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Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

在宅介護の現状への意見

2021-07-06 14:14:53 | 考えの切れ端
母を、父とともに在宅介護している者としてひとこと意見を書こうと思います。


介護は、要支援・要介護などを受ける人たちに主眼をおくのはもっともです。だけれど、実は介護をするほうの負担がとても大きい。だって、ぶっちゃければ、僕らみんな人間的にちゃんとしてない人たちでしょう? そんな人たちが人間的に成熟しないままいきなり介護の現場に放りこまれるんです。

DV(ドメスティック・バイオレンス)だってたぶん、在宅介護の現場では少なくないと思います。だから介護者がそこまで追い込まれないように、介護者のほうも支援・ケアする仕組みは大切なのでちゃんと作ってほしいのです。認知症の人を介護しているんだったら、ユマニチュードを教えてもらえる仕組みがあれば違います。ユマニチュードは認知症の人たちとのよりよい関係性を考えて、認知症の人をちゃんと一人の人間として尊重する姿勢を前提とします。そういった前提から生まれた「認知症の人との接し方」などの技術があります。介護者がそれらを学んで実践することは、同時に、普通の人とのあいだのコミュニケーションの仕方の学びや実践にも応用が利くでしょう。コミュニケーションでいえば、相手も自分も活かすというような「アサーション」という技術もそうですから、それも介護者は知ったり学んだりできたらいい。

また、介護者のこころがぴかぴかに健全だという前提、あるいは介護者のこころの状態を鑑みられていない在宅介護はおかしい。介護者が闇を抱えていたり、医者にかかっていないだけで病気だということもある。そういう状態で介護をしてもそれこそ暴力に繋がったりするのでケアが必要なのです。認知行動療法やカウンセリングが必要になる。だから、介護者は心理療法のカウンセリングを保険適用でだとか格安で受けられるようになるだとか、同様に認知行動療法も心理的バリアの低い状態で、つまり訪問診療や訪問介護のように介護者が自宅で受けられたりするとうまくいきやすいと思うのです。介護自体がポジティブにできるようになりますから。

介護者に対するケアが十分であれば介護自体がうまくいきだすんです。国の政策によって施設や病院でのケアから在宅ケアへと方向転換されてきているのだから、そうであるならば介護者を支援・ケアするのは理にかなっていると思うのです。

また、精神医療が必要な人が要介護認定されている場合、オープンダイアローグが役立つと思います。この技術を学んでいる専門家の介入があってもいい。オープンダイアローグも、ユマニチュードやアサーションと並んで、ふつうのコミュニケーションに対する考え方を養う部分がある技術。要するに、介護者の人間生育にも応用が利く。介護をすることはある種の学びを得ることや修養をすることにも繋がるものです。うまく支援やケアを受けながら介護をすれば、介護者は人間的にも深くなれると思う。現状の仕組みで在宅介護をしていれば、消耗ばかりの人生になりますから、そこを転換する仕組みが欲しいのですよ。

介護に正解があるわけじゃない。わけがわからないなかで自己流かつ孤立無援で奮闘しても、たいていは心がすさんでいってしまう。そこに政治は着目して欲しい。

世界の先端を行く、超高齢社会の国なんだから、なおさらなんじゃないかなあ。どうでしょうか?
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マウント考察→分解→破壊

2021-05-02 11:31:40 | 考えの切れ端
録画していたNHKの「マウンティング会話講座」がおもしろかった。「うわ!」とか「なにやってんの!」とか、見てるだけでも離脱したくなる、捨ておきたくなるドラマ仕立てのマウンティング例が秀逸といった感じでした。以下はそこから触発されてのマウンティング考察です。

僕の場合だったら、知り合った人が本を読む人か知りたくなって探りたくなるんだけど、そうやって、本好きなんだなって知った人に自分の小説の意見が欲しくて「読んでもらいたいんですけど」と原稿を渡せばマウントととられるんでしょうね。というかか、本が好きなんだなぁって知った相手に「実は僕、小説書いてます」と言っただけでもマウントだととられるんですよ(めんどくさ)。

マウンティングって、世の中が勝ちか負けかしかないとの前提からきますよね。これって強迫観念ぽいです。なんでもマウントと解釈するのはやめてくれーと思う。勝ち負けを競いたいならもっとでっかいことでやったらどうかと思ったりもします。それこそ、徒競走からはじまって、商品開発競争でもいいし、F1レースでもいいし。だから、小さなことからコツコツとマウンティングやらんでください、と苦笑いしちゃいます。

「うちの主人なんかね」「うちの子ときたら」の愚痴に忍ばせたマウントって、僕が子どもの頃だったらマンガやドラマでの滑稽なシーンの常套技術みたいな感じだったんですけど、似たようなのをみんなやるようになっちゃいました。そういう場面の後、主人公と仲間は「なにが言いたいんだろ、あのおばさん」とか「嫌味ったらしかったね」と初めはひそひそ、それからげらげらと笑いあうってなります。そういった主人公たちの見ていた世界観、住んでいた世界はどこにいったんだろうか。いや、彼らは「どんな世界に住んでいたか」ですよ。

「どんな世界に住んでいたか」。たいてい、この手のシーンが出てくる作品の主人公たちは、ちょっと貧しかったり、勉強が不得意だったり、親が一人だったりなんていうふうに世間一般からちょっとマイナスに見える要素を持っている人だったりもした。そういう人はマウントしなかったんです。物質的に恵まれて、学力も平均的にあがって、親が一人なのも珍しくなくなって(?)、マウントが一般化しちゃったのではないか。時代がすすむにつれて獲得したものとトレードオフで、「マウントしないこと」を失っちゃったのかもしれないですね。まあいまや、したくなくても巻き込まれますが。

あと、年収が多いとか海外へ留学したとか、高いブランドの紙袋もってきたとかありますが、頑張った分がストレートに結果となる世の中だったら、そんなのは今のようなマウントにはならないです。当り前でってことになりますから、プラスもマイナスもとても単純。でも、世の中は不透明で不公平だからマウントをしたりそう取られたりってなるところはあるんじゃないですか。これはマウントとしてやってる、と自覚してマウントばかりする人は、精神的にとてもマッチョな人かでかい穴をかかえている人か、そういう種類の人だと思う(思うだけだけど)。

自分の頑張りの結果やラッキーだったことをただ知って欲しくて発言してもそれは相手を組み伏せる「マウントの文脈」に回収されてしまいます。もともとこっそり忍ばせているという意味の「ステルスマウント」だって、それとなく自分のことを知って欲しい気持ちから生まれているのではないか。そういった自己開示的な言動や行為も、「マウントの文脈」に回収されがちです。

ご承知の上だと思いながら確認しますが、マウントを取られるということは相手にマウンティング、つまり組み伏せられたことを意味し、要するに負けたという意味になります。それが度重なると相手に優位性がでてくるので、相手の意向が通されやすくなる。だからマウントされることに神経質になる(そこには他律性を嫌う性分が顔を見せている)。

同調圧力はマウントを許さないんです。もっと細かく考えたら、同調圧力はマウントの文脈に回収できるものを許さない。出る杭は打ちましょう、という論理です。そして、マウントの現場にある同調圧力は、みんな公平で平準で、っていう価値観による同調圧力です。そんなのは実際無理であって、いわば理想と現実のあいだに真面目な面持ちで板ばさみになっているのが先述の「マウンティング講座」での再現ドラマに代表されるものなんです。

それとですね、今言ったことを別角度で見てみると次のような発見があるんです。同調圧力がさまざまな出る杭をマウントの文脈に回収しているのかもしれない、というのがそれです。コロナ下の「自粛警察」のように、同調圧力が浸透した価値観が、どんなものであってもマウントととれるんだったらとるというような「マウント警察」という働きがありそうです。

こういうのは、もう一歩、視界を俯瞰させることでその枠組みがみえてくると変わってくるんですが、マウントや同調圧力は、まるで空気のようにふつうに存在している大前提みたいにとらえられているきらいがあり、疑いが挟まることって少ないのでしょう。

自分の優位性を捨てられるならば、マウントのないコミュニケーションってできますよね。そういうのは楽しいです。素直に自己開示できて、素直に他人を認めることができて、他人を褒めることができて、自分が支配的にふるまわないし支配的にふるまわれるもしない。同調圧力などの前提が変わればできるんですけども。そういう僕は、支配的か被支配的かの心理テストで、どちらでもない傾向の高い一匹オオカミ型とでたことがあります。どちらかというとマウント人間ではない。だから、こう思うんですよ、支配や被支配にみんながウンザリしてくれたとしたら、僕は一匹オオカミじゃなくてよくなるな、と。なんていうか、……他力本願!! というところで、終わっときます。
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自律と他律と資本論。

2021-03-19 13:03:02 | 考えの切れ端
先日、録画していた1月のEテレ100分de名著・資本論のシリーズを見ていました。

資本論は言わずと知れたカール・マルクスの名著で、経済学で扱われますし、社会主義や共産主義へひとびとを動かしていった力があった本です。だからかえって「社会主義か~」「共産主義か~」と斜に構えてしまってこの録画を再生したのですが、資本論への距離間や読み解いていくための立ち位置が上手で、おもしろく視聴しました。

そんななか、ハッとする考え方が出てきました。資本主義は、仕事を「企画や計画をたてる側」と「実際に身体を動かして製作したりなど遂行する仕事の側」とのふたつに分けたとあった。昔だったら、たとえば家を建てるにしても、設計から大工作業まで同じ人たちが全般を通して働いたことが多かったはずです。まあ、家を建てる場合はちょっとおおがかりなので、とりあえず、仕事を最初から最後までひととおり通してやりぬくのが、昔ながらのやり方だったと踏まえていてください。

資本主義の勢いが強くなっていくにつれて、仕事上の計画に立つ側と実行に立つ側の分割がよりはっきりしていきます。この場合、実行側は、計画側に言われたとおりに仕事をこなすだけのような役割を担わされる。僕はこの構図を他律性の視点でながめました。僕は何度か書いてきましたが、大雑把にいえば、他律性にさらされたひとは幸福感を感じにくく自律性で動くほうが幸福感を感じやすい、というのがそれでした。何かの翻訳本、それも別々の二冊の本に載っていた同じ実験結果の話もこの説を後押しします。それは、アメリカのコントロール心理学という分野で老人ホームを実験観察したときの話。自分で裁量をもたせられて自律的に生活できたグループと、他者からの命令や指図つまり他律性のなかで生活したグループとを比較すると、前者のほうが寿命が長くなった、あるいは後者の寿命が短くなった、という結果が得られたのだそう。僕の、「他律性は幸福感を感じにくくする」という考えと近接しているように思いました。幸福感はきっと長生きにつながると思いますから。幸福感の有無は、人体によくはないストレスの多寡が関係していそうに思えます。

さて。
マルクスは、この分割された仕事を再統合することが大切なのではないか、と考えていたそうです。経済的にも、精神的にも、そのほうがより良くなることをマルクスはマルクスなりに考えていました。100分de名著でわかりやすく解説されていましたが、ちょっと今回はそのあたりの説明はしません。
だんだん見えてきたと思います。そうなんですよね、資本主義によって分離された仕事を「統合」するということは、僕が考える「自律」とかなり似たようなものなのでした。僕のイメージではそうだったんです。ひととおりの仕事をすべて自分でやってみることが幸せにつながることは、すなわち「自律性でやる仕事」だと言えるのではないでしょうか。反対に、他律性に視点を持っていくとするとこう考えられます、「資本主義って仕事に他律性を増してしまったんだ」と。他律性が幸福感を得にくくする論理がもしも実証されるなら(もしくは、されていたとするなら)、資本主義による分業のありかたは幸福感を得にくくさせるということが疑いようのない事実だとはっきりと認められることになります。

かといって、資本主義をきっぱりやめられるかというとそうではないし、資本主義のよいところや楽なところはたくさんあるでしょう。自律性には、「関係性の自律」という考え方もあります。これは他律と自律のあいだですりあわせをするような在り方です。同じように、資本主義の分業システムも人間の幸福視点から見直していいのではないか。まずは分業のすり合わせだとか、任せられる仕事はあえて分業しないだとか、やっていけたら楽しくなるのですけども。それでいて生産性が落ちなければ、完璧に移行できますよね。

という考えの切れ端でした。おそまつさまです。
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関係性の自律。

2021-02-19 13:52:28 | 考えの切れ端
ユマニチュードの本にでてきた言葉である「関係性の自律」についてずっと考えていてですね、つまりどういうことかわからなかったんです。それで今回、まずこの場合の「関係性」ってなんだろうというところに注目しました。たぶんこれは、「少しずつお互いがお互いに合わせること」、もうちょっとニュアンスを変えれば「少しずつお互いがお互いに合わせあうこと」なんです。

すると「関係性の自律」の意味もすっと解けてくる。お互いがお互いを尊重し、合わせる(合わせあう)範囲内で自律していくことだろう、と。「関係性の自律」と言う言葉に込められたもの、つまりこの言葉の大切な部分は、自分で何も考えずに他者から言われた通りのことをやらないこと、無批判・無批評といった体で行動しないこと、そして押しつけないことなのではないかな。自律する部分は保っていこう、というような。これには、やんわりと他律がまじっていながら、自律性の爽快さは保っていられる良さがある。

ちょっと話は外れますけれど、このあいだ芥川賞を受賞した『推し、燃ゆ』を書かれた宇佐見りんさんのWEBでのインタビューを読んだのですが、世の中では自律性を叫ぶ声が強いですが他律性についてだって救いがあるのでは(個人的意訳)、みたいな内容だったんです。そのうち『推し、燃ゆ』を読むときには、「関係性の自律」をそこに照らし合わせられるかどうか準備しつつ読んでみるのもいいかもしれない。実はもう、『推し、燃ゆ』は購入済みです。

毎日考えていたわけではないけれど、「関係性の自律」が腹に落ちるまで1年かかっているんですよ。亀である。まあ、それでもこうして自分なりに消化できてよかったですけど。

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「モラハラ」と「マイルドヤンキー」の関係。

2021-01-25 11:05:15 | 考えの切れ端
モラルハラスメントって、家庭、学校、会社など社会のいたるところに根深く巣食っていて習慣みたいになっているものだと思うんですよ。まあ、大なり小なりはあるでしょう。で、モラハラへの防御や回避(それらは加害者に回るという戦術も含めてですが)としてマイルドヤンキーが登場したのでは。

マイルドヤンキーと言われるあり方は、ヤンキーのようにケンカばかりしたり、逸脱した髪形にしたり、授業をさぼったり、反社会的な行動をよくとったり、というようなハードなものではないですよね。ヤンキーのパッケージを「マイルド」に取り込んだあり方です。言葉遣いや態度にヤンキーのあり方を取りいれて生きている人たちが、いわばマイルドヤンキー。

そんなマイルドヤンキーの精神性をまとうことでモラハラの直撃から免れることができやすくなる。正面からのコミュニケーションではなくて、ちょっとねじけた角度からのコミュニケーションになるからです。多くの人は意識せずマイルドヤンキー化するので、そういったことにも気づいていません。

つまり、昨今増えた(というか、かなり前から増えましたが)、とくに地方では多くの人が成長過程でそうなっていく(自分の周囲も見てもそうだ)マイルドヤンキーは、モラハラを同化している社会の土壌が生んだものかもしれない。このあたりも各個意識していくことで、モラハラを異化できるものだと思います。異化できると対策を打てます。そうはいっても、異化するにしても排除的にはしないほうがいいですけども。

ぐっと考えてみるに、過去から連綿と続くモラハラ体質が代々受け継がれてきてしまったのではないかな。被害を受けた子が、大人になって加害にまわる。その繰り返しです。被害による精神的な傷がそうさせもするわけです。

また、親からの愛情がここに関係してきます。家族からモラハラばかりで愛情を感じられずに育ったならば(特に親からの愛情が精神形成に大事だといわれる)、相手をけなして相対的に自分を高めないと気が済まなくなる。なぜなら、そのままの自分だと自信を持つことができないから。「自分自身」を保てなくなります。

できるだけ、正面から人とコミュニケーションを取ることができること。そういった健康的な基盤がまずあること。それが社会的にも有用だし、豊かさを創っていくことになるのではないでしょうか。

ちょっと立ち止まってみる。振り返ってみる。そういうことが好い気付きや好い変化へのきっかけを見つけることはあるんですよね。
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苦労が増幅する構図と、ちいさな希望。

2020-11-14 22:27:30 | 考えの切れ端
今の世の中にかぎらず、ずっと世界はそう流れてきたのだろうなあという気がするのですが、苦労をしている人が実感していてもそれほど苦労をしていない人にはわかっていないことがあるので、それを今回は書き綴っていきます。

精一杯やっていて助けてほしいくらいなのに、誰かに助けてもらうための最初のアクションとして、その状況や思考や行動の意味を言語化して伝えなきゃいけない場面にぶつかります。大変な目にあっているのに、さらに言語化という大きな負荷にさらされてしまうことでもあります。大変な人がさらに大変な目に合う図式のひとつがこれなんです。

困っている人がうながされる言語化の対象となるモノゴトは心理的にとても深かったりして、それこそ心理学上や社会学上などでの新たな知見になるようなものだったりもするほどです。それを苦しい状況下でさらにうんうん苦しんで言語化させる行為をその人に背負わすことについては、十分に助ける側がわかっておくべきことではないでしょうか。勉強のできる優秀なエリートに架す行為ではなく、ふつうの人に架す重い負担だということをわかっておくこと。

だから公助や共助の側は、うまく察してあげたり言語化を助けてあげたりできると、助けられる側はとても助かる。しかしながら、当事者が自分の言葉で表現することはその当事者の精神的な意味として実に大切だし、他者が手を出すことでほんとうのところからちょっとズレてしまったりしやすくもあるから、それらを鑑みると「上手に話を聞く姿勢」こそが助ける側には求められるのです。

それと、悲しい話ですが、そういう苦労をしてやっと言語化しても、伝える相手によっては徒労に終わってしまいます。残念ながらそういう場合の方がずっと多い。知人や友人、親類だとかでもそうだし、包括支援なんかの役所の人であっても「役に立てない」と暗に言われるなどして徒労に終わる場合がある。とくに後者の場合、なんのためにあなたはいるのか、と助けてほしい側の人は失望してしまうでしょう。

難点はまだあります。部分的にだとしてもその問題を助けてもらえることになった状態でのことです。たとえば、その問題が介護だったとします。被介護者のケアを優先的に取り組んでいろいろ考えてもらえて助けてもらえるようになる。しかし、その窮状を訴えた介護者の人生についてはあまり理解してもらえなかったりするんです。被介護者が死んだら経済的な理由などから介護者の生活も終わるけれどそれは知りません、という前提での助けだったりします。

ここでもまた、苦労する者がさらに計算やしたたかさを身につけていかなきゃならないという苦労をさらに背負いこむことになるんです。この世界はそういうふうにできている。

僕は、そういった世界がわずかでも、様々な状況にあるみんなにとってもっと生きやすくて住みやすい世界になればいいのにと思い、「そうなるためには?」を探りもするのですが、「あなたはどういう世界観を持って世界を眺めているのか?」、そして「あなたはどういう人間観を持って他者を眺めているのか?」を意識してみることや吟味してみることがひとつの鍵になるのではないかなとぼんやり思ったりします。世界や人間に対して、解像度の高いビジョンをみんなに提示できて、そこからみんながそれぞれ考えてみることで何かが変わるのではないかなという気がするのです。解像度の高いビジョンを見ることは、「よりはっきりと、知ること」になります。そして、みんながそんなビジョンを見るためには、みんなが「知ろうとすること」がまず条件になります。ですから、強い好奇心を持てるようになるのと同時に、よりよい方向へ進むベクトルのような向上心、アイデアを出し実現していく創造力とそのための粘り強さなどの非認知スキルと呼ばれるものが、よりより世界のためには必要な要素になっていくんです。それでもって、それらは教育で育むことが可能のようです。ちいさな希望が芽生えるのは、きっとそういった基盤にあるでしょう。ちいさな希望は人間自身の内奥にしっかり宿っていて、うまく育つことができる機会を待っているのだと思います。
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親友の前提。(「信用」と「信頼」)

2020-08-15 19:40:49 | 考えの切れ端
たぶん、異性同士よりも、
「同性での親友」や
「お互い大事に思いあう同性のふたり」
という間柄のほうがあてはまるのだろうなと思うのだけれど、
過度に気を使わず、本音で言いたいことをいえること、
つまりは「羨ましい」だとか
「そういうとこが憎たらしい」だとか、
逆に「最近かっこよくなったなぁ」
「近頃きれいになったねぇ」だとかを含めて言いあえる
「その前提」を見つめ直してみましょう。

いろいろ言いあえる前提はなんだろう____「親友だから。」
なぜ親友なんだろうか____「すごく仲が良いから。」
どうして仲が良いの? 気が合うだけじゃないでしょ?____「二人だけの話ができるから。」
それそれ! それですね。
前提として「他言無用」を共有しているからではないだろうか。

僕だけじゃないと思うのだけど、
「言ってごらんよ?」とそれなりに仲の良い人に言われてしゃべったら、
共通の友だちや知り合いに筒抜けだったりしたことがけっこうある。
「おい、言うなよ。」と文句を言っても、
「言ったらだめだったかい?」「○○ならいいじゃん。」
なんて程度のスタンスなのがわかったり。

それでもって、
そのしゃべるつもりのなかった誰誰が、
まあよくしゃべってしまうという流れになりがち。
だから、二人だけで話をするときはお互い、
ふたりだけでの話なんだ、という認識が必要なんです。
こんなことは小学生でもよくわかっている子はわかっている。
人間関係の信用の話なのでした。

また、ちょっと勇気をだして大事な話をしても、
「おれにはわかんない。」
で返してくるその浅薄な思考能力と洞察力の低さっていうものもあって、
それはそれで「しょうがないかな」っていう部分は大いにあるんですけども、
「わかんないなー。」とふんぞり返られると、
それまである程度の信用をその人に持っていても、それからは信頼できなくなる。

こういうことを考えるようになると、
意識的に付き合い方を考えだしますよね。
距離感だとか。

そうは言いながら、
僕自身の若い頃は「前提」に厳密じゃなくてたまにポカがありました。
そのたびに「いけね……」と思いなおして少しずつ、といったタイプです。

そうやってわかってくるのは、
失敗したときに「すまない」という気持ちになれるか、
それとも「言っちゃったしまあいいじゃない」と開き直って反省しないかでその後、
歳を重ねてからまったくもって変わってくるという点です。
そのときの小さな分かれ道が、時間と共に大きなへだたりを持たせるんですよね。

というわけで、今日は私的なところでの「信用」と「信頼」について考えました。
これがきっちり成立しているふたりの関係の描写を、
小説なりテレビドラマや映画なりで見ることがあると、
胸のすくようないい気持ちになります。
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悪口キャラの不思議。

2020-06-23 22:57:50 | 考えの切れ端
「なんでそんなに悪口を言うのよ?」っていいたくなる人っている。
それなりに付き合いが深くとも、
毎度会うたびに四方八方に悪口を飛ばしているのに接すると、
つきあいでうなずいたり笑ってやったりするのにもそのうち疲れてきて顔がひきつってくる。

で、自分では「毒舌キャラなのだ」と
そのポジションに居心地の良さを感じているのですよ、悪口の多い人。

悪口を言うことで、
自分が他者から悪く言われたりすることの予防線を張っているんじゃないかと思えるときがある。
「自分が悪口を言ったから、自分も何か言われました」と。
悪口は、自分の肉や骨を切らせないためのフェイクなのではないか。

自分がおかしいことをしたときに悪口を言われるのを回避するため、
または、自分はちょっと奇矯なところがあるのだけれどそこに目をつけさせないため、
悪口キャラ(毒舌キャラ)でいることで、
吐きだす言葉自体や、悪口という攻撃的ベクトルに他者の目を向けさせて
自分本体に手を触れられないようにする。

自分が攻撃されるときに、
「悪口を言っているからその反撃としてなのだ」
という理由が欲しいのだろうと思えるときがあります。
「けっして自分が変なんじゃないし、
自然なときの自分はどこもはみだしていない。
そんな自分が他者から何かを言われるのは自分が悪口を言うからだ」という予防線。
自信のない毒舌キャラ。

裏を返せば、
「自分は変だし、自然なときの自分はどこかにはみだしている。
だから、いつ誰かからいじられたり悪く言われたりするかわからない。
だから、カモフラージュとして、そしてある種のフェイント的な役割を期待して、
悪口を連発するんだ。それも先手で」
ということになる。

……ということなんですが、
すべての悪口キャラに当てはまるかどうかは……、
おそらく最大公約数的なものではありませんが、
まるでこういうタイプの人がいないわけでもないでしょう。

また、たとえば、
「先に言った方が勝ち!」
っていう場面ってあって、
これはこれでけっこうありふれているし、
マウントを取りにくる人は使用頻度の高い戦法だと思う。
今回考えてみたところの「悪口」の使い方も、
「先に言った方が勝ち!」なんですよね。
少なくとも、当人にはそう思えて、先手を打てれば気持ちは安泰です。

これって、ぜんぜん、良いことじゃないのだけれど、
どうしてこういうことになるかといえば、
負けたくないからです。
負けたらどうなるかが怖いからです。
負けたらもうずっと敗者のレッテルを貼られて、
敗北者の階層に落とされて這い出られないと信じているからです。
そして、そう思わせるだけの社会でもあるからじゃないですか。

こういうふうに考えてみると、
悪口ってくだらないな、という感覚がいちだんと強くなりました。

風刺や批判とかとはまた別なんですが、
風刺の体でいて悪口のものもありますよね。
じゃれあいだとか、ほんとうに頭に来てだとかで
悪く言ったりすることは僕にもあります。
でも無益な悪口はないほうがいいなあ。

あなたは、どうでしょうか?
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それは本当に「矛盾」?

2020-01-25 23:22:39 | 考えの切れ端
最近おもうんです。

「筋が通っている!」とか「矛盾してないね!」とかって、
まあ、その度合いによりけりなんですけども、
表面上、そうやって上手に合一したがために切り離しているものがあって、
その切り離し方が多くの場合、性急ではないかと。
一見、矛盾するものでも、その行間を考えると、
その矛盾のまま飲みこんだほうがベターなんじゃないかな、だとかないですか。

その矛盾の行間を見てみると、
どうやら完全に相反していない矛盾だったと感じるんだけど、
それを今すぐ言葉で表現して説明できないし、
かといってうまい言葉をみつけるには30年かかってしまいそう、
みたいなこともあると思うんですよ。経験上そうです。
で、「直観が大事」っていう主張であり言説でありが世の中にはありますが、
それってこういう場合なのではないでしょうか。

「なんでも言葉で説明してみろ、説明できないことなんか認めないよ」という態度は、
会社なんかではふつうだけれど、
それは会社だからそういう守りの姿勢でいなければならないというのはわかるような、というか。
でも、そういう牛歩的あゆみだと飛びこせないものがあるんですよね、という話なんです。

「言葉で表現できる論理が、基本であり絶対」では、
木を見て森を見ず、みたいになってることがあるということです。
それをやるとスピードは遅くなりますが、
行間があることに気づくのと、行間をじいっと眺めてみることは、
「ほんとう」をわかるために大切ではないでしょうかねえ。
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「正常」と「障害」とを考えて見えてくるもの。

2020-01-18 22:43:26 | 考えの切れ端
「正常」っていったいなんなんだ?
って考えていくと、答えの出ないような考え事になりませんか。
正常なんだからちゃんとしなさい、とか、
障害があるからやらせられない、とか、
そういういちいちがわからなくなる。
また、障害の傾向があってそれが周囲を苦しめていることだってある。

障害の傾向があることを自覚させて、
他者のいうことをきかせるだとか自己規制してもらうだとか、
簡単なところではそういう方法が採られると思うのだけれど、
それはやっぱり他者側の都合を優先していて
「迷惑をかけるな」と壁(遠距離)をつくるやり方じゃないかなあ。

だけど、社会としてはそうしないとうまく回らないところがある。
そうしないと社会経済が滞るとか、
個人レベルでは障害傾向のある人もその周囲にいる近い人も労働に差し支えるとか、
どっちを犠牲にするといいか、みたいな選択にぶつかる。
人間が社会的な生き物でありその縛りから逃れられない以上はそうだ。

で、多くの場合、
障害傾向のある人よりも正常傾向にある人を選ぶ方が
社会としては選択肢(可能性)が広がるように見えるから、
障害傾向のある人のほうに規制を強いるようになる。
障害傾向があってものびのびと生きていてほしいけれど、
うまく折り合いをつけるいいポジションってなかなか見つけられない気がする。

ただ、このような思考は、
社会というものはある意味でもう決まりきった前提なのだ、
という固定観念といっていいものに支えられているんですよね。
たとえば日本だと、資本主義の社会だから、
生産性が大事だし効率が大事だし合理的でなければいけない、
と信じ込まされているところがあります。

いやいや、資本主義じゃなくても社会主義や共産主義でもいいんですが、
とにかく社会というものはもう国際競争(国家間の争いも含む)にさらされているから、
国力を強化したり保持したりしていかなくてはならないわけで、
それを最終目的として末端までお金を稼ぎなさいと強いる性格がつよいと思います。

お金持ちっていいものだ、という価値観が浸透すると、
みんながんばってお金を稼ぎだす。
そうやってお金が潤うようになっていくと国力も充実していくでしょうから、
お金を稼ぐことが奨励されるっていうのはあると思います。

話を少し戻して今の話と合わせてみると、
国が他国と張りあうためにはお金が必要だから、
侵略されたり不平等条約を結ばされたりしないために、
民衆にはたっぷり働いてもらって、
経済は大事すぎるくらい大事に思ってもらおうっていう意図があるんじゃないか。
そういう、お金の価値が高い状態が「正常傾向の人」を好む。

障害傾向のある人は正常傾向にある人よりお金を生みにくい、とみなされるや、
お金第一を前提としている社会観が、
障害傾向のある人の生きにくさを助長していくんです。
命、Life、よりも、経済が大事っていうのが
今の動かせざる社会観になっているからってことになります。

だけれど、国家間の緊張関係や争いうんぬんがあれども、
その「経済第一を前提とした動かせざる社会観」というものは、
実は刷り込みであって真理ではないと思うんです。
お金よりもLifeのほうが大事だとして、
コストをかけてでも障害傾向のある人にとっても
生きやすい世の中にしていくほうがきっと真理だと思う。

障害者施設で何人も殺されてしまった事件がありましたけど、
ゆるぎない堅い前提として「お金が最優先」という価値観と
そういう世界観が強固な岩盤のように意識せずとも足元を支えていた。
それは僕も含めた大勢の人の足元も支えていて、
気にすることだってなかったくらい。

だけれど、その岩盤は何かを閉じ込めている。
たぶん大切なものがその奥に眠っている、
あるいは苦しみながら幽閉されている。
岩盤に穴をあけることが無理でも、
奥に眠るものを想像することはできるし、
そうやって意識の上に乗せたことで変わることはあるかもしれない
(必ずあるといいたいくらいですが)。

だから、お金第一の今の世界って、
人にはやさしいものじゃないのは当り前、ということになりましょうか。
よく言えばもう「ゲーム」なんだけど、
ゲームの世界に行ったきりそこから戻ってこなかったりしますからね。
なかなか、難しいものです。
何にしても、切実さすらゲームに放りこまれてしまうのは、
やれやれ、と思っちゃいます。

正常傾向と障害傾向を区別しているのには、
効率とか合理的だとかの
経済的な価値観からの働きかけって大きいのかもしれない。

……まあ、はっきりとはわからないですけど。
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