Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

良貨であれ!

2017-04-17 15:54:44 | 考えの切れ端
悪貨は良貨を駆逐する。
検索すると、
「悪がはびこると善が滅びるというたとえにも使われる言葉」
と出てきます。

だから、しょうがないけど負けたくないから悪貨になってしまおうかなあ、
と実際にそうなるか否かを若い頃って考えてしまうことがある。
ひとによっては、悪貨になるのが「現実的」に思えるのですが、
それってたいてい、理想を持っていないし場当たり的。
他者を幸せにしようという気持ちを最初から放棄してますし。

正しさ自体、疑ってかからないと危ないものだと言われるし、
ほんとうにそうなんだと思うのだけれど、
大多数の正しさと比較的少ない人にしか適用されない正しさがあり、
後者は悪と呼ばれることが多い。
でも、大多数の正しさ同士でも衝突するし、
突き詰めると人類の正しさなんて所詮すべて悪だ、
みたいなことにもなり得ると思うんです。

正しさを妄信しない態度でもって、良貨になれればいいし、
実際それを良貨と呼ぶのでしょう。
でも、良貨になるんだっていう道は悪貨になる道より
ずうっと険しいわけですな。
もう大変なんだから。
たとえば、蔑視だとか優越だとか、
生きづらさをつくる心理っていろいろあるけれど、
それらは本人が自覚できない潜在的な意識から
生まれているっていうんですよね。
そのようなことを知ろうとしたり、
アタマをバージョンアップしていく行為を放棄しない態度は、
良貨になるには必要なのだと思います。
悪貨になるには我慢をよせばいいみたいなところがある。
でも、悪貨になれば心が痛んだりはするんだよね。

親鸞の悪人正機を解説する話のなかで、
悪人は犯した罪を悔いて毎日祈るようになる、というのがあったと思う。
そのへんの苦しみは計り知れないでしょう。
そして、そこからわかるのは、
ひとって自分が悪だという意識に耐えられないんだということです。
どんなことにも例外はあるとしてもね。
ゆえに良貨を目指した方がよい。

まあ、現実的に、ぼくは100%良貨的人間です、なんてならずに、
良貨であり悪貨であり、という要素がまぜこぜになりますよね。
そういうものだと思っています。
でも、自分に悪貨の要素があっても、
「悪貨でいいんだ」と開き直るべきではないんじゃないかなあ。
良貨を目指すのは苦しいけれど、
苦しみを知ることで、逆に幸せを知ることができるものなんだ、と
ぼくはそう信じているし、ちょっとした実感すらもっています。

踏みだす勇気はいるけれど、
良貨をめざすひとが多いといいなあ。
そこらへんの、気概、ってあるじゃないですか。
そんな、気概もすばらしい。
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