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MAICOの 「 あ ら か る と 」

写真と文で綴る森羅万象と「逍遥の記(只管不歩)」など。

絶滅寸前のオモダカ(写真俳句)

2009年08月29日 | 写真俳句
田舎でオモダカを見た。さほど珍しい植物ではないが、湿田から乾田になっていく中で消えようとしている植物なのである。

徳川時代に奨励された新田開発によって、「飯沼」と呼ばれる大きな沼が埋め立てられ農地やが作られた。武士のままでは食っていくことのできない足軽たちが血判状まで交わして作ったのが私の故郷の周辺に広がる新田と呼ばれる地である。

今は語られなくなったが、難関工事だった堤防には人が柱になって堤防の一部になったという「人柱伝説」があって、子供の頃には何度も聞いた記憶がある。
実際昭和30年代ぐらいまでは「やら」と呼ばれた底なしの湿地帯がまだ残っていて、子供たちの立ち入りは禁じられていた。その頃は開拓された田圃もすべてが湿田だった。湿田だった頃は田螺や泥鰌が獲れ食卓にものぼっていた。

湿田にはいたるところにオモダカが生えていて、やらには睡蓮が咲いていた。中学の校章はオモダカと稲がデザインされたものだったし、校歌には「睡蓮匂う飯沼に・・」と歌われていた。

やらがなくなって湿田が乾田になったとき、睡蓮は絶滅しオモダカさえ希少植物になっていった。学校も少子化とともに統廃合され「飯沼中学」(春日部市にも同名の中学があるがそれとは異なる)は消えてしまった。

下の写真は朽ち果てていく水門。子供の頃この水門が閉まっているときは水浴び(水泳)の遊び場だった。写真の堤防は農道にもなっていて、まもなく稲の収穫時期に当たるため草は刈られていた。
この堤防の右先端付近に見える民家あたりまでが沼だったと思われる。
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初秋の釣仙郷

2009年08月27日 | あらかると
湿度が下がり気温も30度を下回った昨日、釣仙郷(都立水元公園)まで、久しぶりのポタリングを挙行した。
湿度が下がったとはいえやはり直射日光下はまだ暑い。

先頭の写真はいつもの「おばあちゃんの花畑」で、秋の花が咲き始めていた。じっくりと撮りたかったが先を急ぐことにした。

我が家から水元公園までの距離の3分の1ぐらいまで来て栗畑を発見。イガを開いて熟した栗の実があったので(初物はなんでも縁起がいいという)撮影。こんな光景を見るとやはり秋なのである。


栗林の先には葱畑があり、道路際には韮の花が咲いていた。花の写真を撮ろうがどうか迷っているところに「私を写して!」と言わんばかりにヒメアカタテハ蝶が近づいてきた。秋口には良く見られるが、黒揚羽の様に人を怖がる様子がないので毎年10枚程度は私のギャラリーに収まる蝶でもある。


水元公園内のススキと女郎花。秋の七草の競演である。


赤い秋明菊が咲いていた。名前を調査したところ「のの姫」と名づけられて園芸店のネット販売リストに載っていた。しかし「のの姫」で検索するとこの園芸店の一軒だけしかなく詳細不明だった。「のの姫」は「野の姫」なのだろうか?


真っ赤に熟した0.6cm弱のおいしそうな実を見つけた。名前は「ヒヨドリジョウゴ」で有毒だった。


「カリガネソウ(雁金草)の花」。家紋の”結び雁金”紋に似ているのでカリガネソウという名が付いたらしい。雄蕊と雌蕊が円弧の形なのが面白い。


「ポポーの実」。昔、田舎の裏庭にあって13cm程の実がなり、熟して落ちたものを拾ったが、食べることが出来るのかどうかがわからなかった果物。数十年ぶりの出会いだった。流通しているのを見たことがないので、珍しい果物と言えよう。


木陰のベンチで休みながら撮った一枚。水面は水元公園小合溜で、枝垂れ柳が並んでいるのが三郷公園。ベンチをかすめる乾いた涼風が心地よかった。ちなみに矢印の1cm上の小さな赤い点は「ベニシジミ」でした。
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工場群の中の合歓(写真俳句)

2009年08月26日 | 写真俳句
田舎の畑の周りにあった雑木林は、夏はカブト虫やクワガタのたくさん取れ、秋は栗の実やキノコが採れるので、子供たちにとっては格好の遊び場であった。

畑では玉蜀黍や薩摩芋や西瓜、白菜などが栽培されていて時にはそれらがおやつの代わりにもなった。
さすがに玉蜀黍を生で食べることはなかったが、薩摩芋は生で食べても甘いので食べることがあった。白菜はポケットに忍び込ませておいた塩をかけ手で揉むと即席漬物が出来、新鮮さも手伝ってか甘みがあって美味しかった。

西瓜は友人の家で栽培している場合は友人とともにそれを戴き、遠くまで遊びに行ったときは西瓜泥棒(といっても子供のすることだから熟れた大きいものは盗る事ができず食べた記憶はない)などをしてスリルを楽しんでいた。
当時は西瓜泥棒が多かったようで、大きな畑で西瓜を栽培している家では畑の中に「番屋」と呼ばれる小屋を立て、その中で見張りをしていたのである。

このような様々な遊びは、先輩から悪しき伝承として子供らに伝えられ続けていたのであるが、中学生になるとこのような遊びからは卒業していった。

そんな思い出の雑木林や畑は工場の建物で占拠されていた。
わずかに残った雑木林も手入れされなくなり荒れていた。雑木林には昔と同じように合歓の花が咲いていたが、私が中高の通学時にみた合歓の木とは違うようだった。

下の写真は手入れがされないまま荒れてしまった雑木林。こうなると樹液の出る橡(クヌギ)の根元にはカブト虫や蝶などが近寄れず消えてゆく運命にある。勿論人も入ることはない。


たまたま道路わきで見つけた一部分手入れのされた雑木林。下草などが刈られ、林の中は見通しが良くなるので、迷うことはなくなる。昔はすべての雑木林がこのように美しく手入れされていたのである。勿論橡は薪やシイタケ栽培の原木として時々伐採されるので写真のような大きな橡はなかった。

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たらちねの母が(写真短歌)

2009年08月25日 | 写真短歌

送り盆の翌日の早朝に、地域のゲートボール愛好者の練習場の近くを通った。練習場には入れなかったが練習場の周りには白い花が満開だった。

12年前母はここで倒れたのである。

*8月26日短歌の一部を訂正。
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筑波嶺ににのはみえねど(写真短歌)

2009年08月24日 | 写真短歌

写真は田舎の農道からの筑波山の風景である。

筑波山は古来から和歌に歌われており、万葉集には、「衣」の方言で「にの」という古語を使った東歌がある。その「にの」を使って詠んでみた。

万葉集巻14、国歌大観番号3351 
筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉皃呂我 尓努保佐流加母 
つくはねに ゆきかもふらる いなをかも かなしきころが にのほさるかも

解釈には諸説あるが要約すると、防人として傭兵され、田舎を発った時に筑波山を見たら、妻(恋人)が布を干しているのが見えた。という意味の東歌であり相聞歌でもある。

写真の田圃の向こうの家々の中には昔の同級生の家が2,3件あるが、殆どが新しく建て替えられていた。この写真を撮っているうちに中学時代の淡い想いが蘇ってきた。
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