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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

他律性の正体がみえてきた。

2016-10-17 12:51:48 | 考えの切れ端
前にも書きましたが、
他律性はイライラや強い疲労感を生む。
で、他人の人生の主人公にまでなろうとするひとが
他律性を行使するんですよね。
そうやっていって他人が苦しみだしたら、
自分は関係ないと言うどころか、
アイツはダメだとかディスりはじめます。
自律性の確保、他律性を近づけない、
これができたら大分生きやすくなりますよね。

ほんとうに、
干渉や他律性の行使が目に余るひとには、
蹴りを入れてやっていいと思います。
個人的に。

俺だ俺だ!っていう自分のことだけしか考えないと
生き残れないんだと思わせられる種類の競争社会が、
他人に対して他人自身の自律性よりも
自分の考えや意図をおしつける他律性を流行らせるんだと思いますよー。

世の中、出る杭は打たれるのだから、
「他律性を発揮する」という出る杭こそ打たれればいいのに。

また、
世のなかでどれだけ、他律性が大目に見られているかっていうことです。
みんな、少なからずそういう干渉したい気持ちがあって、
それが強引過ぎて他人をコントロールしようとしてしまう、
つまり他律性を発揮してしまうんだろう。

善意なんだよね、干渉したい気持ちの源って。
だからこそ、善意を発揮する時は申し訳ない気持ちで、
もっと言えば悪いことをしているような気持ちになることは大事になるんです。
吉本隆明さんが言っていたんですよね、
善いことをしているときは、悪いことをしていると思ってやる、
みたいなことを。

利己によるものと善意によるものと。
他律性(他者コントロール性)ってその二つからあるものかなあと
今のところ考える。
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『自分を見失う、他律性』&『距離感はふたつある。』

2016-07-26 23:27:40 | 考えの切れ端
『自分を見失う、他律性』

忙しすぎて「うきゃー!!!!」ってなるひと、
ヒステリーを起こすひとなどいますが、
それってたぶん、
一日が他律的な要素で満たされるからそうなるんです。
そしてそんな日々には、
炊事や掃除までが他律的に思えちゃう。
それに対して、
つよく自律性を感じられる何かを持つことが、
いいのかなあなんて思う。

なにからなにまで、
なにかにやらされてる感じの人生ってだるいぜ。

そのあたりに、
幸福な過ごし方、幸福な生き方のヒントがあるような気がしませんか?

____


きょうはもうひとつ。

____


『距離感はふたつある。』

お盆が近づいてきました。

旦那の実家に泊まり行くのがいやだ、気が重いという
奥様だとかいらっしゃいますが、
まあ、本当に他人なんだからそうだなよなあと思いますよ。
「親戚」という形式的には近い距離にポジションを取らせられながらも、
必ずしも心理的な距離は近くないわけです。
それを、形式的な近い距離に、心理的な遠い距離のものを
近づけさせなければならないところに苦しみが生まれるんでしょうねー。

人間関係において、
形式的な距離と心理的な距離が、
無理せずに一致していると楽なんですよ、ひとって。

そういうところ、ほんとうの血縁の親戚相手でも
面倒くさいなあと感じることがあるくらいですから、
いかに、形式にひとは縛られがちかってことですよね。
社会というか、風習というかが、それを求めます。

それでもって、形式的な距離が実に優位で、
心理的な距離を詰めるのに苦労するのが、
「しがらみ」のひとつの見え方だと思います。
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日々は、ボクシングの試合ではない。

2016-07-09 20:11:00 | 考えの切れ端
ロジックの根底に未熟な感情があって、
とにかくロジックでひとを追い詰めたいというタイプの言説があります。
ブラック企業にしろ、不倫にしろ、政治にしろ、
そういうものに対してであっても、
そういったタイプの言説で打ち返そうとするのは、
糾弾相手と実は似た者同士なのだと思う。

みんなの気づいていないポイントに光を当てるような言説で批判しても、
ひとを追い詰めたり追い込んだりするのはいかがなものでしょうか。
高みからの批判であり、
安全地帯からの批判であるというアンフェアな立場でひとを追い込むのは、
自分を「潔癖」で「善」で「白」で「正しい」と信じこんでいる
間違った心性がある。
自分(人)ってものは、正しい面もあるけれど、必ずよくない面を併せ持つものです。
よい面ばかりをみすぎると、大きく見失うものがあります。

そして、
なんでもかんでも、
ボクシングの試合のように、
防御を固めてなるべく打たせないようにして
こっちから急所を打つみたいなやり方が
正しくて真であるみたいな考え方が流布しちゃっている。
そんなリラックスして生活できない社会だから、
胃を痛めるひとが多いのです。

毎日、
分刻みでボクシングみたいな試合をする日々なんて
馬鹿げていやしないかな?
ケンカしたいときには、
それなりに手加減して、
ノーガードで、
一発張られたら張り返すみたいなのでいいと思うんだ。
ボクシングの試合のようなのは緊急事態なんですよ。
それを、みんなチキンというか用心深くて毎日やる。

とにかく息の根を止めたいという気持ちでひとを追い詰めたりするのは、
そうでなくては自分がやられるという強迫観念があるからなのかもしれない。
自らの不寛容の理由は、
他人の寛容さを期待できないという悲観的・不信的な予測が
あたまにこびりついているからなのかもしれないです。
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悪感情、生まれ出たり。

2016-06-20 20:00:41 | 考えの切れ端
正しく、善く、ということをこころがけて毎日仕事していると、
人間の(自分の)そういう面ばかり使うようになるから、
その反動で「このブタ」とか「クソ野郎」とか、
それまで普段まったくでてこなかったような
汚らしい悪い感情もふつふつと心の中で泡立ってくる。

正しく、善く、正確に、迅速に。
そういう仕事のあり方、サービスの仕方が、
そういう仕事をする人たちの心を蝕んでいくのは、
1+1=2のように正しい、善い、正確などの行為が
すべて計算したようにうまくいくとは限らないからかもしれない。
ズレや齟齬なんかが、全霊をかけた良心に反動の傷をつける。

つまり、人間の悪い感情の出どころっていうのは、
たとえば良いことをしていると自分で思っていても、
それが良いと相手にとらえられなかったり、
悪い結果を出したり、
自分の思い通りにならない現実に対しての
駄々っ子的な我の張り方にあるんでしょうね。

ということは、「自分!自分!」っていう、
自らが大事なひとほど、悪感情が湧きおこりやすいと言える。
現実が思い通りにならないたびに、大きな自我が文句を言いだすんです。
自分探しをして、自分を見つけちゃったひとほど、
この罠にはまるんでしょうね。
(自分なんて見つかるもんじゃないけどね)

自分を見つけて、
確固とした自分を確立してしまう弊害がここにあるということです。
自分というものは失くしていったほうがいいという
仏教的な考えのよいところはここにあるなあ。
みうらじゅんさんの「自分なくし」の考えのよさもここにある。

ただ、ほんとうに、ちゃらんぽらんなくらいに自分が無くなると、
オウム真理教みたいなのが出てきたときに、
取り込まれてしまう危険性があると思います。
支配的な者の奴隷にされてしまう危険性があると思う。
・・・どこまで自分を失くし、自分を持つか。
そこが問題です。

そして、善い、正しい、正確、迅速、
そういったものばかり求めて奨励して
スポットライトを当てる価値観もちょっとおかしなもんだということです。
そりゃ、そういうサービスをされれば嬉しいだろうけれど、
サービスを受ける人々が王様か?神様か?何様なのだ!
というくらい妙な位置に立つのはおかしい。

王様みたいなサービスを受けたい、
神様みたいに扱ってほしい、
そういったサービスをする人への要望は、おかしなもんです。
えらくなりたい、権力を持ちたいというこれまた、大きな自我のもつ弊害です。
あるいは、払拭されない悪感情を癒すための、
悪行的な王様的位置へのおさまり。

そう考えていくと、やっぱり、
自我って大きなものはよくないなあというのがつくづくわかります。
自我の肥大とも言える。
女の子は大きな自我を子どもの頃に持っていて、
思春期にそれを削っていく作業になるそうで、
男の子は、思春期にぽこっと自我が芽生えるものなんだそうです、
ものの本によると。

と、まあ、あんまりまとまらないけれど、
言いたいことは言えたかなという感じです。
自我って難しいね、という。
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カンペキさのほうを向いた理想。

2016-06-12 21:54:11 | 考えの切れ端
「自分はたいした人間じゃない」
と謙遜でもなくつぶやく場合って、
誰にたいして言っているかって、
それは若いころの自分に向かって言っているのかもしれない。
理想や目標がカンペキのほうを向いていて、
それは達成できるものと信じて疑わなかったあの頃の自分。

人間、そういうもんだと思うんですよ。
それで、逆に、年をとってから自分は大したものなんだ、
と言えてしまうひとは怪しいのかなと思ったり。
若いころ考えるカンペキさみたいなものって、
実は欠陥だらけだとも思うのですよ。

欠陥だらけのカンペキさは、
達成できないほうがより素直な生き方だと思うわけです。
そのカンペキな理想を、
その理想の隠しもつ欠陥さえ補って達成しえなかったことに対して
「自分はたいしたことがない」と思うことっていうのは、
そういう負い目を持ちながら生きることによって、
そのひとの形成していく円熟味に繋がるのではないか。

自分はたいしたものだと言えてしまうひとは、
たぶんにカンペキさのもつ欠陥に気付けていない。
もしくは見て見ぬふりするようなタイプか、
内省のできないタイプのようにも思えます。
きっと脳の構造だとか社会の構造だとかの兼ね合いから、
欠陥のないカンペキさって絵にかいた餅なんだろうなあ。

若いひとが年輩の人の
「自分は大したことがない」というぼやきに対して、
情けないなと嘲笑したり冷笑したりすることってあると思うのです。
でも、前述のように、
若いひとのもつカンペキさ、つまり理想ってものは、
人間にとっては無理の生じる種類のものなんだと思うよ、
っていうことを言っておきたかったのです。
一番いいのは、理想に燃えながらも寛容さというか、
わかってあげられる気持ちを持つことなのかもしれないです。
難しいけれど。
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ネット空間はなぜピリピリするのか?

2016-04-25 13:01:46 | 考えの切れ端
既得権益にのうのうとする権力者の傲慢に端を発すると思うんですよ、
ピリピリネット空間って。

権力者に対抗するためにはみんなを扇動しなきゃ、と考えるひとがいた。
そういう手段に頼るしかないところに追い詰められた
と考えるひとの姿勢が伝染して、今こうなんじゃないかな?

はじめは、既得権益層なんかにダメージを与えることができた、
スゲー、っていう少ない例がではじめて、
その成功体験に酔っぱらってしまったんだと思うんですよ。
なんでもまくしたてた者勝ちだ、
っていうあまりよからぬ方向に進んでも、
かつての成功体験を見知っているから、
盲目的になってしまう。

たとえば、その少ない例について言えば、
ぼくがネットをはじめて数年たった2000年前後のころに、
某有名企業T社の製品にクレームをつけたんだけど、
まともにとりあってくれないどころか、
電話応対がまともじゃなかった、というのを
録音してネットに公開して告発していたのがありました。
おおやけにすることで、
某社が権益にあぐらをかいているのをただそうとする意図も
あったと思います。
個人的な憤怒だけじゃなくて。

また、
ぼくが20代前半だったころにWEBで知り合ったひとが、
とある掲示板なんかで言いたいことを言っていて、
「建設的にやっていこう」と書きながらも権力に挑んでいった。
裏では、アジテーターだとかなんとかいって、
クレーマーぎりぎりのポジションで、意見していたと思う。

そういう方法はいちおう即効性があったから、
世間にもどんどん広まっていったんじゃないだろうか。
逆に言えば、そうでもしなければ、変わらないように見えた社会だった。
そのなれの果てが今の不謹慎狩りだとかの風潮なのかもしれない。
意見を言ったり、攻撃したりする自己の行為に無批判だったからだ。

やっぱり内省って大事だよなあ。
権力者もそれ以外のひとも、内省するひとがおおければ、
こんなにぎすぎすしてとがったネット空間だとかにならないはずだもの。
サイレントマジョリティに期待するわけじゃないけど、
そんなひとたちばかりでもないよね。
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しつけにおける子どもと大人の在り様。

2016-03-05 00:09:19 | 考えの切れ端
大半の大人が、わかっていないことをわかっていることとしてものを言う。
もっと考えるべきことだったり、
考えても答えなんてなかなかでなかったり、もしくはなかったり、
どっちを選択するか重い決断をしなければならなかったりするのに。
そういうのは、子どもになめられないことを優先するからなのだろう。

しつけ、教育すること。
それらが大人を変形させる部分はあると思う。
大人自身が小さくまとまらないと、なかなかしつけってできない。
まさにとりあえずの「知恵」「知識」を授けることが多いんじゃないだろうか。

大人が子どもにしつけや注意をすることは、
その子どもが大人になるための基礎部分を固めることで大事だし、
基礎は単純なことだったりもするかもしれないけれど、
大人になれば、その基礎すら疑ってかからねばならなくなる場合も多々ある。
つまり、大人になるまでの、
リミット付きの知恵や知識を処方されていたという部分が見えてきます。

子どもは、ある程度おおきくなったら、
大人がしてくれたしつけや注意は、
自分の行動や思考に付箋をつけてくれた程度のことだと考えて、
考え直せるところは考え直すことをやったほうがいいし、
知的探究心が強ければそうなっていくでしょう。

その段階で、子どもは一時、大人ってウソつきで真実を教えてくれない、
なんて反抗的に思うかもしれないけれど、
ひとが大人となって教育する側に立ち、
しつけをし、注意をしなければならない立場に立たされれば、
途方に暮れた揚げ句にそういう便宜的な考えに行き着いて
しつけをしていることに気づくと思う。

未完成で、不完全で、未熟。
そういう思想や考え方のまま親や教育者、大人にならなければならない。
だからといって引け目を感じながらだと子どもになめられる。
子どもにも教えられながら、
相互に学んでいこうとする空気を共有する大人と子どもだったら、
やりやすいなあとは思う。

よって、大人は人に教えたりしつけたりする立場に立つと変形せざるを得ない。
そのことは大人自身の為にも忘れてはいけないですね。
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言葉のための生きづらさ

2015-08-30 00:00:05 | 考えの切れ端
特にこのブログではそうですが、
ぼくはよく、生きづらさをテーマにして考えます。
それはなによりも、ぼく自身が若い頃に、
「世の中って思ってたよりも生きづいらいなぁ」
と感じたことに端を発したからです。

そして、世の中の方を変えればいいやというような、
西欧的な思考(なのかな?)でもって
考えを進めてきましたが、
生きやすくするためには、
自分を変えなければいけないという部分も
けっこうあるわけです。
自分から変わっていこうとするのは東洋的な思考とされますね。

それで、今日はそのひとつである、
「言葉によるがんじがらめ」のための生きづらさについて、
ちょっぴり書いていきます。


言葉にがんじがらめになると生きていて苦しくなるものだ。
言葉にがんじがらめにならない生き方ってなんだろうか?
それは、わからないことはわからないと言い、
言葉で飾り立て過ぎず、ウソをつかないことです。

言葉っていうものは、口にすれば音とともに
空中に消えていくもののように思うかもしれない。
でも、言葉って実はけっこう強いもので、
書き物をして意識から言葉を外に出せば、
意識上から言葉が霧のように消えていくわけじゃないように
(まあ、忘れることはありますけど)、
頭にはその痕跡って残ると思うんです。

それで、わからないことをわかるというとどうでしょう?
ウソをつくとどうでしょう?
そういう言葉が意識を占有するパーセンテージがあがります。
そういう言葉に意識がとらわれて、がんじがらめになるんですね。
それも、実体験や経験に即していない言葉で、でっちあげなので、
普通の言葉よりも意識を占有すると思います。

知ったかぶりも、ウソをつくことも、
すなわち虚飾ってやつをふりかざすことは超言葉中心主義なんですよね。
超がつくくらいの言葉中心主義は人生を苦しくするでしょう。

虚飾を振りかざすと言ったけれど、フィクションはまた別ですね。
フィクションは楽しむがよろし。

また、かといって、普通の言葉の中に矛盾がないわけじゃない。
人間っていうものは矛盾をはらんでいる生きものです。
それに、建前と本音の区別を、当の本人がつかなくなるケースだってある。
それなのに、超言葉中心主義は、自分が吐いた言葉の整合性や完璧さを求めてしまう。
そんなんじゃ、言葉にがんじがらめになってしまいますね。

ではどうすればよいのか。
ある程度、ゆるく、言葉に対しての距離をとること。
そして、自他に対して、寛容さをもつことだと思うのです。

そりゃあ、言葉に対する厳しさだって大事でしょう。
でも、厳しくも、慎ましやかでありたいです。
声高な言葉、その言葉以上の範囲まで適応させてしまう言葉、
そういったものが、人をがんじがらめにします。

そういうわけでして。
できれば、生きやすく過ごしたいですよね。
そのためにはそういうことから一歩ずつ、と思うのです。
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受けとめる力、引き受ける度量、そして推進力。

2015-08-04 14:04:32 | 考えの切れ端
なんとなくつかめなかったりつかみにくかったりする
フワフワしたものをそのままにしておくと、
ぼやーっとして人の言いなりになってしまっているみたいな、
生きるポリシーを欠いた状態になる。
この気持ちは何だ、この事柄は何だ、
そういう思いをうっちゃってしまって言葉にしないでいると浮ついた精神状態になる。
日々の生活から生まれるものを、受けとめそこなっているんです。

一方で、なかなか一日のあれこれ(対人関係のことやアイデアなどなど)を
言葉にできず、きちっとキャッチできずに就寝してしまったりすると、
その後、それが積み重なって収拾がつかない状況になることがあるなかで、
暴挙とも言えるだろう「いいんだ、俺がいいっていうんだから」
と自分の道をつき進む強引さも大事だと思ってる。
それって、ひとつの推進力なんじゃないか。

合意形成して進めていくためには言葉を交わしていくことは大事で、
そのために普段からあれこれ言葉にしてストックしておきたい、
あるいは即興で言葉にする力を養っておきたいものですが、
やはりそれでも、うまく説明は出来ないんだけど俺はこうする、
っていう勝手さもときに出てくるしそんな推進力を肯定してる。

どうして自分勝手さも認めるかっていうと、
言葉以前に感覚でわかっているだろうことを信じているから。
もちろん、間違うことだってある。
だけど論理よりも直感のほうがはやいだとか、
物事があってから論理がつくられるといったように、
論理って遅いものだから言葉で説明するっていうのも時間がかかるものだ。

自分の道を、論理じゃなしに言葉じゃなしに気持ちだけで進む場合、
ちょっと不安もあるけれど、それで転んでも自分が痛いだけのこと。
他人を転ばせて痛がらせるわけじゃない。
他人に転ばされて痛がるわけでもない。
そこがいい。

ただ、寛容さっていうものは大事な気持ちの持ちようだと思うけれど、
他人に転ばされて(いらぬお節介、世話焼きなど)
痛い目にあっても許せるかっていう寛容さは持っていたいかなと思う。
そりゃ怒ったりするけれど、ケースによっては、なのかなあ。

いろいろ考え抜いても転ぶことはあるし、で。
考えてやった方が失敗した時の学びは大きいかもしれないですね。
ただ、なんていうか、ひとのせいにせずに自分で受け止める気持ちの部分って、
考えてても考えてなくてもあるわけです。
考えてないで失敗したときほどひとのせいにしたがるような気がしませんか。

そういう、自分で受けとめる・引き受けるってところを気をつけたいなと思います。
ただ、あまりに自分で引き受ける人に対して、
自身の過失すらうやむやにしてなすりつける人もいる気がする。
あいつ、なんでも自分のせいにするから、これもあいつのせいにしたろ、っていう。
そういう危険を感じる時がある。

そのことの対応については、精神面の成熟さが大事になってくるから、
若い人はたいへんなんだろうと思う。
不動の心を持ちながら、これは自分のせいだろうか他人のせいだろうかを判断する。
その場合、いちいち感情的になって、心が右往左往しないことが求められる。客観的に。
そして、疑わしきは罰せずじゃないけれど、疑わしきは他人のせいにせず、で、
そういう場合の責任の取りぶんは自分のほうに傾いているほうが本当なのではないか。

と、まぁ、ちょっと生煮え的な思索ですが、
こういうのもですね、
読んでくれたひととのあいだに化学反応が起こるなんてこともなきにしもあらず、
ということで。

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言葉の生まれる源泉を見つめる。

2015-05-17 12:28:01 | 考えの切れ端
言葉というものはよくできているけれど、
やっぱり便宜的なものなわけです。
言語化すると、言語化以前のものからいろいろなものが零れおちたりする。
言葉と言葉になる前のものは決してイコールじゃない。
言葉以前のもやもやしたものは、
それほど単純じゃないということを忘れないでいたい。

これは自分自身の考えや気持ちだけではなくて、
たとえば絵画や写真や音楽の言語化を考えるとわかりやすいと思う。
言葉で100%等価で表現するとなるとほとんど無理だ。
絵画とかほど難しくない感じがするから、
自分の感情などは100%言語化できていると思ってしまうかもしれないけれど、
そんなことはなくて、それは言葉以前の沈黙への洞察が足りていないということなんです。

かといって、表現をあきらめてしまうのはよくないし、
表現力を磨くことで無意識の意識化っていう精神衛生上よい行為にも磨きがかかるし、
他人がその言葉を見たり聞いたりして深く共感すると、
その他人の無意識の意識化にも繋がるだろうから、
それも小さな部分ではあるけれど、よいことではありますね。

というように、
もう何度も考えたり書いたりしていることですが、
そうやって考えが深まったり定着したりするんですよね。
考えはらせん状に上昇していきます。

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