読書。
『教室内カースト』 鈴木翔 解説:本田由紀
を読んだ。
小中高の学校に存在するスクールカーストと最近では呼ばれる、
生徒間での序列がどういうものかを解き明かそうとする本です。
前回読んだ、『桐島、部活やめるってよ』でも、生徒間の関係性の「上」「下」
というものがでてきました。きっと、僕が高校生だった90年代の中頃よりも、
そういったものがクリアになってより子どもたちをひっ迫しているのかなぁと
思って読みました。そして、読んでいるうちに、自分が学生だった頃の、
スクールカースト的な序列というものも思い出してきて、
今考えればそう分類されるのかなと新たな視点からとらえ直すことになりました。
きっと、ほとんどの人が感じたことがあると思いますが、
あの人はスポーツができてかっこよくて、「上」にいて、発言力があって、
自分の思うように事を進めがちだったというのがなかったでしょうか。
あるいは、そういう人は自分だったという人もいるでしょう。
本書では、そういう序列を若い大学生のインタビューから構成し、
その後、教師からのインタビューからも構成して、
生徒と教師という二つの立場からスクールカーストを追っていたりします。
教師っていうのは、安易で一面的な社会的価値観の上に成り立っているんだなぁと、
あらためて、僕が中高生のときに感じたような嫌悪感を感じました。
読んでいくとわかりますが、上にいるものも下にいるものも、誰も得しないんですよね。
「え、上にいる人は得なんじゃないの」と思う人もいるでしょうけれど、
人間的にそれじゃいけないわけで、そういういけないことを勉強する機会を失って、
未熟な価値観のまま大人になっていくので、とても残念なのです。
最終章では、ではどうやってスクールカーストのある今の学制に対応していけばよいか、
その方法の提案がありますが、決してドラスティックな感じではない。
僕はこう考えるのですが、「上」の人間でも、その浅薄な価値観に気付けば、これではいけないと
変わろうとしていくと思います。でも、「上」にいる「甘さ」に慣れてしまうと、
なかなかそうはできずに、社会に出てからも、
スクールカースト的な価値観をどこにでも持ち込もうとするはずです。
たとえば、団地で公園デビューするとか言う話が実際にも小説にもでてきますけれども、
そういうときの人間関係の序列もスクールカースト的だったりします。
人間はどうしても、人を値踏みして、序列を決めないと落ち着かない生き物なのかなと思ったりもします。
また、「下」の人間であれば、「上」の嫌悪感も「下」の不自由さも知っているので、
そうではないオルタナティブというか、アザーサイドなというか、
もっと別の価値観を探したり構築したりして、
そういう自分へ変化していこうと努力すると思います。
そういう意味では、10代のスクールカーストによる苦みは良いほうへ機能する。
僕の持論では、いじめは、いじめる側はその時に権力の甘味を知って堕落するので、
それ以上の人間にはなかなかなりにくい人が多く、いじめられる側は、
自分に疑問を持ったりして、苦しむのだけれど、その後の人生では
自分が変化していくことにためらわないような人になることが多そうなので、
それだけ人生が開ける可能性があると思っています。
いじめられる側のほうが、その後、頑張るんですね。楽観的な考えかもしれないですけど。
そういう立場にいたいか、いたくないかの差で人生は大きく変わるということです。
なぜ、今、こんなにスクールカーストが明確になったのか。
そして今後スクールカーストを解体していくことができるのか。
それら両方にはきっと「自我」というものが関係しています。
現代の、特に大人は、自我の肥大によって、上からの目線に過敏になっているといいます。
なので、そういうことを扱う本には、摩擦を避けることも一つの方法として書かれていたりしますが、
もしかすると、スクールカーストに代表される、社会の序列づけに対しての拒否反応かもしれない、
なんて考えてみたりもできます。
学生は、そのまま「今」の問題として。
社会人は、「過去」でありそうで、社会の中でもそのまま生きてしまっている
序列に対して類推的にも読めるでしょう。
きっとスクールカーストは短絡的な価値観で出来あがっていますが、
子孫繁栄の性のプログラムがされた人類の生存戦略として
一番てっとりばやい発現の仕方なんじゃないでしょうか。
そんなふうにも思いました。
『教室内カースト』 鈴木翔 解説:本田由紀
を読んだ。
小中高の学校に存在するスクールカーストと最近では呼ばれる、
生徒間での序列がどういうものかを解き明かそうとする本です。
前回読んだ、『桐島、部活やめるってよ』でも、生徒間の関係性の「上」「下」
というものがでてきました。きっと、僕が高校生だった90年代の中頃よりも、
そういったものがクリアになってより子どもたちをひっ迫しているのかなぁと
思って読みました。そして、読んでいるうちに、自分が学生だった頃の、
スクールカースト的な序列というものも思い出してきて、
今考えればそう分類されるのかなと新たな視点からとらえ直すことになりました。
きっと、ほとんどの人が感じたことがあると思いますが、
あの人はスポーツができてかっこよくて、「上」にいて、発言力があって、
自分の思うように事を進めがちだったというのがなかったでしょうか。
あるいは、そういう人は自分だったという人もいるでしょう。
本書では、そういう序列を若い大学生のインタビューから構成し、
その後、教師からのインタビューからも構成して、
生徒と教師という二つの立場からスクールカーストを追っていたりします。
教師っていうのは、安易で一面的な社会的価値観の上に成り立っているんだなぁと、
あらためて、僕が中高生のときに感じたような嫌悪感を感じました。
読んでいくとわかりますが、上にいるものも下にいるものも、誰も得しないんですよね。
「え、上にいる人は得なんじゃないの」と思う人もいるでしょうけれど、
人間的にそれじゃいけないわけで、そういういけないことを勉強する機会を失って、
未熟な価値観のまま大人になっていくので、とても残念なのです。
最終章では、ではどうやってスクールカーストのある今の学制に対応していけばよいか、
その方法の提案がありますが、決してドラスティックな感じではない。
僕はこう考えるのですが、「上」の人間でも、その浅薄な価値観に気付けば、これではいけないと
変わろうとしていくと思います。でも、「上」にいる「甘さ」に慣れてしまうと、
なかなかそうはできずに、社会に出てからも、
スクールカースト的な価値観をどこにでも持ち込もうとするはずです。
たとえば、団地で公園デビューするとか言う話が実際にも小説にもでてきますけれども、
そういうときの人間関係の序列もスクールカースト的だったりします。
人間はどうしても、人を値踏みして、序列を決めないと落ち着かない生き物なのかなと思ったりもします。
また、「下」の人間であれば、「上」の嫌悪感も「下」の不自由さも知っているので、
そうではないオルタナティブというか、アザーサイドなというか、
もっと別の価値観を探したり構築したりして、
そういう自分へ変化していこうと努力すると思います。
そういう意味では、10代のスクールカーストによる苦みは良いほうへ機能する。
僕の持論では、いじめは、いじめる側はその時に権力の甘味を知って堕落するので、
それ以上の人間にはなかなかなりにくい人が多く、いじめられる側は、
自分に疑問を持ったりして、苦しむのだけれど、その後の人生では
自分が変化していくことにためらわないような人になることが多そうなので、
それだけ人生が開ける可能性があると思っています。
いじめられる側のほうが、その後、頑張るんですね。楽観的な考えかもしれないですけど。
そういう立場にいたいか、いたくないかの差で人生は大きく変わるということです。
なぜ、今、こんなにスクールカーストが明確になったのか。
そして今後スクールカーストを解体していくことができるのか。
それら両方にはきっと「自我」というものが関係しています。
現代の、特に大人は、自我の肥大によって、上からの目線に過敏になっているといいます。
なので、そういうことを扱う本には、摩擦を避けることも一つの方法として書かれていたりしますが、
もしかすると、スクールカーストに代表される、社会の序列づけに対しての拒否反応かもしれない、
なんて考えてみたりもできます。
学生は、そのまま「今」の問題として。
社会人は、「過去」でありそうで、社会の中でもそのまま生きてしまっている
序列に対して類推的にも読めるでしょう。
きっとスクールカーストは短絡的な価値観で出来あがっていますが、
子孫繁栄の性のプログラムがされた人類の生存戦略として
一番てっとりばやい発現の仕方なんじゃないでしょうか。
そんなふうにも思いました。