Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

生きるための手段として----そして政治家論。

2018-10-03 18:15:48 | 考えの切れ端
今読んでいる本に出てきたのですが、
「働くために生きる」のか
「生きるために働く」のか、の二者択一ですよね、生き方の大方の方向性って。
会社って利益追求を最優先して「働くために生きよ」とする性格が強くて、
その原理を妄信してあれこれと決まっていく。
それなのにそう押し進めていく幹部なんかが
「いや、生きるために働く、でしょ」と、のたまうことがあったりする。
つまり、突き詰めていない。
自分が押し進めていることと人生のあり方が繋がるものだ、
という意識がなかったりすることがあります。

もちろん僕は「生きるために働く」派ですから、
生産性や効率第一、もっというと過度に感じられるくらいの
便利さ至上主義なんかにも反対ですかね。
いろいろと人間らしさが損なわれる要素がいまあげたもののなかにはあるし、
ささやかだけれど質感のある幸福感もそこからは得られないだろうからです。

そして、
僕は政治そして政治家に期待しないタイプです。
たぶん、ずいぶん前に失望したんだと思う。
政治よりも、個人が各々でいろいろ本を読んだり考えたりして
進歩していくほうに期待しますけれども、
それでもそんなでもないなあというか。
となると、何に対しても強く期待していないのか、となりますが。

「働くために生きる」という窮屈で倒錯したような人生観に似て、
「政治のために生きる」もありますよね。
それも倒錯しているんだけれど、
はたから見て「えらい!」と思われるので、
そのままにされている人生観ですよね。
自己犠牲を美化して、
さらにその「えらい!」とされる価値観の排他性でもって権力を得るという、ね。

たとえば「マリア・カラスは自らすすんでオペラのいけにえになった」
という評をテレビで聞いたことがあるけれど、
自己犠牲を美化するなら、
いけにえになってしまったんだと思われるくらい
徹底的にやらないとやっぱりそこに利己性や権力欲が匂ってしまう。

「彼・彼女は政治のいけにえになったような人だ」
と言われるような政治家っていたかな?
醜さや汚さを背負ってでもうまく舵取りした人っていたかな?
まあ、わかりませんけど。
政治家っていう職種自体が実は聖性のないものなんだけど、
民衆ウケのために虚偽の聖性をまとってみせるんですよね。

クリーンさや聖性みたいなものが感じられないと
政治家として認めない、
票をやらない、
支持しない、
と主権のある民衆は考えがちだけれど、
実際に政治をする政治家はそんなんじゃやってらんないだろうし、
やってられるくらいの政治家じゃ器が小さいし、
実際面とイメージではギャップが大きいのだと思う。

だから公的なイメージ、つまり外面を気にしつつ、
見えないところでは善悪超えたところで柔軟にやっていくのが政治家ではないのか。
それで長くやってるとそこらへんが混濁してうまく演じられず、
詐欺師まがいの発言をしたりもする。
また偏った本音発言が出るのは良心が耐えられない現れじゃないのかな。

ということで政治家は大変な職業であるのは間違いないのですが、
引き換えに手に入れる「権力」の蜜の甘さがその大変さを和らげるのかもしれない。

補足すると、
もしも「あの人は政治のいけにえになった」と言われるような人がでてきた、
あるいはそう評する人が出てきたとして、
その「いけにえ」という言葉に陶酔するようだとまったくダメです。
それは「いけにえ」という言葉を受けとめていない。
「いけにえ」には可哀想さ、悲劇さが感じられないと。
そういう種類の自己犠牲の美化(あるいは昇華)なんだと思っています。
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