Fish On The Boat

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『分析哲学講義』

2013-12-27 22:09:21 | 読書。
読書。
『分析哲学講義』 青山拓央
を読んだ。

「哲学」ならば、聞いたことがあるし想像もつく学問の分野だな、
という人は多いですよね。
じゃあ、「分析哲学」となると、どんな分野の学問なのか、
「分析」とつくだけで、多くの人にとって憶測の範囲の学問になります。
哲学よりも、細かいことを考えるんだ、と思う人もいるでしょう。
しかし、哲学は細かいこともちゃんと考えていく学問です。
なにか数式を使ってアナライズしていく学問かな、と思う人もいるでしょう。
確かに論理式を使ったりもすると書いてありますが、本書のような入門書には
ごくごく少ない数式の登場に抑えられていました。

かいつまんで「分析哲学」を紹介すると、
言葉を考えていく学問と言うことになります。
言葉と言っても、単語を掘り下げていくというよりか、
ひとつの文章を一つの単位として読んで、
その中での単語の働きなどからでてくる意味から探っていく感じです。
そうやることで、信じられないかもしれませんが、森羅万象にも近づいていくことになるんです。
言葉をベースにちまちまと哲学すると言ったほうが早いのかもしれないです。
イメージ先行、発想先行で考えていくわけではなくて、
言葉で論理的に、飛躍せずに考えていく哲学といえるでしょう。

そのあたりの説明などはまったくといいほどないのですが、
それはそれ、分析哲学のありかたとして、哲学者・ウィトゲンシュタインの手法のように、
一つの文章を読んで、その方向性や全体としての意味などを見ていくスタイルなので、
読者は自分で本書を読みながら汲み取っていかなければいけない。
いろいろなトピックを、著者に導かれながら考えていくのですが、
そうすることで、あぶり出されるようにわかるのが、分析哲学と言うものの有りようだ、
という構造になっています。

言葉の欠点というか盲点というか、そういう部分を見つけ出してそこを埋めるために
考えていくというのが多いです。

「トマトは赤い」という言葉から伝えられる「赤い」は、一体どんなイメージなのか、
という話もありました。「トマトは赤い」と言った人の見た「赤い」が、
相手にそのまま伝わることは不可能で…、でも、相手には「赤い」が伝わります。
そのイメージの差があると同時に、その「赤い」を相手はどこから想起したのかが
謎ではないかというのです。発話者の「赤い」は私的な言葉ですから、
その私的さが相手に伝わるわけはないんですよね。
…とまぁ、くどくど書いていくと、僕もアラがでますので、
いろいろ知りたい人、考えたい人は本書を手に取ってみてください。
難しい本ではあります。

言葉は完璧じゃないからこそ、浮かび上がってくる深みっていうものがあります。
そこを、さらに言葉でえぐることに限界はあるんじゃないかなと僕は思うのです。
分析哲学はそういう意味での弱点ってありそうです、素人考えですが。

「クオリア問題」た「心脳問題」も、こころの哲学の章で少し扱っています。
後半3章は楽しむ内容で、それまでの章が、後半を楽しむための修練的でもありました。

かいつまんで「分析哲学」を紹介すると、言葉を考えていく学問と言うことになります。言葉と言っても、単語を掘り下げていくというよりか、ひとつの文章を一つの単位として読んで、その中での単語の働きなどからでてくる意味から探っていく感じです。そうやることで、信じられないかもしれませんが、森羅万象にも近づいていくことになるんです。言葉をベースにちまちまと哲学すると言ったほうが早いのかもしれないです。イメージ先行、発想先行で考えていくわけではなくて、言葉で論理的に、飛躍せずに考えていく哲学といえるでしょう。そのあたりの説明などはまったくといいほどないのですが、それはそれ、分析哲学のありかたとして、哲学者・ウィトゲンシュタインの手法のように、一つの文章を読んで、その方向性や全体としての意味などを見ていくスタイルなので、読者は自分で本書を読みながら汲み取っていかなければいけない。いろいろなトピックを、著者に導かれながら考えていくのですが、そうすることで、あぶり出されるようにわかるのが、分析哲学と言うものの有りようだ、という構造になっています。

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