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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

こういう態度で今を生きる。

2015-05-10 23:36:41 | 考えの切れ端
リチャード・ローティという学者の言葉で、
人間の連帯で重要なのは理念の共有ではなく
「あなたも苦しんでいるのですか」という問いかけだ、というものがあります。
散文的な抗争しあう関係より、詩的な共同しあう関係を好むと、
このような考えはいいなあと思うんだよね。

ルソーや村上春樹なんかは、
人と人との繋がりは傷や痛みなどによってこそのもので
それこそ真の調和なんじゃないかって言ってます。

これはなにも傷のなめ合いがいいというのとは全く違う。
そういうことはしないで、胸の奥、根底の所で共有する気持ちのことを言っている。
「憐れみ」は役に立つ、と。

しかし、「憐れみ」なんて言葉ひとつにしても、
受け取るニュアンスは人それぞれだったりしうるもので、
上から目線の動作のように思う人もいれば、
横並びの視線の言葉に感じる人もいるでしょう。言葉は難しい。

憐れみなんかできる立場じゃないし、
受け手としては同情なんかされたくないと思う人もいる。
それはきっと、集団社会内での「しがらみ」というものが関係していると思う。

でも、僕はこう考える。
理想ばかりをみていてはきっと空回りしてばかりになる。
だからといって現実ばかりをみていたらきっと右往左往してばかりになる。
交渉とおなじく、両の言い分の落とし所を決めることが必要だけれども
「理想に近づくこと」それこそが尊いと思うので理想と現実のせめぎ合いになった時点で喜べる。
漸進的だといえる。


・・・とまあ、最近の読書や思索からの、ぼくの最新の態度でしょうか。
『贈与論』からえの考えもくっつけたいところです。
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卑怯な性分と向かいあう。

2015-02-15 09:17:27 | 考えの切れ端
自分が他人を邪険にした思い出は、
通常、頭のはるか隅っこに追いやられていて、
まるで思い出せないかのようになっている。
こないだ何かのきっかけでそんな記憶をひとつ思い出して、
ひどいなと思ったんだけれど、
もう何だったのか思い出せない。

都合の悪いところは、なあなあだったりする。
それまで仲の良かった友だちと距離を取り始めたときなんか、
向こうの態度が煙たくなってきたと勝手に感じるようになって、
なんとなく意思の疎通をずらしだす。
それで離れていってその理由も手段もなあなあに曖昧に濁す。
自分にも少なからずそんなのがあった。

なあなあに曖昧にすることで、
自責の念に駆られないように、
そして自分が傷つかないようにしている。
相手を傷つけてこれだもの、この卑怯さ。
「あぁ、そんなこともあったね」
「その程度のことだったね」と処理して、
忘れてしまうこの心の機制。
恥じて反省して改めるべきなのか、それとも
人間ってそんなものなのかと諦めるのか。

そういうことをする人って多いと思うんだけれど、
それでも他方で善いことをしようとするから、
善を働いた時に、
無意識下に沈みこんだ卑怯な記憶が自分自身に対して
「はっきりとした理屈は浮かばないけど、自分は偽善者だ」
と思わせるのでは。

はたまた、他人が善いことをしても、
人ってだれしも卑怯な<曖昧にしてなかったことにする性質>を
持っていることを言外にわかっていたりするから、
「あいつ、いい顔しやがって」的な、
やっかんだり嘲笑したりする気持ちが湧いたりするのでは。

そういうのを超えていくのには、
偽善で何が悪いという開き直りとともに、
やっぱり恥じて内省することだよなあ。
「私はもう、こういう自分の汚さとか自認しているし、
行動を省みることもする。そのうえで善をおこないたい」
という意識が必要かもしれない。

それで、善を行う段になって、
それが本当に自分勝手な善じゃないかどうか、
善の押し売りじゃないかとか考えることになるんだけど、
そこが難しいよね。
大きなお世話にならない善、
その行為によって相手をスポイルさせない善、
だとか考えなきゃいけない…けれど、
多少は目をつむる要素ではあるかも。

突き詰めれば、<善とは見守ることである>くらい、
見方によっては消極的なところへ帰着するのかもしれない。

話が大きくなった。
人は無自覚に卑怯なことをしているものだから、
そこに自覚的になるだけでいろいろ変わるんだってことを言いたかった。
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「共感」が生んでいく生きやすさ。

2015-01-09 22:43:28 | 考えの切れ端
フロイトによると神経症だとかの原因は無知にあるっていうんですよ。
自身の心的活動に対する無知にある、と。
じゃあ無知を克服するにはどうするかというと、
無意識の意識化をやるわけです。
そうして、
「ああ、わたしはこんなことを考えたり思ったり感じたりしてたんだ」
と知ることになって、病気が薄れていく、と。

ぼくは前にユングを読んだ時だったか、
「共感」っていう心的活動って
実は無意識の意識化なんじゃないかと考えたことがありました。
だって、「あぁ、そうそう、わかる」っていう意識って、
無意識にあったものが相手によって意識に上げられたってことじゃない?
だから共感を呼ぶ会話って心に良いんです。

そういった「共感」を呼ぶ会話ができるのって、
冷笑的なつきあいじゃ可能性が低い。
もっと温かで、冷笑的じゃなくて、敬意を持ちあっていて、
とはいえ過剰に期待しないようなフランクな間柄のつきあいが増えていけば、
人々の心の不調や病気も減るのではないかと。

イライラばかりしていちゃ、自分にも相手にも八つ当たりしたりして、
「共感」を起こすような関係ってできにくいですよね。
僕は今はもうそれほどじゃないし、
そういうつきあいを増やすのはなかなか難しいのはわかってるけれど、
ネットの会話にだって「共感」を呼び起こすものってあるのを知っています。

あったかみある関係、いとおしさのある関係、
そんな連帯感のある社会へと、
「共感」を大事にする姿勢でいることって繋がっていく予感がする。
そういう連帯感のある社会では、生産性も増す、
つまり経済成長も望めるって
マルセル・モースの解説書にちらと書いてあった。
あとはしがらみの問題だと思う。

しがらみについては、山岸俊男先生のご著書が参考になるのだろうな。
いろいろ的を得た批判を読んだこともあるんだけれど、
道徳教育だとか法律とかの整備でしがらみって薄まるみたいなんだよねえ。

…というような、最近の考えをVer.1.1とか1.2だとかにした論考でございました。
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1+1=2ではない人との関係

2015-01-06 22:51:10 | 考えの切れ端
算数では1+1=2で大正解なんだけど、
ことに人間関係に関しては1+1=2っていうのは
夢想にちかい理想に過ぎないんじゃないかと思うわけ。
1+1=5になって喜んだり、過剰だねって笑ったりすることもあれば、
1+1=1で寂しい思いや哀しい思いをしたりもするよねえ。

1+1=2にならないからケンカもするし譲歩もするしで。
1+1=2じゃないから、寛容さが必要だっていう話になるわけです。
また、他者への敬意が大事だと気付くあたりには、
1+1=2に近づけたい気持ちがあるのかもしれない。
だけど敬意を持とう!という押し売りはしないよね、敬意を持つ人って。

言い方を変えれば「人間関係は不公平でできている」ってことなんだ。
それに腹を立てたりすることはあるとは思うけれど、
公平じゃなきゃ罪だ、と非難するものでもないと思うのです。
ある程度、受け入れるべき不公平なのではないか。

僕なんかの現実の話をすると、
たまにギャンブルで儲けたときに、
外で食べたご飯をおごってやることがあります。
ぜんぜんお金を持ってない人ですけど、
それでもいいかって思っておごっちゃうわけ、
優越感に浸りたいというのもちょっとはあるかもしれないけれど、
それよりも、いっしょにちょっと旨いものを食べようぜ、だとか、
あんたの節約に一役かってやるかだとか、
あとはよく考えもしなかったり、だとかでおごっている。

ちなみに、ほぼ100%、従兄におごってやってる。
ここ数年では総額10万円分くらいいったかもしれないね。
だからといって、おごり返されたことってそんなにないです。
つまり、おごったおごられたの関係でいえば、不公平な関係なんです。
でも、文句を言おうとは思わない。
また、誕生日プレゼントに本を贈ったりしたこともありますが、
こっちの誕生日に何かを贈られたこともないですね、その従兄には。
だからといって関係がこじれるわけでもないです。
関係がこじれるとすれば、どっちかが不誠実なことをやった場合でしょうね。

マルセル・モースの贈与論によると、
贈与された相手は、返礼をしなくてはならない責務を負い、
お返しをしなくては、という心理と闘うことになって、いずれそうする
ということですが、モースのではない贈与論で、誰か名前は忘れましたが、
贈与されたからって、お返ししないとならないという気持ちに
苦しむことはないし、絶対的にそうしなければ均衡が崩れるわけでもない、
というようなことを言った人がいたみたいです。

僕は、モースの贈与論にいろいろと学びましたが、
現実生活から鑑みると、今言ったことの後者のところ、
お返しは絶対的なものじゃないという説に賛成なんですよね。
なので、モース先生は、過剰な利他はよくないって言いましたが、
そんなに気にするものでもないのではないかという気がしています。
モース先生は、人間関係はフェアであらねばならない、
という理想を疑いなく信じていた人かもしれない、なんて考えてみたり。

まあ、僕が寿司をおごったとか、焼き肉をおごったとか、牛丼をおごったとか、
そういうのはたぶん、好きでやっているんだなあ。
でも、おごられるのに慣れられたらいやなんだよねえ。
ちょっと無駄遣いみたいな気もするので、
ちょっと引き締めなきゃとも思います。

みうらじゅんさんによると、
人におごってやって、愚痴を聞いたりしてもらえる、
つまり、話を無条件に聞いてもらえる、相手を聞き役にしてしまえるのは、
フグだのカニだのスッポンだのという高級なものだけだそうです。

人間関係の支点を一時的にでもちょっと変えるには、
けっこうお金がかかるものだよ、ということだね。
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一様な価値観が、人を排除する。

2014-12-04 23:34:01 | 考えの切れ端
このあいだ読んだ、
為末大さんの『負けを生かす技術』から
ヒントを得ているのですが、
たとえば、僕が高校生くらいだった20年くらい前の、
僕の家庭や周囲の幸せへの価値観、
そしてもっと広げると日本全体の幸せへの価値観って、
大きく見れば、三つくらいしかなかったんじゃないかって思えるんです。

一つは、いい大学を出て、いい企業にはいって、
そこにしがみついてお金をたくさんもらうこと。

二つ目に、安定した国の仕事(公務員)について、
それなりのお金をもらって、高望みせずに安定した暮らしをすること。

三つ目に、自分の本当にやりたいことをみつけて、
それで稼いで暮らしていくこと。

大体は、この三つじゃないでしょうか。
ほか、この三つに近い価値観でそれにならったかたちのもの、
たとえば、三流大学をでても、出来る限りのいい会社にはいって、
出来る限り稼いでいく、というような種類。

単純にいえば、そこには「出来るだけ多くのお金を」
という志向しかないわけです。
それは、幸せというのは、お金の豊かさで、
不自由せずに食べていけることだ、とするような考え方である。
これはなにも大間違いではないですが、
そこには強迫観念めいたものがあったり、
この価値観から外れようものならば、嘲笑したり愚弄したり、
もっと言えば、そんな、道を外れた人など面倒も何もみてやらない、
「のたれ死んだって構うものか」というような姿勢があったと思います。
この最後のところなんかは、日本人の冷たさとも言われるところに
繋がるのですが、これって、ベースには食べられるか食べられないか
の瀬戸際で苦しんでいた時代の名残でもあるんじゃないでしょうか。
ただ当時との違いは、当時の「のたれ死んだって構うものか」
というセリフに、その話者の心の痛みを感じるのと違って、
現代ではそのセリフに傲慢さと残酷さが感じられるということです。
現代人は、昔の人のセリフのその形式にのみ、あぐらをかいているのです。

戦後、民主主義になっても生きずらいのには、
ひとつにこのような、人生に少ない選択肢を迫る、
お金を中心にしすぎる価値観が暗黙のうちに
幅を利かせてしまっていることがあげられると思います。
それで、僕はこう違う人生を生きたい、こんな道から外れたい、
そういう無意識に近い意識を持つ人の多さが世相にも反映して、
尾崎豊やMr.Childrenなどのようなミュージシャンを
生んだような気さえします。

社会的排除についても、ここまで言えば理解できるのではないでしょうか。
前にも書いたことがありますが、社会的排除の例としては

失業した→
親戚や友人に会うのが恥ずかしくなり一人でいることが多くなる→
頼れる人がいなくなる。

というのがまずあげられます。
そうやって、社会の一人一人とのつながりが希薄になり失われ、
ひとりぼっちになっていくのが社会的排除です。

どうして社会的に孤立して排除されてしまうのかといえば、
世の中の価値観が一様だからなんじゃないでしょうか。
幸せの形が、前述のように大きく三つしかない社会だから、
つまり、多様な幸せのかたちが無い、あるいは
多様な幸せの形を認められない社会だから、
社会的排除って起こるのでしょう。
多様な幸せの形があって、それぞれに認められる社会であれば、
チンピラだとかそういう類の人でなければ、
排除されないようにイメージできないでしょうか。
多様な人々の生き方を認めて、敬意を持てる社会、
それこそが成熟した社会なのだと思います。

それでですが、僕は最初に20年前くらいなら
こんな三つの価値観に支配されていた、
というように書き始めましたが、
では、今は違うのかと言えば、違うと思うのです。
物心ついてからずっとデフレ社会で生きてきた人たちが、
もう成人している時代です。
「デフレカルチャー」なんていう言葉があるようで、
詳しくは知らないのでそこに夢をみるということなのですが、
節約して、お金そのものを目的としないで、
そしてネットの日進月歩の発展を享受してきた人たちが
今の若者だと思いますが、
そういった人たちの価値観の形成に、
先にあげたお金を豊かさとしすぎる価値観が
説得力を弱めてしまっているというのがあると思うのです。
そういった若者は自然に、価値観を多様に形成しているのではないかと、
僕は楽観的に推測するのですが、
そういったフィールドワークの本かなにかがあれば読みたいですね。

だけれども、政治家だとか、既得権益にしがみつく人たちは
それをよしとはしないでしょう。国力が落ちるだとか、
自分の権力が弱まるだとか、あるからです。
そんなに無理をしてまで世界のリーダーになりたいでしょうか。
それは見栄なのではないかとさえ邪推してしまいます。

豊かさというものは、
ヒエラルキーのピラミッドの頂点に立つことだけなのか、
今一度、問い直していく必要があるように思います。
競争のための競争ではなく、人の幸せのための競争であるべきで、
そうやって発展するのならば、
誰も騙されているようには感じないでしょう。

デフレによって、社会的排除が軽減されるようになるならば、
もっとデフレは続いてやればいい。
多くの人がハッと気づくまで、デフレは続けばいいのかもしれない。
多様な価値観を認め合い敬意を持ちあえる社会こそ、
到来が待たれる社会なのだと思います。

と、締めくくりはちょっと過激になりましたね。

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思考は冒険的でもある。

2014-08-22 18:43:55 | 考えの切れ端
発見して考えて、間違って、誤解して、勘違いして、
そういうのに気付いて考えなおしたり真っ白になったり、
同じところをぐるぐる回ったり、
将棋で、獲得した駒を盤にはるみたいにトンと考えの駒を置くようなことができたり、
らせん状に考えのバージョンがあがったり、
ガラガラと崩れてしまって、あらためてノウハウだけで再構築してみたり。

そういうのが、一人の中だけでおきる場合もあるし、
でも、人に言われたり言っていることを聞いたり、
本やWEBで書かれていることを読んだりなどしての気付きこそが、
思いもよらなくてありがたかったりする。
練磨されていくことってそういうことの繰り返しだろうと思います。

自分で表現したり考えや意見などを述べたり、
思想や考え方を提案したりすることってありますが、
それが他人によって改変を求められたり根拠ある批判をされたりなどして、
さらに磨かれていくことを視野に入れていたりもする。
しかし、だからといって意見等をだすときは、これが完全という気持ちで出している。

…っていいますか、完全っていうのはちょっと言いすぎだろうけど、
とりあえず自分で及第点をあげられるところまで仕上げている気持ちで表に出します。
それとは別に考えの切れ端のようにまだ不完全で先が長いというか、
そういう考えも表に出したりもする。
他者の目に触れることを考慮して考えてこそ出てくるものってものもある。

と、いうようなのが、僕のこのブログで通常述べている考えのスタンスですかねぇ。
そして、そういうスタンスは悪くないと思っています。
向上、だとか、変化、だとかの妨げにならない、やわらかな、
できれば本質的だといいたいスタンスだと思っています。

考えてみれば、読書量が増えたり、以前やっていたホームページよりも
自分の意見なんかを書いて発表する頻度が増えたりしました。
そうやって培われたスタンスなのかもしれないです。
そして、そういうもんだよなぁとも思うわけです。
強固過ぎたり、過度だったり、押しつけだったり、
気がつかないでそうなることってあるでしょうけれど、
なるだけそうならないこと、意識的であることって大事でしょうから、
そういう心がけというか、心得というか、あるような人って、
今回書いたような姿勢になっていくものかもしれない、
って、僕もそういうところがあるからこういう姿勢なんです、
という宣言的に書いてみました。

また書きますが、悪くない、んじゃないかな、ええ。

常に、絶対的な一歩で進んでいっていると自負する人も
いるかもしれないですが、
僕にはそれは無理だなと思うんです。
見ようによっては、ふらふらしている思考ってことになります。
決して悪くはない、ふらふら思考です。
ふらふらっと、思考のアドベンチャー。

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生活保障と社会的包摂

2014-08-14 15:20:20 | 考えの切れ端
まだ、たまにこの間本で読んだ、
社会的包摂などについて考えています。

それで、みなさんは「ベーシックインカム」っていうものをご存知ですか。
日本語に訳すと「基盤的収入」といっていいのかな。
Wikiで調べると、「基本所得補償」となっていますね。
ベーシックインカムの詳しくはWikipediaの「ベーシックインカム」を調べてもらうこととして、
そういうのに代表される生活保障というものが
社会的包摂にどう役立つかを僕はちらっと考えたりしてます。

何の教育もなしに日本でいきなりベーシックインカムが始まったら、
「自己責任」型の考え方を強調してしまうかもしれない。
世の中は公平で、そこで競争をしているという前提があって、
自己責任の考え方は正当であるということになります。
日本では多いとされていますし、空気みたいなものかもしれないですよ、
自己責任論って。しかし、それの世知辛さってあるでしょう。
要するに、「人に迷惑をかけるなよな」というものの裏返しの意味で、
自己責任論ってあるところがあります。
「迷惑をかけるな」、それはそうなんですが、
いろいろな意味での弱い立場にある人たちを
切りすててしまう考え方だとも言えるのではないか。
だから、僕は自助と、少しのというか薄いというか
そんな利他的繋がりがいいんじゃないかって
最近は折に触れて書いていたりします。
また、連帯感を強く持つことで安定するんじゃないかっていうことも
考えていて、薄いつながりとは反対のことを言うようではありますが、
そこらへんはもっと深く探っていこうと思っています。
ということで、話は自己責任のところで長くなりましたが、
今回の主旨は、社会的包摂について多少なりとも勉強したほうがいいと思う
ということなのです、僕も少しだけ本で勉強しましたし。

生活保障の面について話を進めていきます。

食べていくための労働であり、充実と交流を得るための労働であり、
というのが今の日本の労働だけれど、生活保障がしっかりしている国では、
労働は充実と交流を得るためであるという点が強く意識されているらしい。

本には明記されていなかったけれど(北欧などのことだと思う)
ある国々での就労支援の意識は「充実や交流」といった社会的包摂のためのものとされていて、
日本のように、「食べるために」のみではないようだ。
そういう意識の社会では、雇い主の労働者に対する待遇も変わってくるだろう。

「いいかお前らちゃんと働かないと食べていけないんだぞ」というのは、
雇い主がする雇用者へのすごい足元の見ようじゃないかな。
仕事先がたくさんあるような好況のときはそういうことを言いにくいけれど、
不況だとか停滞だとかしているときには、そういう汚い態度の人もでてくるわけで。

そこで生活保障(ベーシックインカムなど)がきちんとなされている社会だとどうかといえば
「お前らちゃんと働かないと充実と交流が得られないんだぞ」と雇用主が言ったとしても、
そんなことを言っている会社から充実なんか得られないのはわかっているので、
そんなところでは働かないということになる。

それはそれで社会的排除をされたということなんだけれども、
食えなくされるという極度の貧困に追い込まれるわけじゃないのがまだ救いかもしれない。
というか、そんなことを言う雇い主みたいなタイプではやっていきにくくなるだろうし、
おおよそ、そんなタイプの人は暴利をむさぼるタイプが多いんじゃないかな。

ベーシックインカムなどの生活保障は過去の劣悪な労働条件下で頑張ってきた祖先たちを思うと
すごく贅沢に感じられるけれど、そういう過去を経て僕らが勝ちとり創造する制度として
誇りを持ってやったらいいことじゃないかな。
IT革命だって贅沢なんだしそれを喜んで享受したのと同じようにしたらいい。

そんなわけで、生活保障がちゃんとなされている国であれば、
貧困対策と包摂対策を別々に考えてやれるということじゃないかな。
生活保護の不正受給だとかがニュースになっていたりもしますが、
社会的包摂をとれる社会システムがあり、民衆の側の理解があり、
ということであれば、働ける人は意欲を持ちやすいかもしれないです。

逆にいえば、食べるために働かなければいけない状態だからこそ、
不正や不公平や汚さなんかが生まれやすいのかもしれないですよね。
無理に働く、だとか、なんにせよ無理強いされてやることには、
なんらかの問題って出てきやすいんじゃないかなぁ。

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本性は利己、でいいの?

2014-07-06 00:24:30 | 考えの切れ端
フェアな態度、他人をリスペクトする態度は表面的な「建前」にすぎないものだとして、
本性は利己的でいいのだとゆるぎない自信を持って、
でもその本性はなるべく隠して生きている人たちっているんです。
あるいは、みんなそうだろうと勘違いして、
自分も同調するよという具合に利己者を装う。
あの人がそうだ、だとか、自分がそうかも、
なんて思い当たるふしってあるでしょう?

でも、利己的がいいのか悪いのかを突き詰めて考えると難しくもあるのです。
たとえば、経済学の論理では、みんなが利己的にモノを買ったり売ったりすること、
つまり自己利益の追求という利己的な行動によって、健全な社会経済が保たれるとされる。
僕はそういう経済学の考え方が、現代の人間性をゆがませている部分ってあると思っています。

何を隠そう、僕は大学で経済学を専攻。
そのくせ、まるで勉強せずに(音楽作りとチャットとバイトが生活の中心でした)、
2回生のころには、「経済学って自分に合わねぇわ」とこぼしていたくらいです。
そんな僕ですから、「そんな人のいうことはあてには…」と思う方もいらっしゃるでしょうし、
「それはいい感覚を持っているね、その直感は正しい」と逆に評価してくれる人もいるでしょう。

話を戻しますが、
経済学の論理に従って、じゃあ利己的に生きよう、
と利己に比重をどかっとかけて生きている人がいるとします。
そういうのがトレンドだったかしらないですが、
僕が学生だった頃の同世代にはそういう感じの、
自分の利益が一番という感覚を利己的なスタイルで表現・実践している感じの人って
けっこういたように思います。
そういう人たち同士のつながりってどうでしょうか。
お互いの利益になることにかけては結びつくでしょう。
しかし、利益にならないことに関しては、まったく見向きもしないのではないか。

これは交渉術においてもそうでしょう。
相手の利益になることと引き換えに、こちらの利益となることを飲ませる。
そういった、他人の人格までを考えて強く結びつこうとすることをしない「繋がり」
が主流なんですよね。

なのに、どうして、人は(というか日本人しかわかりませんが)、
建前では利他的な人間であるかのように演じがちなのでしょう、というか、
そういう人がいるのでしょう。
「わたしは、他人のことを思いやれる利他的な行動ができます」
そして、利他、利己とはちょっと違うけれども、自分勝手ではないという意味で、
「わたしは、他人を公平な目で見て、接することができます」
ということを表面的には体現したりします。
それはそれが美徳であるという感覚があるから、
建前でそう形作り演じるということになったりします。
要は、そういう建前を作った方が、受けがいいし、
日本古来からのムラ社会的性質が残るなかで村八分になりにくい。

東日本大震災の後、「絆」というキーワードがホットになりました。
ここでいう「絆」とは、利己的な「繋がり」のことをいうのではなかったと思います。
前述の、他人の人格までを考えて強く結びつこうとしない「繋がり」とは、
向いている方向を異にしていて、「絆」とは、
他人のことをちゃんと考えての強い「繋がり」のことを言うでしょう。
そういう意味からして、震災前までの、利己的な本性で生きるというスタンスと
相反するものだった、「絆」は。
だからこそ、「絆」と聞いて、
利己的なスタンスにあまり疑いを持たずに生きてきた多くの利己的な人にとってみれば、
薄ら寒いような言葉、綺麗ごとの言葉に聴こえた。
そういう人は多かったと思いますし、たしかに押しつけがましくもあった。

だからといって、じゃあ利己的な生き方を堂々と送るべきなのか、といえば、
僕は、違う、といいたい。

そういうのって、やっぱり未成熟に思えるのです。
さらに、そんな未成熟の青いまま成熟してしまうっていう、
甘味のないまま出荷時期を迎えた桃みたいな人って、いるでしょう。
食えない人だね、っていう。やっぱりちゃんと太陽に当たらないとそうなるんです。

と、比喩をはさみながらですが、
つまるところ、利他の精神を大いに持てというのでもなくて。
この間読んだマルセル・モースの解説本によると、モースの主張として、
利他の過剰さはいけない、とあります。
それは施す者にとっても施される者にとっても、きっとあまりよくない影響をもたらすから。
僕は一つの答えとして、自助を基本としての利他ってものを考えています。

自助と、自助を他者が見守る気持ちと、ウルトラマンゾフィーのように、
ウルトラマンに対してゼットンが出てきたときのようなどうしようもないときには
手を貸す気持ちが大事なのではないかと。基本は自助です。

前にも書いたことがあるのですが、
「個人主義の誤訳が利己主義で、意訳は自助だ」と僕は考えているところがあります。
自助って、自分が生きていくために自らが努力したりして
自分自身を助けていこうとする態度。
自助には、利己も利他もないようですが、そこに少しの利他を付与してみると、
世の中ってずいぶん生きやすくなるのではないかなぁと思えてきます。
そんな社会では、「絆」という言葉に対しても、狂信的な感覚は感じないはずだし、
もちろん、忌み嫌う気ような気持ちも減じるのではないか。

心のどこかで、「利他って良いことだ」とする気持ちってありそうに思います。
しかし、良いだの悪いだので判断するがゆえにあまり好ましくない行動をしてしまう
というのがあるのではないか。
以前読んだ本に書いてあった、モラル・ライセンシング効果がそうです。
これは、良いことをした後に、良いことをしたからちょっとくらい悪いことをしてもいいだろう、
となってしまう心理作用だそうです。
お金を拾って交番に届けたという良いことをしたから、
ダイエット中なんだけれど、ご褒美に夜食をもりもり食べてしまう、
みたいな例があげられるでしょうか。
そういう心理効果って、言葉になる以前の感覚的な部分で、みんなわかっていたりもする。
だからこそ、良いことと考えがちな利他ってものがなかなか行動されないんじゃないでしょうか。

繰り返しますが、僕は、自助と利他を推奨します。
これからの社会、つまり、高齢化率が高くなって、経済成長も頭打ちになるであろう社会では、
今以上に連帯感が求められると考えているんです。
連帯感って、利己では作られません。
そうはいいいながら、連帯感による今以上のしがらみがあればそれは厄介なので、
そうはならないような連帯感を考えなければいけない。
これについては、まだ考えがまとまっていない部分もありますし、書いても長くなるので、
そのうちにまた書くかもしれないです。

以上ですが、この感覚は気持ちの持ちようの問題。
マインドをシフトすることができるかにかかっていますが、
急にそうなれってわけじゃなくて、だんだんそうなっていこうとすることは
できるんじゃないかなぁ。
もっとみんなが、いそいそ、じゃなしに、いきいきと、
そして生きやすくできたら、という意識から生まれた考えです。

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社会からの逸脱欲求と創造性。

2014-06-18 15:45:22 | 考えの切れ端
タバコって、新大陸として発見されたアメリカの
ネイティブアメリカンからヨーロッパに伝わって広まったものなんだね。
大航海時代に広まっていった嗜好品。

年齢制限があるからこそ、酒とかタバコとかに反社会性を持たせて
未成年が飲むこともあるわけだけれど、反抗精神の象徴みたいな気持って
20歳を越えてもまだあった気がする。
それは僕が20歳を越えても学生だったのが理由かもしれない。
酒はそこそこに飲まなくなり、タバコは頑張ってやめた。

年齢制限もそうだけれど、酒もタバコも
気分などに関係する化学物質を体内に取り込むことだから、
そういう意味での、逸脱行為としての気持ちよさもあるわけで。
ドラッグもそうだが、逸脱したい欲求、常日頃から脱したい欲求が、
それを摂取させる。

だからかもしれないけれども、そういうのは「一種の安易な逃げ」に見えてきたりも。
逸脱なんかの欲求は創造面だとかで発散する方法もあるので、
そうしないでただ溺れるようなのはかっこよくない(と思えるようになってきた)。
まぁ、ほどほどに、だよなぁ。

酒を飲みながら絵を描く画家、
タバコを次々と吸いながら文章を書く作家、
ドラッグをやりながらプレーするミュージシャン。
そうしないとスイッチが入らないのか。
そういう化学物質無しで逸脱する自信がないのか、
そうすると戻ってこれない怖さがあるのか。
化学物質無しのクリエイターは腹がくくれてるように見えませんか。

人間は社会的な生き物だから、
ノーマルな状態で社会生活をしないといけないという、
ノーマルへの重力を感じながらみんな生活をしている。
だから、しらふで逸脱できちゃうと、
社会的な生き物である人間の、
人間性そのものの在り方に問題がでてくるんじゃないかなぁ。

だからこそ、
正気でもって逸脱できるのはすごい人で、
正気を失って逸脱するのは病人ということになる。

と、頭で考えてみたものの、
でも、ホントのところはどうなんだろう?
過剰な真剣さを薄めてちょうど良くするために、
酒やタバコを飲むというのはあるだろうか?
力みをとる、というような意味合いで。
それでも、やっぱり、そういう化学物質を取りこまないで
自分自身で調子を整える方法をもっているほうが
かっこよく感じてしまう。

ちなみに、ヤクザやマフィアといった逸脱は省きました。
彼らは自身の両足を社会の枠組みからはずれたところにつっこんでいる。
ここで論じているのは、片足だけ社会からはずれたところにつっこんでみている、という、
まぁ、まだ通常の行為です。
通常といいつつ、前出のドラッグは、
違法だし身体が蝕まれるからやるべきじゃないですね。

また、社会性を反映した作品、だとかってよくありますが、
音楽にしろ小説にしろ絵にしろ、
そういうものがもうすでに逸脱的な存在だったりしないかな、
と思っての考えでした。
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たぶん、maybe的なものがうまくいく。

2014-03-07 20:39:21 | 考えの切れ端
腰痛は治るどころか悪化しました。
無理をしたせいです。
なので、また考えの切れ端を更新します。
読書や映画はまた今度…。

歯切れの悪い言葉遣いをしていると、
出世できないだとか就職できないだとか、
そういうほんとかな?っていう風聞が
ツイッターに流れてくることがあります。

です、ます、歯切れよく、断言するものの言い方。
たしかに、聞く人、読む人にはもっともらしく感じられます。
もしかすると、本当にそういう言葉遣いが、
実は言葉先行で自分の気持ちを引っ張ったりするのかもしれない。

しかし、そこは僕です。
僕の捉え方だと、
そういう断言するような言葉遣いによって、
まだまだ迷っていたほうがよかったり、
迷ったっていう事実を覚えていたりしたほうがいいものだとか、
決めてかからないことで残ることになる「可能性」の芽だとかが、
不当に隠されたり捨てられたりしてると思うんですよ。

「~かもしれない」
「~のような感じ」
「~とわたしは思うのだけど」

などなど、
そういう表現の仕方は、
歯切れが悪いと否定的に言われたりもするでしょうが、
僕は肯定的に受け取ります。

なんていうか、話の段階にもよるんだと思いますが、
歯切れのいい喋り方を意識すると、物事を詰めていくのが
早くなりすぎるんじゃないかな。

僕もたまに人と話しを(ネット含む)していると、
どんどん話の中身を先鋭化していしまうという、
場合によって長所とも短所ともなる特徴が出てきたりします。
お茶を濁すのが下手だし。
だから、たぶん、逆に僕は「~かもしれない」「~なはずなんだけど」
とか、ビシッとしない言い方を多用したがるきらいがあるんだと思う。

なんだ、おいらの話かよ、っていうところに落ちつきましたが、
どうでしょう、「~かもしれない」的な言葉遣いで、ほんわりと
言いたい事や事実や感覚を包んで伝えるのは。
そのほうが、ごくナチュラルなんじゃないでしょうか。

あぁ、でも、表舞台に立ったときの政治家は、
もっとはっきりした物の言い方をして欲しいですね。
責任の所在なんかを濁しすぎです。

閑話休題、そうはいっても、
こういうブログ記事のタイトルなんかは、
できるだけ、僕に出来るだけの「はっきり感」でもって
考えてしまいます。
そこはまぁ、万能ではない今回の考えの切れ端です。
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