goo blog サービス終了のお知らせ 

Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

「あなた自身のせい」と決めつけない。

2018-04-27 00:45:44 | 考えの切れ端
成功したときに
「みんなのおかげです!」
というとそうだそうだと喝さいを浴びるのに、
失敗したときに
「みんなのせいだ」
っていえば、何バカなこと言ってるんだって叩かれる。
成功も失敗も土壌は一緒で、
その土壌とは影響を周囲から受け取ったり周囲に与えたりを多大にやってる所。
人は「群」であり「個」である。

「群」であり「個」である状態で生きているのだから、
その人を形作る環境や影響は、
「群」だけだとか「個」だけだとかの要因に分けて考えるべきではない。
それを、あなたの成功はみんなのおかげ、
あなたの失敗は自身のせい、
だとかと限定して決めつけるのは極めて恣意的なんです。
「群」or「個」ではないんです、
「群」&「個」で考える。

他人を特に恣意的に断罪したりする行為は、
たぶんに被害者意識がその人の根本にあるからなんですよね。
人の冷たい部分だとか、
正義の神輿に乗って他人を言葉や力で痛ぶるところだとか、
全部その被害者意識由来だと思います。
虐げられている感、
恵まれない感、
これまで足を引っ張られた経験、
それらが被害者意識をつくる。

意識的にか無意識的にか、
そのどちらもあるでしょうけれど、
人を「群」だけの視点で評したり、
「個」だけの視点で批判したりするのは、
非常に操作的で狡猾な行為です。

社会の息苦しさはそういったところから生じます。
「そんなこといったって、
自分に対する不利益な影響が過去にあって、
それで恣意性が生じたんだ」
というような申し開きもあるでしょうが、
どこでそういう悪循環、連鎖を断ち切るかですからね。
気概を持って自分のところで断ち切りましょう。


僕自身もそういう視点にハマらないよう気をつけながら、
周囲のそういう考え方に気づけるようにしていきたいです。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はみだした絵の具---ことばの限界について

2017-10-26 23:01:55 | 考えの切れ端
ことばとは、そんなに万能なものなのでしょうか?
ことばですべてがまかなえるのでしょうか?

ちょっと、そうではないなと思えるので、
そのあたりについて、考えてみます。

ことばを使用することで、
人の「輪郭」が浮かびあがってくる。

語彙の豊富な人の「輪郭」があり、
言葉が苦手な人の「輪郭」がある。
そして、それぞれに、
「輪郭」を眺めてその人や自分を知ったようになり、安心する。
でも、待て。
よく見りゃ、その輪郭からずいぶん絵の具がはみでているじゃないか。
無視しがちなそこも見ていこうじゃないか。

ことばって、
区画整理、分節作業、そういう性格があって、
ことばにすることで、
もともとのまるごとのものごとから
漏れてしまうものってでてきますよね。
ことば以外のところをも意識したり、
無いことにしたりしないことで、
なんかよくわかんないけど展開・運命が変わり
豊かになることはあります。

そういう、「よくわかんないけど」の部分を、
なんとかしてことばに変換していこうと地道な努力を重ねて、
ことばの範疇を拡げていこうとする道もあれば、
「よくわかんないけど」をよくわかんないままとらえて、
ことば以外でなんとかできちゃう力をあげていく道があるでしょう?

前者の、ことばの範疇を拡げる道は、
よりはっきりした「輪郭」を、
もっと大きくしていこうという道です。
後者の、ことば以外でなんとかしちゃう力をあげる道は、
「輪郭」からはみでた絵の具の部分を大事にして、
絵の具の色を変えたり濃くしたり、
もっとはみださせたりしていく道です。

論理性重視の人は、後者の道では足がすくむでしょうし、
感覚性みたいなものを重視する人は、前者の道がまだろっこしいでしょう。
……と、いま、感覚性みたいなって言いましたが、
後者には、勘のような、直観に導かれるような、
そんな感じがあると思います。
もちろん、偶然性だって含まれていると思う。

はたして、人生がおもしろくなるのは、
「輪郭」を墨守していく意識なのか、
それとも、
「輪郭」からはみでた絵の具を大事にする意識なのか。

いわゆる超能力のイメージに近く見える種類の、
つまり、よくわかんないけどなんとかしちゃうという
絵の具の部分については、これ以上深入りせずに話を進めます。
ちょっとややこしいし、論理がこんがらかる恐れがあるからです。
ここからは、感受する部分を中心に、
絵の具の部分について考えていきます。

たとえば、
風が触れた感覚、花の匂い、猫の甘える鳴き声、甘味や塩気、夕焼けの色。
ことばにするとこぼれおちてしまう、
五感で感じる生鮮なモノってありますよね。
それも、いまあげたものはすべて、ライブな感覚です。
でもって「輪郭」からはみでていますよね。

たとえば、
わかりあえたときの気持ち、彼氏・彼女と笑いあったとき、悲しみ、寂しみ。
それらだって、やっぱりライブな感覚のもので、
「輪郭」からはみでている絵の具でしょう?

ことばは、便利です。
合理的です。
いろいろと端折って楽にする。
それは、ものごとの骨の部分であり、
別の角度からの言い方をすると、
やっぱり、「輪郭」ですね。
「輪郭」はものの影とでも言えるかもしれない。
肉がついてこそ、生き生きとした生命感のある、
影ではない実体になる。
それでもって、絵の具は、見方を変えれば肉でもあるんです。

そしてまた、ことばというものはライブな感覚ではないです。
プロの小説家は、ライブではない「ことば」を使って、
読み手のライブな感覚の記憶にうったえ、
それを利用しつつ、
フィクションに生々しさを宿らせることをする。
つまり、ライブな感覚のものではないツール(ことば)で、
ライブな感覚か、それに近いものを創ります。
読み手は、そういった生のモノを欲するから、
そうするんですよね。

そこまで考えが進めば、わかってきます。

出だしに書いた、
>ことばとは、そんなに万能なものなのでしょうか?
>ことばですべてがまかなえるのでしょうか?
は、まったくそうではない、となります。

ことばとは簡便さのための表現であり、
簡略化したことで、
論理が組み立てやすくなったり、
情報などを伝達しやすくなったのが、
その、すごいところ。

でも、すごいや!すごいや!と
そのすごさばかりに気をとられていると、
「輪郭」しか見えないようになってしまって、
それじゃあ、人生、おもしろくないし、
丸ごとを見ていないということで、
きっと、判断もアイデアも間違ってしまいます。
それは困りますよね。

だけれど、一方で、「輪郭」に捉われてしまうのは、
実は絵の具部分のけた違いの情報量から身を守る、
フィルター効果というものがあるとも思うのです。
情報量の多さや濃さの荒波にのみ込まれないために、です。

結局は使い分けなんでしょう。
あるいはどのくらいの比率で意識するか。
「輪郭」を見て生きていく道は安全かもしれない。
絵の具しか見ないような道はリスクが高いのかもしれない。

では、リスクを嫌い、極端な安全の姿勢をとって、
はみでた絵の具を見ないことにしますか?
いやいや、リスクはあっても、はみでた絵の具があることを
忘れないでいるスタンスって大切だろう、とぼくは思うのです。
この場合の、リスクをとらない生き方が、
ほんとうに幸せな生きかたでしょうか。
そのあたり、じっくり考えてみるのって、
とても大事なことなのではないでしょうか。

たぶん、このあたりの考察をすることで、
寛容さや他者への敬意を持つこと、
互恵関係がどんなかたちになっているかを感じること、
そして、生きずらさを解消する方向へ進むことに
つながっていくような気がします。

というわけで、本日はここまで。
長めの文章、読んで下さりありがとうございます。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

孤独の扱い。

2017-08-31 10:58:54 | 考えの切れ端
孤独とはなんなんだろう。

孤独は、寂しくて辛くて涙が出るものだ、なんて
あまり孤独になれていない若いひとのイメージとしてあると思うのです。
たしかに、そういう局面はあるけれど、
孤独を前提にして、孤独を丸のみにして生きてみると、
「そういうものなんだよな」と生活するから、
特段に気をとられなくなります。
気をとられても、耐性がつくように思います。

甘えを否定するわけじゃないんですが、
孤独と対峙できないひとというのは、
孤独を感じると他人に理解を求め(それは間違いじゃないんだけどね)、
理解されない、関心をもられないと、
他人に怒りを持つようになる。
それって、甘え心の裏返しなんですよね。

孤独を自覚しつつ、特別視しない。
ありふれた孤独をそのまま受け入れて、孤独を前提にして生活していく。
まあ、そこまではいかずとも自覚するだけでも、
他人への怒りやそこから生じる
「他人の足を引っ張る」ような行為
(愚痴や文句を長時間垂れ流して他人の時間を奪うこともそうだ)
は少なくなりますよね。

少しくらいは愚痴を言ったり聞いてやったりって
ふつうのことなんだと思っているのだけれど、
度を越してくるのが甘えなんです。
そして、それは度を越してくるくらいのSOSでもあるんです。
他人に受け入れてもらわないと生きていけない、
というのもひとつの人間の有り様。
でも、自覚してね、と思う。

たいがい、そういうひとは、
孤独を真正面から見つめたことがないかもしれないひと。
かといって、そういうひとが急に孤独に対峙してみると、
まるで防衛手段がないから、自分を責めすぎたり、
場合によっては、自死を選んだりすることはあり得る。

詩人の谷川俊太郎さんはこう言ったそうです。
「孤独は前提でしょう」
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自律性と幸福感。

2017-07-17 01:03:04 | 考えの切れ端
努力が必ずしも報われるものではなくても、
やるだけやることは大事なんですよね。
それも、一生すべてにおいて、
いろいろとやるだけやるのは大事だと思います。
なんらかの理由があるなどして努力できないひとでも、
毎日善く生きることがなによりも素晴らしいことだったりする。

やるだけやるっていったって、
ずっと苦しめというわけじゃないです。
それよりか、楽しんでやったらいいんじゃないのかな。
大変さの中に楽しさが潜んでいる。

ちょっと話は飛びますが、
「結果を出しましょう」「結果を見せてください」、
結果ばかり求められてしまい汲々とする毎日になっても、
そこで充実感や幸福感をとりこぼさずにちゃんと感じるためには、
結果を出すまでのいろいろなプロセスを噛みしめることにある。
過程を楽しんでこそ、生活がおもしろくなる。

資本社会の世界で、
スピードや効率が命とされ、
過程というものはその価値を見下げられていがち。
そして、そんな価値観が正しいとされて、
みんなそうすればいいのに、と会社の論理でおされがち。
ひとが擦り減り、ゆがみ、すさむことを助長するのは、
そういう風向きにあります。

労働時間が減り、休息日、余暇がふえ、
それでもまずまず稼ぐことができ、
生活に苦しむほどじゃなければ、
幸福度とともに、倫理観が強くなり、
それにつれて教養の度合いもあがっていくんじゃないのかなあ。
自律性をもてていて、
やるだけやることが大事だと教育されてきたひとであるならば。

他律性に対してはそれにしたがってやたら頑張るけれど、
自律性の面では怠ける、
というのがいちばん幸福を感じにくいと思いませんか。
また、そういうのが、社会を生きづらく、
世知辛くしていっているのが直観できると思います。
そうわかっていても、なかなかこれまでの社会の慣性からは逃れられない。

以前読んだ地方創生に関する本で、
よくしていくために変わっていくのには、
住民の意識の変化とともに知識を増やすことが必要だ、とありました。
よい気持ちを持つのは素晴らしいこと。
そして、そんな気持ちを持てたらさらに一歩進んで、
いろいろと知識を得るために動くことが大事なんだと思います。

きっと、クリエイティブをたのしむことに、
それぞれの自律性をはぐくむ種がありますよ。
余暇を楽しむクリエイティブ、なんて自律性あってこそです。
あれやんなさい、だとかと、
他人に指図されたり行動を支配されたりする
他律性になれさせられがちな世間の中、
クリエイティブで自律性を発見(再発見)する。

買い物でストレスを解消するひとっていますが、
このことも僕の考えでは、
誰かれの干渉や指図なく自分の好きなように
お金を使うことによって自律性を感じるところにあるとなる。
それだけふだんの他律性から解放されたいんじゃないでしょうか。
そういう意味では、お金の無駄遣いをすることで自律性に気づく場合はある。

となると、浪費家は他律性に過敏になっていて、
その悲鳴としての浪費行動なのかもしれないですよね。

ひとは、なにかやることをみつけていろいろやってみることに、
面白みや楽しさを見出します。
そして、そこには自律性があります。

まあ、ぼくの考えの基本には、お師匠さんについて道を歩く、
っていうより、独学で、つまりひとりで先達とは一定の距離を保ちながら、
その言葉などを読んだり聞いたり見たりしながら
道を歩くという姿勢ですから、
すべてに通ずる考えではないのですが、
独学でなにかをしていくのって、現代的でもあると思うんです。
だから、今回の考えの切れ端もそういった意味で、
みなさんの考えるヒントになればなあと思いました。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

権力を楽しむ性分。(他律性の正体Ⅱ)

2017-07-01 00:02:35 | 考えの切れ端
今読んでいる本の感想とかぶってしまうから、
今回はずらずらと言葉を並べることはしません。

ただ一言、これは言っておかねばと思うので書きますね。

他律性の正体は善意だ、と以前書きました。
しかし、お話にもならないような他律性っていうのが
実はあるんですよね。

ひとは権力を楽しむものだ、と。
ひとのそういう愚かな性質から生じる他律性がある。

そうなんですよ、ひとって権力を楽しみがちですよね。
まず他律的にひとを動かすよろこびがある。
他律性の正体のひとつは、さっき書いたように善意なのだけれど、
話にもならないような他律性の正体は、
権力を楽しむという人間の愚かな性質にあるんだと思います。

他律性は、善意にしても権力を楽しむがゆえのものにしても、
どちらにせよつっぱねたいものです。
自律性にこそ幸福感があると考えるからです。

でも、どういう姿勢でもってつっぱねるかは、
その他律性の正体のタイプを見極めないと決まってきません。
お前さんの善意はわかったけど、それで相手を苦しめるんだよ、と
さとすようにつっぱねるか、
お前の指図はお前のただの楽しみのためのものだから、
そんな利己的な行為を認めて従うわけにはいかないし、
お前はその、お前自身の迷惑な心理に気づかないといけない、
とつっぱねるか、変わってきます。

まあ、実際には、そんなにマジメにやるこたーないとは思いますけれども。

他律性の正体をバージョンアップすると、
「善意」と「権力を楽しむという人間の性質」にある、となりそうです。

(うーん、意外とずらずら言葉が並んでしまった……。あしからず。)
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なんでもすぐに口にするひとは嫌われる

2017-06-26 22:12:32 | 考えの切れ端
「なんでもすぐに口にするひとは嫌われる」
というようなのを、
webでもリアルでも、
最近目にしたり耳にしたりしました。
言ったもの勝ち、先手必勝、
みたいな性質がそこにはあるでしょう。
つまりはみんなが嫌いな、
縛り、支配性、他律が潜んでいるってわけですよ。

君の言うことは聴いたけれど、
だからって縛らせないよ、
支配させないよ、
君にぼく(自分)をコントロールさせないよ、
という距離を保てるとちょっと楽になります。
それであとで「あのとき、ああいったじゃん」と
<言ったもの勝ち発言>を持ちだされても、
ちゃんと話合っていない案件でしょ、と返すと吉。
思ってすぐに口に出された発言に対しては、
こっちでうまい返しが浮かばなかったならば、
「もうすこし深く考えてみるとおもしろいかもしれないですね」だとか
「もっと掘っていくといいかもしれないですね」だとかで、
かわすというか、留保しておけばいいのではないでしょうか。

あなたはあなた、ぼくはぼく。
前提はそこにあって、
なにも「誰か色」に染まる必要なんてないですよ。
「誰か色」に染まってみるっていう試みは、
もっとプライベートで良質な関係のなかで行われたり、
個人的に自己変革の必要性を感じて
自律的にやったりすることであって、
他人から迫られるものではないです。

自分の意見や考えに賛同してもらいたい気持ちは誰にもあるでしょう。
だけれど、そこに支配性をもちこむことや、
自分の意見を受け入れたんだから、僕の立場が上だ、というような
力関係を持ちこむべきではない。
そういった支配性や力関係に無頓着なひとは多いから、
受け手のほうから距離を取ることが必要なんですよね。

商売だとか、
スピードを重視する世界であれば、
思ったことをすぐに口にするというのは大事なんだと思う。
だとすれば、そこでは、
無為に他人を縛りつけない、
力関係を過度に持ち込まないことを
踏まえるべきなんじゃないかと思う。

そんなわけですが、
こういった不自由はなくしていければいいですねー。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

良貨であれ!

2017-04-17 15:54:44 | 考えの切れ端
悪貨は良貨を駆逐する。
検索すると、
「悪がはびこると善が滅びるというたとえにも使われる言葉」
と出てきます。

だから、しょうがないけど負けたくないから悪貨になってしまおうかなあ、
と実際にそうなるか否かを若い頃って考えてしまうことがある。
ひとによっては、悪貨になるのが「現実的」に思えるのですが、
それってたいてい、理想を持っていないし場当たり的。
他者を幸せにしようという気持ちを最初から放棄してますし。

正しさ自体、疑ってかからないと危ないものだと言われるし、
ほんとうにそうなんだと思うのだけれど、
大多数の正しさと比較的少ない人にしか適用されない正しさがあり、
後者は悪と呼ばれることが多い。
でも、大多数の正しさ同士でも衝突するし、
突き詰めると人類の正しさなんて所詮すべて悪だ、
みたいなことにもなり得ると思うんです。

正しさを妄信しない態度でもって、良貨になれればいいし、
実際それを良貨と呼ぶのでしょう。
でも、良貨になるんだっていう道は悪貨になる道より
ずうっと険しいわけですな。
もう大変なんだから。
たとえば、蔑視だとか優越だとか、
生きづらさをつくる心理っていろいろあるけれど、
それらは本人が自覚できない潜在的な意識から
生まれているっていうんですよね。
そのようなことを知ろうとしたり、
アタマをバージョンアップしていく行為を放棄しない態度は、
良貨になるには必要なのだと思います。
悪貨になるには我慢をよせばいいみたいなところがある。
でも、悪貨になれば心が痛んだりはするんだよね。

親鸞の悪人正機を解説する話のなかで、
悪人は犯した罪を悔いて毎日祈るようになる、というのがあったと思う。
そのへんの苦しみは計り知れないでしょう。
そして、そこからわかるのは、
ひとって自分が悪だという意識に耐えられないんだということです。
どんなことにも例外はあるとしてもね。
ゆえに良貨を目指した方がよい。

まあ、現実的に、ぼくは100%良貨的人間です、なんてならずに、
良貨であり悪貨であり、という要素がまぜこぜになりますよね。
そういうものだと思っています。
でも、自分に悪貨の要素があっても、
「悪貨でいいんだ」と開き直るべきではないんじゃないかなあ。
良貨を目指すのは苦しいけれど、
苦しみを知ることで、逆に幸せを知ることができるものなんだ、と
ぼくはそう信じているし、ちょっとした実感すらもっています。

踏みだす勇気はいるけれど、
良貨をめざすひとが多いといいなあ。
そこらへんの、気概、ってあるじゃないですか。
そんな、気概もすばらしい。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都市と地方---知性中心主義の否定から考えて。

2017-02-04 22:11:17 | 考えの切れ端
知性中心主義は、
言うまでもなく、頭がよくて勉強ができるひとが素晴らしいとして、
ひとの価値を頭の良さで順列する考え方。
似たものに、お金中心主義がある。
それはさておき、ぼくは知性よりもお金よりも大事なものはあるし、
それに順列して階層化することもないだろう、と思うひと。

だから、知恵や知識をたくさん蓄えねばならないんだと、
多くのひとが本を読んだりして、
そうしないひとを見下すようなのはまったくの間違いだと考えている。
いろいろ考えたけれど、
娯楽以上の知識の付け方は学者だとか
専門家にまかせたほうがいいのかもしれない。

みんなが政治やら科学やら倫理やらのエキスパートレベルにあって
「これが民主主義」だって誇れるくらいになるのは
スタートレックの世界くらい夢想の世界の物事でありはしないだろうか。
というわけで、最低限以上の勉強を放棄しても
できるだけ迷惑をかけないスキルを持てば許される世界がひとつの理想。

だけど現実として、
科学が進歩して、
燃料が水素になるだとかAIの進化が著しいだとかビットコインだとか
もうほんとうにいろいろ新しいものがでてきて知識をつけることを強いられるし、
せっつかれて勉強をしないといけなくなる
(常識をつけないといけなくなる)。
ここが不幸のポイントだと思うのだ。

なんでも知識をつけること、
知恵をつけることが大事に思えるから
(そりゃ大事ではあるんだけれども。金儲けにも騙されないためにも大事だ)、
この社会は知性中心の世の中で、それは絶対的なものだと錯覚してしまう。
知性中心なんて当たり前だね、と思ってしまう。
お金が一番なんて当たり前だと思うのと同様に。

まあ、いまって、
お金と知性とが両輪で回っている価値基準の力が強いのかもしれない、と思っていて。
やっぱりこういうのって、
ディストピアを念頭にした強迫観念からきているのかな。
機械に支配される、
宇宙人に支配される、
どこかの秘密結社や悪の組織に支配される、
そういうのに対抗しなきゃ、自分だけでも助からなきゃという。

それで、お金と知性中心主義ってやっぱり都市部からでてくるでしょう。
都市部からは、エコだとかスロウだとかそういうコンセプトが出てきますが、
バブルだとか不寛容も出てきます。
こういうのは一部ではありますが、
当然、都市は全能ではないということです。
同様に地方にもいい面と面倒な面がある。

均質化せずに、混ざりあえるところは混ざりあえばいいんですよね。
むずかしいかもしれないけれど。
都市部と地方で対立することはないです。
都市部の便利なところなど地方に対して融通してもらえれば融通してもらい、
地方の時間感覚や自然なんかだって必要なものだから都市に融通する。
今だってそうなってはいる。

温泉やスキー場に地方を利用し、
病院や娯楽なんかで都市を利用する。
そういうのはあるけれども、
人間単位でもお互いによく知りあえば
双方にプラスにはたらくものはあると思います。
なんでも区分けして、あっちこっち分けたがる風潮ってあるように思いますが、
自ら亀裂をこしらえることはないのでは。

トランプ大統領がメキシコとの間に壁をつくることに反対するひとは、
壁という存在が、人間間に亀裂を作るからだと言ってはいないかな。
ぼくはうっすらとしか考えてなくて発言するには申し訳ないのだけれど、
壁は亀裂だと思った。

こういう考えの根本には、
できるだけ「生きやすい社会」を、というコンセプトがあります。
いらんストレスはいらんし、
差別やいじめも少なくなっていけばいいし、
当たり前だけれど暴力も減って、
人々がフェアにそして自由に暮せると一番いいなと思っている。
そういう理想に近づけばいいなあ、と。

最近、録画していたアドラーの番組を見て、
それで再確認したのですが、
アドラーの考えを知れば、
劣等感や優越感というものは無くならないもので、
ひとはそれらを用いて成長していくとしているのがわかった。
劣等感や優越感も生きづらさを生みますが、
そこらはダイナミックに考えるといいんだろうなぁ。
大きく見て、生きやすさと自由に繋がれば、取り入れるべきなんだろう。

話が逸れてきたからこのへんで。
ヴォネガットの『プレイヤー・ピアノ』は好きだったな、
というところにも結び付く、
反・知性中心主義の話でした。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「温かみ」を知ること。

2016-12-19 11:30:15 | 考えの切れ端
ツイッターのタイムラインを眺めていて、
たまに「なんでこんなことにこれほど冷たく、辛辣なの?」と
疑問に思うようなものを目にします。

それなりに懸命に勉強して「こうかもしれない」
と何かを見つけてやりだして失敗していた時、
そういう人たちに対して辛辣で冷笑的に
あるいは冷徹に言葉で一刀両断にする類の人たちって、
コミュ障だとかと言われる人たちに多いように思います。
それは人の温かみを知らないがゆえなのかもしれない。

コミュニケーションが苦手なひとに大事なのは、
ひとの温かいところや優しいところを知ること、
気づくこと、
そして触れることです。
助けあい、依存しあいながらじゃなきゃ生きられない
「人間」ってものがわかってくると、
世界の見え方も変わるし、
自分も他者も生きやすくなっていくんじゃないのかなぁ。

もちろん、
他者の優しい面を見ようとしても狡猾な面しか見えない、
だとか例外だっていろいろある。
それはそれとして注意しながら、
でも、そういう狡猾だったりするのがスタンダードだと思わないように、
見失わないようにしたほうがいい。
また、場が人を作るように、
人が悪いようでいて場が悪いこともある。

ぼくは楽しいことが好きだし、
豊かさっていいなあと思っている。
ぼく自身の生きづらさとあなたや彼女の生きづらさには、
たぶん共通するところがあって、
ぼくが得た解がきっとあなたたちにも少しは役に立つかもしれない。
生きづらさを軽くすることはできる。
そしてそんなぼくらならもっと楽しく生きられるのではないですか?

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

サービス業、アイドル業の心得。

2016-10-23 22:11:20 | 考えの切れ端
訪れるお客さんに楽しんでもらって
その体験などを明日からの生活の活力の糧としてほしいことを望んで働いている。
サービス業の根本ってそういうところにあると考えている。
それもちゃんと対価をもらうことがフェアであるとして。
無料でなんでもかんでもやってもらうというのは違うと思っている。

若い頃から、
いろいろとアイドルとかミュージシャンとか映画とかにハマって生きてきたから、
そういう考えを自然に持てるようになったのかもしれない。
もちろん、何種類かサービス業を経験してのこと。

そして、ぼくの好きな乃木坂46の娘たちも、
私たちから元気を得てくださいという感じで活動している。
ありがとう、と思いながら対価を払い元気を得ている。
そういうことが社会の構成員として健全だとしっかり思えるようになったのが、
オトナになってからの大きな変化のひとつかなあ。

苦しんでまでアイドルを応援することはない。
精神的にも経済的にも。

応援して、応援が返ってくるというようなのが、
たのしいアイドルファンライフでしょう。

手続きとして金銭の授受が発生するのだけれども、
金銭の授受が第一の目的となってしまうと、
途端に中身が無くなりしらけるんですよね。

同じような見た目でも、
金銭の授受が手続きとしてあってサービスが行われる場合と、
金銭の授受は一応の手続きだよという欺瞞があって
骨のないサービスが行われる場合があり、
後者が巧妙なこともあるから皆がそれを疑い、
なんにせよできるだけお金を払いたくない、
という心理が生じるんだと思う。

悪貨は良貨を駆逐する、というパターンですかね。

まあ、一応のまともな商談っていうのは、
悪いけどお金がかかるよ、というエキスキューズののちに、
でもこれだけのことをします、ということを包み隠さず、
拒否権をしっかり相手に与えて選んでもらう、
ということではないのだろうか。
ちょっと牧歌的なようだけど、基本はこれだよね。

欺瞞に多いのが、拒否権をできるだけ与えないような言い方をする、
というやつでしょうか。

商売の立ち上げまもなくのときなんかは、
強引にやっちゃうとは思うんだよね、それはそれで命がけだから。
それを「悪い」ともいえない気持ちで見てしまうんだけれど、
ちょっとそれって危うい気がするんですよねー。

あのアイドルがどれだけ稼ぎました!
どれだけのDLがありました!
と数字の大きさを報道する場合も、
その仕方によっては、
実はアイドルを潰す行為になるんだと思いますよ。
報道が毒になる難しさじゃないかな。
なぜなら先述のように、金銭の授受は手続きなのに、
それが目的のように見受けられちゃうから。
数字の大きさを見て、ああこんなに今、愛されているんだ、だとか
勢いがあるんだだとか、その程度に数字を見るには、
しらける心理は生まれにくいようにも思うのです。
金もうけが第一義で、
みんなが受け取っているサービスは、
心からのものじゃない、となると、
随分しらけてくるでしょう?

それなんですよね。

ただ、マナーの悪いお客さんや、
過剰な要求ををするお客さんがいて、
そういうひとたちとのやりとりで、
お互いが劣化することもあると思います。

心得るのは、
なにもサービスを提供する側だけじゃない。
サービスを受ける方にも心得は必要なんですね。
Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする