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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

「傲岸さ」という貧しさを超える。

2019-10-23 23:28:47 | 考えの切れ端
自分から逃げてばかりいると、傲岸不遜な性質になると思う。

自分から逃げるということは、
虚栄心ベースで飾った自分をほんとうの自分として
他人に認めさせようということでしょう?
そして、そんな虚栄の自分の実現っていうのは、
他人よりも優位に立ちたい気持ちがまず先にある。
そこに傲岸さが存在しています。

そうやって優位に立ちたい気持ちをインスタントに達成してしまうから、
傲岸不遜でさらに薄っぺらな内容の人間になっていく。
その薄っぺらさからもっと逃げていくと
もっとどんどん傲岸不遜で薄っぺらい性質は深まっていくのだと思う。
歳を重ねるとそういう傾向が強まって目に余るようになる。

たいてい周囲には
「こいつ、逃げてるがために傲岸なんだな」
っていうのが直観的にわかられて見透かされているものだけれど、
本人はほとんど気付かないものなんですよね。
気付かれたかな、と思っても、
それだって煙に巻けるものだと楽観的に考えていたりもする。
自分もそういうところはあるし、そういう人も見てきたし、です。

自分自身から逃げ、
偽りの自分を作り上げてうまくやっていこうとするのは、
たぶん合理的なんです。
利己的な合理性。
自分以外みんな敵ならばそうやって生きていけばいい。
しかし、そうやって破綻するのが人間の不合理な心理面。
ではどうあればいいのか。
思いつきの仮説レベルですけれども、
それは、対極にあるものと混淆してやっていくのが、
合理性にしろ不合理性にしろ一貫してやっているよりも
健全ってことになるんじゃないのか。

ただやっぱり、
生きやすいうえに豊かだ、っていう世界は、
自分から逃げてばかりいる人たちの世界ではないよなあ、
と思えます。

自分と向き合うのはなかなか大変だったりするし、
それこそまとまった時間が必要なんですよね。
そういう姿勢をとれること、そのための時間を持てること。
というような世界の到来には、
少しずつでも、みんながそっちへシフトしていくことが大事です。
ひとりだけの行動では理解されなくても、
みんながそうだなあと思って行動すると、ちょっと変わってくる。

……と、なんだか「赤信号、みんなで渡れば怖くない」
みたいになってしまった。
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利害関係ゲームはほどほどに。

2019-09-24 21:37:48 | 考えの切れ端
仕事で、
「この人は対外的にも対内的にも利害関係だけでコミュニケーションする」
と見える人がいるけれど、
そういう割り切りの方がビジネスのある方面ではうまくいくのだろう。
だけれど、すごくひっかかるし、
残念ながら僕にはとてもなじみにくいスタンスだ。

だって、その利害関係だけの愛想のよさや気配りなんかって、
利害関係じゃない場合の、
人間的なやり取りの文脈をダシにして使っているでしょう。
詐欺ですもんね。

たとえば
「いやいや、利害を考えての行動以外していません。こう宣言すると詐欺にはなりません」
なんて言われても、
そのドライさだって、
やっぱり人間的なやり取りの仕方の上に立脚していませんかねえ。

また、こういう、利害を第一に考えることをよしとする場合、
それを野生動物たちの「食うか食われるか」「弱肉強食」
みたいなことをラベリングして肯定する行為は、
社会を形成してやっていく社会的動物かつ知的動物である人間には
当てはまらないんじゃないかと思うわけです。

欲望のなすがままにならないようにルールを決め、
そしてルールに縛られ過ぎて窮屈になりすぎないように制度や権利を作ってきたこの人間世界で、
一日の大半を過ごす仕事時間をすべて、
利害関係の考え方で通すことの是非ってどうだろうと思ったんだけれど、
そこがこの世界のゲーム性なのかもしれない。

ただ、そのゲームに、
好きか嫌いかに関わらず全員強制参加っていう性格の強さ、
そういう今のあり方、はどうかと思うし、
それが人間世界の完成型ではないでしょう。
これだけ知能が発達しても、
競争社会一辺倒でそういった色合いの濃い世界なのは、
僕が思うに、知性の発達がまだ足りないからだ、ということになる。

僕が若い頃からあるけれど、
特に、異なる世代間での利害関係のみのコミュニケーションというか、
利得になるかどうかを考えただけで、
感情面を押し殺してコミュニケーションし選択し行動するというのは、
けっこう表面に出てきたりしてわかるときがある。

そんな、「ゲームである(と言えもする)人間社会」が殺伐とするのは、
利害関係での付き合い方の純度をあげたほうがプレイヤーとして有利だから、
という構造になっているからかもしれない。

ただ、利他行動が有利か利己行動が有利かは、
その時々によっての移ろいとしてあるらしい。
コンピューターを使ったプログラミングでの実験でそうでる、
と共進化の本で読んだことがあります。
そこも、どれだけ欲望が強く、どれだけ知性が強いかで変わってくるのでは
と思えるのだけれど。

また一日の大部分を、
そんな「ゲームである世界」で利害優先として生きて、
なおかつプライベートでもやっちゃうっていう良くなさはあります。
切り替えがきかない、
「仕事時間というものは利害を考えなきゃいけないゲームである」的な発想がまったくない、
だとかで私的時間すら利害の考え方に浸食されてしまう。

……と、こういうことを考えるのも、
世の中には、過ごしてきた学生時代、
少々問題はあったけれど周囲とも仲良くやれていたし楽しい時間を過ごせた、
というような人が、
仕事についてみれば周囲に食い物にされて疲弊してしまい、
脱出口がみつからないというように見えるケースが目につくからです。

職場で周囲に、
がみがみと注意されたり、あれこれ指図されたり、求めてもいないアドバイスを怖い顔でされたり、
というところまで追い込まれる人がいる。
これはきっと利害関係のゲームになじめないだとか
利害関係だとわからないだとか
対応できないだとかがその人の元にあるからだと思う。

そのくせ周囲も、
仕事時間は利害で動いている性質が強いことに気付いていないため、
そういう人を仕事時間外でも利害関係で縛ってしまう。
それはもう泥沼になっていくよなあと。
自明じゃないでしょうか。

そしてもう一つの視点から言うなら、
利害関係で動くというのは合理性が大きく前面に出てくる局面であり、
対して人間というものは本来不合理なものなので、
特に合理的な自分になりきるのがうまくない人は、
幸福感を得ずらいんじゃないかと思えるのです。

「利害で動く時間」=「合理性時間」から不合理時間に戻りたいのに、
そんな「不合理時間」=「プライベート」でも離してもらえないんですよ?
だんだんもっと合理性に対応できなくなっていくような気がしてきます。
なかにはそういうのがスパルタ式に効いて、
対応できる人もいるかもですが、それはわかりません。

僕はどうかというと、
仕事時間であっても利害関係100%でやっていくのは心苦しいので
(不合理時間の文脈をダシにして自分の利益を得る場面が特にいやなので)、
同僚とコミュニケーションをとりながら、
雑談もして、
雰囲気が窮屈ではない中で仕事をしたいほうですし、
できるだけそうしています。

ちなみに、雑談を奨励したほうが、仕事の成果があがる、
というのがANAが出した本に書いてありました。
どこだかのアメリカの大学の研究結果からもそういうエビデンスが得られる、
みたいな話だったと思います。

と、思うままに綴った「考えの切れ端」ではありましたが、
今回は、要は、それは利害行動なのかどうかを
各々が認識することが大切なのではないか、ということに収まると思います。
そして、人間は本来不合理だということをちゃんと覚えておくこと。
そういうことで変わっていくものはあるのではないでしょうか。
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集団の活性のために-----見かけの協力と、ほんとうの協力。

2019-07-19 21:41:53 | 考えの切れ端
ひとつの集団や共同体のなかで、
表向きの態度とそこに隠された内緒にされている態度とが逆だというのが、
多かれ少なかれ、ある。
一応、皆で手を繋いでいるように見える集団であっても、
その実、各々が各々にいらいらしていてバラバラだというような。
それは話し合いや議論が小手先ばかりでやっていて、
下手くそだというところに理由があるでしょう。

話し合いや議論の場で、
自分の意見を通すために相手を抑え込むための言葉や態度で臨む人がいて、
さらに、相手の話をしっかり聞いてあげないし理解してあげない人がいて、
そうなりがちなんですよね。
さらにいえば、話し合いの場で相手を責めるのはNGです。

話し合いをディベートにしてしまうと、
それは試合でありゲームでありという性質のものになり、
そもそもの、テーマを深掘りするだとか最適解を求めるだとかという
真っ当な性質の話し合いから逸れてしまう。
ディベートはボクシングみたいなものだし、
ふつうの、力を合わせる集団内でやるものじゃない。

なのに、話し合いをディベートにしてしまいがちな人っていうのは、
権力を使おうとしたり、そこにいる人々の立場が不均衡なのを利用したり、
自分の考えを通そうとするようなタイプ。
支配性を感じずにはいられない。
ディベートは周囲が敵だけだったり、
集団vs集団での戦いだったり、そういうときのもの。

だから、話し合いを建設的に行い、
なおかつ集団内でもお互いをより深く理解して
うまく補完しあってやっていくというような姿勢が、
徒労に終わるような時間の浪費からみんなを救うし、
余計なストレスから解放するし、
と集団や共同体の環境を好転させていくものになる。

そして重要なのは、
そうやって好転していった集団内では、
それ以前よりもよい意見が出るだろうし、
そのブラッシュアップも以前の比ではないほどになるだろうこと。

自分は個性的な人間だ、とかすごく頭がいいんだ、とか、
そういう思い込みで人は自己洗脳するようなきらいってあるけど、
ほぼ、そういうひとたちだって実は「ふつう」なんですよね。
自己洗脳して無理しちゃうより、
「ふつう」の自然体で他者とかかわった方が、
相手に伝え・聞いて理解しあう態度になれる。

そんな態度は、
前述のように、
話し合いの内容を深掘りしたり、
状況に応じて内容を広くしたり絞ったり、
柔軟かつダイナミックかつ親和的に議論できる方向になる。
そして、そんな集団(場所)にこそ活性が生まれるのではないでしょうか。
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痛みへと続く笑い。

2019-03-12 23:25:11 | 考えの切れ端
ツイッターのTLに、
バラエティ番組でよく行われているのは、
「いじる・いじられる」などの考え方で笑いをとる、
人の尊厳を無視したやりかたで、
その影響を受けて現実世界でも、
「いじる・いじられる」が行われているというような
一連のツイートがありました。
僕は一時期、ほとんどテレビを見なかったですが、
徐々に目当てのアイドルなんかを見るために
バラエティ番組を見始めたら、
違和感と苦痛を感じたのを覚えています。
それはきっと、このためなんです。

だから、好きなアイドルさんのバラエティ馴れに、
淋しい思いをするのってあるんですよ。
それは、素人っぽさがなくなったからっていう理由とは
ちょっと違うのです。
バラエティのあり方は、
「精神的なじゃれあい」としては一方的だし、
人としての大事なところから離れていく「プレー」
という感じがするからなんです。
(芸人さんたちなんか、もっときびしい、
胃が痛くなるいじりをされてますよね)

バラエティ慣れに淋しい思いをするその理由としては、
その人が持っていた
「人としての弱くて繊細だけど美しい部分」
がなくなっていくからっていうのがひとつの理由になるか。
仕事をうまくこなしたい、
もっとうまくなりたい、
売れたい、
と思ってした選択に伴う代償だ。

「代償の伴わない選択はない」
とリンダ・グラットンも書いてたもんね。
この場合の選択っていうのは、
ごはんにしようかパンにしようかみたいなものとは違うと思いますけども。

また、どうしてああいう「いじる・いじられる」の
バラエティ番組が生まれるかというと、
まず先行して学級だとか会社だとかに
意識していない状態で存在した関係のありかたがあったかもしれない、
それが、今日まで幅を利かせていないにしても。
そのことへの恐怖心・不安の裏返しとして今日市民権をもたらしたのだと思う。

不毛な予防接種みたいなものかな?
いまや、そういう「いじる・いじられる」が
ごくふつうのものとして社会に蔓延しています。
まさに社会儀礼のひとつであるかのように。
いじるか、いじられるかしない人って天然記念物だね、
みたいな目で見る人もいます。

こういうのも「社会性」としてみる向きがありますから、
そこを感じとって、
「社会ってなんなんだ!?」って
疑問や怒りや憤りをもつ若い人が一定数でてくるもんです。

そして、いつしか、そんな社会で生きるために、
仮面を被ったりするんですよ。
仮面と分かる人は分かるもので、
分かる人同士では仮面を脱いで話をしたり、という。
そういうのが老獪さに結びついて、
人によっては、姿を見せないレジスタンスみたいになる場合もあるでしょうね。

さて、あなたは、
いじる派? いじられる派? そんなものゴメンだ!派? のどれですか?
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「無関心」という病理への気づき。

2019-02-07 00:50:27 | 考えの切れ端
前回の読書記事で予告したとおり、

イギリスの精神分析医による著作『人生に聴診器をあてる』より、

「何よりも妄想とは、私には誰も関心を持ってくれないという意識の副産物なのだ。
(中略)そんな妄想が、世界中に見放されているという絶望から、
彼女を守ってくれたのである。」

という見識を今回は深掘りしてみます。
(個人的に2019年の2月にして、2019年最大の発見だと思っています)

上記の見識を別の言い方で表現してみれば、

妄想(とくに被害妄想)は、
自分に対する周囲の無関心の意識から生まれる。
無関心にさらされていることにより弧絶感は命を脅かすほどだから、
自己防衛反応として妄想が生じる。
そうやって、自らを守っている。
わたしは誰にも忘れ去られている、という思いを封じ込めるため、
本能が被害妄想を発動させる、
となるでしょう。

『人生に聴診器をあてる』のここの部分によれば、
被害妄想がなぜ生じるかいろいろな仮説があるそうだと書いてあります。
著者は、その多くの仮説に通底する部分を彼なりに読み解き、
無関心さが被害妄想を生じさせている、と記したように書いてあったと思います。



ではまず、日常における「無関心」ってなんだろう、どういうことだろう、
というところを見ていきます。
たとえば、ぱっと思い浮かぶ「無関心」から連想される場所である都会は、
人間関係が希薄でしょうし(特に隣近所の付き合いなんてない)、
「無関心」さが強いと言えるでしょう。
地方の比較的ベタベタした人間関係を嫌い、
それで都会に出てきたんです、という理由を語る人はたくさんいると思います。
つまり、都会人はプライバシーを重んじる傾向が強い。
そんなプライバシー重視の価値観は、
「無関心」に近接しているものです。

そして、時代に先行していた都会の人々の「無関心」さは、
現代になると広まっていきました。
現代人の、たとえば子どもたちのコミュニケーションの取り方を
30~40年くらい前と比べてみれば、
個人と個人がぶつかり合うケンカは少なくなったと言われます。
もっと昔と比べたなら、
さらに顕著に減少していることが分かるんじゃないでしょうか。
ケンカはお互いを肉体的にも精神的にも傷つけあいますが、
コミュニケーションの範囲に入る行為です。
それが、現代に近づくにつれて、
無視する、ハブるなどの(ツイッターならブロックもそうでしょうね)
コミュニケーションの範囲外の行為が増えていきます。
嫌いな人やモノなどには興味をもたないし、無視する。
無視とは、対象を無いものとして位置付けるということです。
それは関心を持たないという事であり、すなわち「無関心」ですよね。
そういった、精神的にも体力的にもコストをかけない
ディスコミュニケーションの増加が、
他者への「無関心」を促進してきました。
だから、個々人の妄想は強くなる傾向になってきたのかもしれません。
その証左として、都会では精神を病むひとが増え、
遅れて、現代人全般にも精神の調子をくずす人が増えてきた。
精神分析やセラピーを受ける人も、
何十年か前に比べて増えてきただろうし、
珍しくもなくなりました。

というように、
ここまで筋道立てて考えてみて、
「無関心」が妄想を生み、また、それゆえに精神を不調にもする、
という作用はまったく的外れではないように考えられないでしょうか。



だからといって、
現代人は、対策もなく、
「無関心」による被害妄想に呑みこまれ続けようとはしていないと考えています。
それが「無関心」による作用なのだと意識していなくても、
無意識的な行動や、
時代の流れとして、
抵抗したり、乗り越えようとしたりしているように見えます。

例をあげると、
けっこう嫌われたりする行為ではありますが、愚痴をこぼすという行為。
愚痴をこぼすことは自己開示であり、
自分に関心をもってもらいたい気持ちの表れと解釈することができます。
また、自らを理解してもらいたいという気持ちがありますよね。
「無関心」は最上級にきついですが、たぶんに無理解もその次くらいにきついです。

時代の流れとしては、
議論から対話へというもの。
議論をするより、対話をして共感を得ていこう、という意識が強くなっているように、
僕なんかには見えているのですが、いかがでしょうか。
いや、議論がなくなっていってると言いたいわけではないのですが、
対話によってできるだけ共感していきたい欲求が
だんだん強くなっているようにも思えるのです。
そしてそれは、自分への「無関心」のつらさを
少しでも癒そうとする表れかもしれない。
対話は、「あなたに関心をもって、話を聞こうと思っていますよ」
という意思表示をお互いに暗に示しながらするものです。
具体的な問題解決もあるかもしれないけれど、
関心がもたれているという意識で救われるというのもあるのではないか。

また、くだらないという考えの人もいますが、
承認欲求というものも、「無関心」による弧絶感を
ふせぐためのものかもしれない、とも考えられるところです。
承認欲求のために、有害なことをする人もいます。
人に無視されるのがつらいから、
嫌がることをしてでも自分を忘れさせないようにする心理が働く人はいるのでしょう。
日常レベルで考えると、小さなところだと誰にも心当たりがありそうです。
それだけ、自分は忘れ去られた存在だと認知することは耐えがたいことなのです。



ちょっと話はそれますが、
一昨年リリースされた、坂本龍一さんのアルバムのタイトルが『async』でした。
asyncとは非同期を意味します。
坂本さんは、作品へのインタビューのなかで、
自然の音やリズムは非同期で満ちていて、
決して規則的に繰り返すものではない、というような認識を表わしていました。
で、作品を聴いてみると、僕にはある種、都会的に聴こえましたし、
オープニング曲の「andara」などは、孤独の悲しみから生まれたようにも感じました。
僕の解釈としては、非同期つまり同期しないというのは、
自分のペースを守るという価値観がそこにあるということです。
「自分は自分」であり、
それはプライバシーを重くみる現代人に繋がらないかなと思えるのです。

ここで話が元に戻るのがわかると思いますが、
非同期を無関心と重ねる見方も可能なんです。
ですから、
asyncは非同期の可能性を拓いたというより頂点を迎え限界を示した、
と、ぱっと考えた感じですけど、僕なりにはそうなります。
または、思想というより美学としての非同期を提示したのかな、とも。



もうひとつ、オプションみたいな考えを付け加えておきます。
『人生に聴診器をあてる』に書いてありましたが、
セックスやマスターベーションは抗鬱剤であり、
性的な妄想は精神安定剤、というのがそれです。
経験上、首肯できるものなんですが、
なかでも性的な妄想っていうのは、
これはひとつの、「無関心」によって生じる妄想が、
被害妄想へいかずにうまく見つけた出口なのではないかと思えます。
しかし、ここにも限度があるようなのは、
性的なトラブルや犯罪がよく取りざたされるニュースを目にするところにあります。
精神安定をはかるための性的妄想だけじゃ、
癒されなくなってしまったのかもしれないです。

さきほど書いた、妄想の出口という観点からもう少し考えてみると、
神様、という妄想で救われることがあるだろう、ということです。
信仰心があって、神様を信じていれば、妄想の出口として、
神様のほうへとその妄想は向かう。
そういう道筋が頭の中にできあがっていたならば、
「無関心」による耐えがたい苦痛を回避するのに、
被害妄想へいかずに、神様が自分を見ていてくれている、
という妄想へ向かっていくのではないでしょうか。
もっとイメージを膨らませて考えてみれば、
いったん、被害妄想を生じさせてしまっても、
神様を信じていたならば、
それすら昇華できてしまうかもしれない可能性も見えてきます。
これが、宗教が人を救ってきたメカニズムの大きな一つかもしれない。

そして、スピリチュアルが流行るのも、
妄想の出口として機能しているとしたら……?
そんなことも「無関心」を考えるうちにその範疇にはいってきます。

現代人はバカになった、
とそうネット上なんかで言われているところにでくわすことがありますが、
実はそれって真実ではなくて、
「無関心」によって妄想過剰状態になっているからなのかもしれない。
妄想によって事実誤認が多くなるでしょうし、
リテラシーがないなんて言われるその原因に、
妄想にひっぱられて、
それこそ妄想めいた自分勝手な解釈をするというのがあるならば、
そこには「無関心」が原因として疑われます。



では、僕たちは、「無関心」から脱却して、
過分な妄想とオサラバすることができるのでしょうか。

ツイッターで、無視をする自由はあるんだ、という考えにも出合いました。
それは、表現の自由を守るのである、と。
なるほどなあと思いましたが、「無関心」を肯定しすぎると、
受け手のリテラシーが上がってきませんから、
突出した素晴らしい表現があってもわからない、だとか、
それこそ「無関心」などの現代的な病巣の周辺のものにしか気付けない、だとか
そうならないかなあ、と杞憂かもしれないですが、考えてしまうのです。
また、自由には責任もともないます。
無視する自由には、人を病ませる可能性がある。
そういうことを、しっかり受け止めた上での自由であってほしい。
そうなれば、無視やスルーがお手軽なものとしては
認識されなくなるのではないか。

また、犬や猫などのペットは、
なつくと飼い主に対して
「あなたのことを忘れるなんてありえませんよ」というくらい、
関心をもってくれ、
それによって絆で結ばれます。
それは、弧絶感・孤独を軽減して、それゆえに妄想を生じにくくする。
そういう作用があると思います。



と、かなり長くなりました。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
この「考えの切れ端」が少しでも役立ちますように。

最後に、昔からのお気に入りの引用で締めようと思います。

「話の内容というのはさして大切なものではないんです。
大切なのは、信頼をもって話し、共感を抱いてそれを聞く、そこにあるんですよ」
(『草の竪琴』カポーティ 新潮文庫)

場合によっては、沈黙すらそうである。

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現実世界での小説というポジション

2019-01-24 21:16:00 | 考えの切れ端
今回は、小説っていったいなんなんだろう?
というありふれた疑問について、
僕なりに考えた、そのヒントになるような考えを述べます。

で、いきなりぴょんと飛んで、数学の話になるんですが、
みなさんは虚数って覚えていますか?(まだ習っていない方もいらっしゃるかも)

虚数は、想像上の数で実際の数ではないとされます。
でも、数学で役に立つ概念。
Wikiによれば、
「2乗した値がゼロを超えない実数になる複素数」
となっている。
なんのことかよくわからない人はけっこういそうです。
要は、実際には存在しない数であり、
想像の中だけの数なんだそうです、そのままとらえれば。

そんなわけで、虚数は、発見されてからしばらく、
こんなものは必要ない、使えない、なんて考えられていた。
しかし、「虚数が存在する」と仮定して考えると便利だったり、
虚数を用いることでやっと簡単に理解することができたりするものに気付くようになった。

僕は数学が不勉強のためくわしくはわかりませんが、
ちょっと調べると以上のようなことがわかります。
もっと知りたい方は検索してみてください。

それで、虚数とまるで同様なものが小説世界にもあるなあと思い当たる。
小説世界に、
いわゆるスピリチュアル的な要素や
ファンタジックな要素で物語を構築する種類のものがあるのは、
それらがまったく現実的ではないけれども、
それでしか人が癒されないものがあるからです。
力量のある作家は虚数的にそういった要素を上手に使って物語を編む。
夢の世界で繋がるだとか、テレパシックな要素だとか、
いろいろあります。

さらにいえば、
小説という種類の存在自体が、
現実世界に対して虚数的な存在と言えなくもないかもしれないですね。

小説は想像上のもので実際のものごとではないけれども、
小説を読むことで、現実世界の難しいところを
比較的簡単に理解したり見通せたりする場合はありそうです。
そして、さっきも書いたように、小説でしか癒せない問題もあるでしょう。

現実というか、社会というか、僕らを取り巻く環境や運命って複雑で、
理解を超えている場合がたくさんありますよね。
そういうものに翻弄されても、
小説という「架空のもの」・「虚構のもの」を用いることによって、
腑に落ちるものへと昇華してくれたり、
説明をつけてくれたりします。

だから、僕なんかはこう思いました。
「もっとみんなで小説を読んでいこうよ!」と。
小説なしで生きていくには世の中はフクザツに過ぎませんか。

虚数に思い当たったことで、
そんな考えの切れ端が生まれたのでした。
街に出ることも大事ですが、
まったく虚構に触れないことって、
人生にとっては危なげだしとてもアンバランスなのでは、
ということでした。
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考えの切れ端としての、「憎しみ」との付き合い。

2018-12-08 20:53:42 | 考えの切れ端
利他行動を推奨する言説の帰結が
「そのほうが回りまわって自分の『得』になるのです」という、
やっぱり損得に基づいた考え方だったりするのだけれど、
損得についてはもうしょうがないと思うんですよ。
近視眼的な利己行動は周囲の環境を歪ませるからやめたほうがいいですが、
常に平等・公平として行動するのは無理です。

競争があるかぎり、
損得が行動原理のひとつとして働くことから外れることはないのではないだろうか。
だからといって、損得にがんじがらめになることはないですけどね。

ゆえに、
損得によって憎しみが生まれることがあるとしても、
この社会一般で生きていこうと思っているのならば
(世捨て人にでもなるつもりがないのならば)、
憎しみは捨て去りきれないものだと思う。
でも、付き合い方ではないかな、と。
似た感情に「妬み」がありますが、
ネットの辞書によれば、
<他人を羨ましく思い、その分だけ憎らしいと思う感情>だそう。

僕も憎しみを抱えて生きています。
それも、他人との比較によるものなのかもしれないけれど、
自分をよりつよく見つめてみると、
それよりも理想に向かって進んでいきたいのに
その障壁になっているものやことに対しての原因への憎しみとしての性格が強い。

諦めや我慢が憎しみの感情への緩衝材になりもしますが、
しかし、そこからの変化のためには我慢しないことが必要だったりする。
自分の内に溜めこんでいては何も変わらない。
だからといって憎しみにつき動かされる態で他者へ働きかけることは愚かです。
ある程度憎しみを馴らしつけて働きかけることが大切だと思っています。
馴らしつけることで生まれる、理性的な判断や考えってあるでしょう。

合理化、効率化で、
時間をかけないようにすることが標準的で当り前で美徳だ、
みたいなところって世間にありますが、
憎しみを馴らしつけるにはまとまった時間が必要。
人間って時間的なコストをきちんとかけてこそ、
比較的うまく生きていけるようになるんじゃないかなぁ?

憎しみは猛獣なので、
馴らしつけると言ったって、
完璧に飼い馴らすことはできないでしょう。
だましだまし、なんとか付き合って馴らしつける。
それは、自分も憎しみに慣れていく行為でもあります。
これはあくまで慣れることであり、憎しみに丸めこまれることではないとして。

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「秘すれば花」と「シェア」のもてなし論。

2018-11-04 23:23:50 | 考えの切れ端
「秘すれば花」としておもてなしをするという、
日本的な考え方ってあると思う。
たとえば、お客さんにお出ししたお茶のその葉っぱが
とんでもなく貴重で高品質なものだったとしても、
あえて口にせず、ただお客さんに「どうぞ」と言い、味わってもらうというような。
でも、どんどん情報を開陳して、
秘密など何もないようにするおもてなしがよいとする考え方もある。
後者は若い人が共感しやすいのだと思う、なぜなら「シェア」の考え方だから。

他人に期待しない・信用しない、
という文化が基礎にあるような欧米の世界であれば、
その距離を埋めるべく情報を開陳する
「シェア」的なおもてなしはすごく効果があるでしょう。
シェイクハンド(握手)の習慣だって、
「わたしは何も武器等を持っていませんから」と手の内を見せることで、
相手を安心させるための意味がそもそもあるのだという話を
聞いたことがあります。
つまり、根深い不信が意識の底に横たわっている社会。
そういう社会だから、
アメリカなんかでは信用できないことが前提のために銃社会だったりする。

一方で、
お客が相手に「どんなもてなしをしてくれるかな」と期待し、
店側もお客がこっちに期待してくれているのを
前提としてもてなそうとする日本的な関係性では、
「秘すれば花」なる方法論は有効なのでしょう。
何も言わなくてもお客は店側の行為に探究心をもって解釈にいそしむだろうから、
秘密が無駄にならない。
それどころか、お客は想像をしたり感覚を研ぎ澄ませてもてなしを味わおうとしたりするし、
はたまた、もてなす側もお客のためを思って想像し、考え、労力を注ぎ、
それをお客が受け入れてくれたことに喜ぶ。
これすなわち、豊かさ、でしょ?

(余談ですが、
このあたりの話って、
メールやLINEなんかが普及して、
簡単にメッセージを送れ合う世界になったけれど、
時間のかかる「手紙」という手段を使っていた時代のほうが趣がある、
その「手紙」というツールそのものに豊かさを感じる、
という話とちょっと似ているのではないでしょうか。)

そんなわけで、日本的な「秘すれば花」と
欧米的な「シェア」と、
それぞれのおもてなしの方法論の違いは、
その社会内での「信用の構造」の違いによるのでしょう。
現代の日本はたぶんに欧米的な「シェア」がよいとする気持ちが強い人たちは多いと思う。
それでも、日本的な「秘すれば花」のよさにはすぐに気付ける心性を持ち合わせているだろうと
僕は考えています。
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生きるための手段として----そして政治家論。

2018-10-03 18:15:48 | 考えの切れ端
今読んでいる本に出てきたのですが、
「働くために生きる」のか
「生きるために働く」のか、の二者択一ですよね、生き方の大方の方向性って。
会社って利益追求を最優先して「働くために生きよ」とする性格が強くて、
その原理を妄信してあれこれと決まっていく。
それなのにそう押し進めていく幹部なんかが
「いや、生きるために働く、でしょ」と、のたまうことがあったりする。
つまり、突き詰めていない。
自分が押し進めていることと人生のあり方が繋がるものだ、
という意識がなかったりすることがあります。

もちろん僕は「生きるために働く」派ですから、
生産性や効率第一、もっというと過度に感じられるくらいの
便利さ至上主義なんかにも反対ですかね。
いろいろと人間らしさが損なわれる要素がいまあげたもののなかにはあるし、
ささやかだけれど質感のある幸福感もそこからは得られないだろうからです。

そして、
僕は政治そして政治家に期待しないタイプです。
たぶん、ずいぶん前に失望したんだと思う。
政治よりも、個人が各々でいろいろ本を読んだり考えたりして
進歩していくほうに期待しますけれども、
それでもそんなでもないなあというか。
となると、何に対しても強く期待していないのか、となりますが。

「働くために生きる」という窮屈で倒錯したような人生観に似て、
「政治のために生きる」もありますよね。
それも倒錯しているんだけれど、
はたから見て「えらい!」と思われるので、
そのままにされている人生観ですよね。
自己犠牲を美化して、
さらにその「えらい!」とされる価値観の排他性でもって権力を得るという、ね。

たとえば「マリア・カラスは自らすすんでオペラのいけにえになった」
という評をテレビで聞いたことがあるけれど、
自己犠牲を美化するなら、
いけにえになってしまったんだと思われるくらい
徹底的にやらないとやっぱりそこに利己性や権力欲が匂ってしまう。

「彼・彼女は政治のいけにえになったような人だ」
と言われるような政治家っていたかな?
醜さや汚さを背負ってでもうまく舵取りした人っていたかな?
まあ、わかりませんけど。
政治家っていう職種自体が実は聖性のないものなんだけど、
民衆ウケのために虚偽の聖性をまとってみせるんですよね。

クリーンさや聖性みたいなものが感じられないと
政治家として認めない、
票をやらない、
支持しない、
と主権のある民衆は考えがちだけれど、
実際に政治をする政治家はそんなんじゃやってらんないだろうし、
やってられるくらいの政治家じゃ器が小さいし、
実際面とイメージではギャップが大きいのだと思う。

だから公的なイメージ、つまり外面を気にしつつ、
見えないところでは善悪超えたところで柔軟にやっていくのが政治家ではないのか。
それで長くやってるとそこらへんが混濁してうまく演じられず、
詐欺師まがいの発言をしたりもする。
また偏った本音発言が出るのは良心が耐えられない現れじゃないのかな。

ということで政治家は大変な職業であるのは間違いないのですが、
引き換えに手に入れる「権力」の蜜の甘さがその大変さを和らげるのかもしれない。

補足すると、
もしも「あの人は政治のいけにえになった」と言われるような人がでてきた、
あるいはそう評する人が出てきたとして、
その「いけにえ」という言葉に陶酔するようだとまったくダメです。
それは「いけにえ」という言葉を受けとめていない。
「いけにえ」には可哀想さ、悲劇さが感じられないと。
そういう種類の自己犠牲の美化(あるいは昇華)なんだと思っています。
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『サイレントマジョリティー』の受けとめ方。

2018-08-08 14:19:32 | 考えの切れ端
欅坂46のデビュー曲で大ヒット曲の
『サイレントマジョリティー』のサビに、

「君は君らしく生きていく自由があるんだ 大人たちに支配されるな」

とありましたけれど、
たとえば歌っている本人たちも含めて若い子たちがこの歌によって、
「じゃあ私たちにはなんの制約もない自由があるんだ」
と勘違いを招いたりするのかもしれない。
でもね、
自由主義にも法律があるように、自由にもルールがある。

「君らしく生きていい、そういう自由がある」
という言葉には、
転落も自堕落も汚さに染まることも誰も責任はとらない、君の責任になるのだ、
という厳しさが裏側にあることに気付けなくてはいけない。
そして、大人たちにコントロールされるのがいやなら、
自分で自分をコントロールしなきゃだ。

容姿に特に優れているかどうか、
歌やダンスのうまい下手、
キャラがおもしろいかどうか、
いろいろもっとあるけれど、
人気が出る出ないだとか好かれる好かれないだとかでは
不公平なのってどうしてもしょうがないわけだから、
そこを認めないとアイドルってやってられないんじゃないだろうか。

と、まあいろいろ、
ツイッターのTLを眺めていて、
あれれれというのがあったので考えてみたのでした。
あしからず。


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