったから、武士という人間は病みもしないかったのか。その時代に飛んでいってみないとわからないことですけれども。でも、そういう社会でも苦しんで病んでる人がいたってことはあると思う。それがそこそこいるのか、例外の範疇かですが。
「社会と個人のマインドは相互に影響を受けて揺れ動くものである」というふうに僕たちはイメージしやすいものですけど、心理的な規制って社会からも個人からもでてくるもので、個人が規制を感じてそのこころに生まれさせる葛藤を処理できなくなるから、人はこころを病むのかなと仮説的に考えちゃうところなのでした。武士の世においてその暴虐に対して民衆からは無言の抗議の空気は発せられたかもしれないけれど、民衆からの空気による規制はとるに足らないくらい弱く、暴虐を肯定し認める空気のほうがよっぽど強いために、武士は病まなかったのではないのかな。社会からの心理的な規制がゆるかった。出家する者もそれほど苦にしていない気がします、個人的にですが。悪い意味でもおおらかだったんじゃないか。
というところですが、ひとつ知見を拾えましたね。規制はどうやらこころによくなさそうだ、と。自由をつよく望み、守ろうとする人は規制に対してそういうことをよく知っているのでしょうね。
さてさて、話は日本史そのものに戻りつつ終わります。日本史はいちおう受験科目でしたし、10代のころは先に挙げた『信長の野望』や漫画『花の慶次~雲のかなたに』(原作の『一夢庵風流記』も読みました)などの影響で戦国時代だけならばそれなりに親しんではいました。でも、いまやまったく縁遠くなっていて、本書で久しぶりに日本史に触れて、実におもしろかったです。日本史初歩の方にも向いていると思いますよー。わからない人物や固有名詞はネット検索しながらでもオッケーですから。
『戦いの日本史』 本郷和人
を読んだ。
武士が誕生し台頭していくあたりから徳川幕府樹立までの、その時代時代を代表する一対の対立軸から、相対する二人を一組として合計八組とりあげて歴史を解読していく本です。武家がどのように力を得ていって覇者になっていくかがわかります。
ご承知のように、古い武家は新しい武家に取って代わられながら時代は進んでいきますが、その都度、力を増して、最後には(徳川氏の時代には)日本全国を支配するほどのものとなる。それがどういった流れだったのか。資料に乏しいところや資料を疑うべきところを歴史学者の著者の推察や推測で構築しながら、ひとつの仮説的に解いていく体裁でした。
義務教育から高校まで、歴史といえばもう決定した過去を暗記する学問、というふうに捉えている方は多いかもしれません。かくいう僕はほとんどそう考えていました。資料のあるところはその解読はずいぶん以前に完了していて、解釈も決まっている。資料がない部分はその近辺のわかっている(ものと決めている)情勢などから鑑みて埋めてやって、「○○だったのではないかと考えられている」などと短く終える。そういうものだと捉えていて、事件や改革など大きな点をちょっと知ってしまえば面白さは感じなくなり、その他の細かく暗記するところで面倒になる、と思っていた。とにかく、歴史とは解釈が終わったもので、地層のようにゆるぎないものだと理解していた。
でも歴史は、現代でも解釈がいっぽうからもういっぽうへと急に大きく針がふれたりするんですよね。悪者とされていた人が、実はなんのことはない平凡な人だっただとかに変化するなどです。たとえば本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、僕が子どもの頃だった30年くらい前には、裏切り者で悪役の最たるものとされていた。有名なゲームですが『信長の野望』というシミュレーションゲームでの明智光秀の、隠しパラメータ「義理」が低かったりなどしました。表パラメータの忠誠心も低かったですし。でも、信長を討ったくらいだし、それ以前にも重用されていた武将だから政治力だとか軍事面での能力だとかは高かったです。それが今では、新聞記事で新資料発見なんてでたときに、謀反はやむを得ない理由があったっぽいだとか、黒幕がいて明智光秀本人は駒にすぎないだとか、いろいろな説がでてきて、人物像もそれぞれ異なる解釈がされていたりします。それは歴史小説という場で歴史を語るときには特にそうなのではないでしょうか。
本書は、そういった歴史の解釈はアクティブに変化していくもので、まだまだ完成していないものなのだ(または、完成するものでもないものなのだ)というような立場で歴史を見ることをまず教えてくれます。その上で、著者一流の歴史の読解で論理的に納得のいく解釈を進めていってくれる。それがとてもエキサイティングなのでした。
鎌倉時代、後鳥羽上皇と北条義時とを扱った章、この章でのクライマックスである大事件は「承久の乱」ですが、その時代の状況や「なぜ官軍の後鳥羽上皇が負けたのか」との疑問、その前後、そして人物像まで、丁寧な述懐にずいぶん引きこまれて読むことになりました。このような読書体験が、歴史は無機質な暗記モノなんかじゃなくて、考えるものとして学んだり研究したりできるものだぞ、という知見をもたらしてくれます。日本史という学問へのおもしろそうなイメージと親近感が生まれました。
興味のある方のため、八つの対立は誰と誰かを記しておきます。①平清盛と源頼朝、②後鳥羽上皇と北条義時、③安達泰盛と平頼綱、④足利尊氏と後醍醐天皇、⑤細川勝元と山名宗全、⑥今川義元と北条氏康、⑦三好長慶と織田信長、⑧豊臣秀吉と徳川家康。
最後になりますが、ちょっと独特な読み方をしたところについて書いていきます。「一日に一度は庭で生首をみないと気持ちが悪い」とそこらの人たちを切り捨てさせている武士がいて、そういう残酷さは珍しくないとあったんです。室町時代のはじまりの頃のこと。子どもの頃から犬追物(犬を追いかけて弓矢で射て殺す)をさせているし、人間ってどういうふうにも育つものなのだ、と思ってしまいました。たぶん、こういう残酷なことをしてもそこに葛藤を持たなくていいような成立の仕方をした社会にいれば、気に病むこともなくなるのかもしれないです。それはたとえば、今の心理学で定めるような「現代の人間像」って絶対ではないことを教えてくれます。戦場の苛烈さに違いはあるのですが、現代には兵士のPTSDの問題があります。現代のふつうに生活を送っているスタンダードな社会の考え方や価値観がつよくて、それらと板挟みになるからPTSDなどの精神的な病が起こるのかもしれないなんて思いました。
鎌倉時代や室町時代つまり、武士の世。社会が暴虐に対してゆるくて、その暴虐を行使する位置にいる人々が共有する暴虐肯定の社会観が、武士の存在が幅を利かせるようになったがため、それがローカルなものというよりもひろく行き渡っていったから、武士という人間は病みもしないかったのか。その時代に飛んでいってみないとわからないことですけれども。でも、そういう社会でも苦しんで病んでる人がいたってことはあると思う。それがそこそこいるのか、例外の範疇かですが。
「社会と個人のマインドは相互に影響を受けて揺れ動くものである」というふうに僕たちはイメージしやすいものですけど、心理的な規制って社会からも個人からもでてくるもので、個人が規制を感じてそのこころに生まれさせる葛藤を処理できなくなるから、人はこころを病むのかなと仮説的に考えちゃうところなのでした。武士の世においてその暴虐に対して民衆からは無言の抗議の空気は発せられたかもしれないけれど、民衆からの空気による規制はとるに足らないくらい弱く、暴虐を肯定し認める空気のほうがよっぽど強いために、武士は病まなかったのではないのかな。社会からの心理的な規制がゆるかった。出家する者もそれほど苦にしていない気がします、個人的にですが。悪い意味でもおおらかだったんじゃないか。
というところですが、ひとつ知見を拾えましたね。規制はどうやらこころによくなさそうだ、と。自由をつよく望み、守ろうとする人は規制に対してそういうことをよく知っているのでしょうね。
さてさて、話は日本史そのものに戻りつつ終わります。日本史はいちおう受験科目でしたし、10代のころは先に挙げた『信長の野望』や漫画『花の慶次~雲のかなたに』(原作の『一夢庵風流記』も読みました)などの影響で戦国時代だけならばそれなりに親しんではいました。でも、いまやまったく縁遠くなっていて、本書で久しぶりに日本史に触れて、実におもしろかったです。日本史初歩の方にも向いていると思いますよー。わからない人物や固有名詞はネット検索しながらでもオッケーですから。