MAICOの 「 あ ら か る と 」

写真と文で綴る森羅万象と「逍遥の記(只管不歩)」など。

花随想の記 「雛菊(延命菊)」と幽体離脱

2009年01月30日 | 花随想の記
その日は関東名物の空っ風が吹き荒れていて寒かった。

仕事を終え四畳半二間に台所と風呂場が付いたアパートに帰ったのは22時を回った頃だった。
当時私は会社合併の仕事を一人で任されていて残業が続いていたが、
公正取引委員会から合併の許可が下り後は合併登記を待つのみと言う仕事一段落の状態になった日でもあった。

アパートに帰るまもなく風呂釜のガスバーナーに火を入れ、
薬缶でお湯を沸かすために台所のコンロの火をつけた。
居間兼寝室のガスストーブにも火をつけた。
やや大きめのプロパンガス用のストーブは火力が強く瞬く間に四畳半の室温を25℃近くまで上昇させた。

風呂が沸くまでの間はTVニュース等を見ながら待つことが多く、
その日もいつものようにテレビを見ていた。
あることを除いては何もかもいつものような流れだった。
しかし、
都内から越してきたばかりの私にはこのあることが重大なことだったとは気がつかなかった。

夜食代わりの菓子パンを食べ始めた頃からなんとなく口の中で洋辛子のような味がしていた。
辛味成分の入ったパンではないのにおかしいとは思ったが、
原因がわからないまま風呂の沸くのを待った。

バーナーの火をつけて約40分後、すなわち時間的に風呂が沸く頃、
すぐに入浴したかったのでズボンを抜いて風呂場に行った。

風呂場のドアを開けたとたんに異変に気づいた。
風呂場に全く温かみが感じられなかったのである。
このとき初めてガスが「シュー」と音を立てて漏れているのに気づいた。
瞬間、怒髪天を突き「やばい!」と思った。
ガスバーナーの元栓をすぐに締め、沸騰していた薬缶の火を消した。

その瞬間だった。
「グオーー」と猛火が私を包んだ。
部屋のストーブから引火したのである。
火に包まれた瞬間「死んだ」と思った。
後で判った事だが、ストーブから引火したことと流れ出たガスの濃度が高かったこと、
マッチやライターを使わなかったことが大爆発を誘発しなかった原因だった。

当時プロパンガスには都市ガスのように臭素が混合されていなかったので、
ガス漏れに気づくのが遅れ、
しかも空気より重いガスなので溜まりやすく、爆発力も強い。
プロパンガス事故というとアパートなどが爆発で吹き飛ばされ、
命までをも落とす人がいて度々ニュースになっていた。
このようにプロパンガスの怖さはわかっていたから瞬間「死んだ」と思ったのも当然のことだった。

猛火に包まれ「死んだ」と思ったとき、火に包まれている私を背後やや上から見下ろしている別の私がいた。
そのときの憐憫な意識は背後から見下ろしている別の私にあった。

「幽体離脱」だった。

幽体離脱直後、田舎の上空で生家を見ている別の私がいた。
瞬間の思いが脳裏を駆け巡ったのかもしれない。
しかし、
上空からの生家の光景はいまでこそGoogleの航空写真で見ることができるが、
当時は航空写真で個人の家が見られることは大変まれであり、
ましてや、田舎の生家の上空からの写真を見る機会など無かった。

火は爆発的に燃えすぐに収まったが、
冬場で空気が乾燥していたため柱が2、3箇所とカーテンが燃え始めていた。
まだ火は燃え上がるほどではなかったのでコップの水で消し止めた。
部屋のガスストーブも消した。

ちょろちょろと燃えていた風呂場の排水口の火は、
水で消そうとした瞬間火柱が上がった。これは爆発だった。
その火柱で左手の甲を焼かれた。

アパートの外を流れる排水溝のコンクリートのフタが爆発音とともに殆ど吹き上げられて居たようだ。
幸いなことに部屋に充満していたガスは燃え尽きていたので、
更なる被害を受けることはなかった。

ガス漏れの原因は点いていたはずの火が、
強風によって煙突から風が逆流し消えたのではないかと言うことだった。
後日隣に住む奥さんから聞いた話によると、
私の前に住んでいた人もガスバーナーの調子がよくないと言っていたようだった。

消し止めて直ぐに爆発音を聞いたであろう隣近所の人たちの声が裏庭から聞こえてきた。
私はすぐに裏庭まで出かけ「大丈夫ですから」と声をかけた。

裏庭の周辺に作られた排水溝の蓋がすべて30センチほど飛ばされていた。
40分以上にわたって漏れ流れたガスの爆発の威力である。
間髪をいれず、組合長さんから
「なに言ってんのよ、そんなに怪我しているのに、今すぐ救急車呼んであげるからズボンはいてきなさい」
ワイシャツにパンツ一枚という姿で飛び出していたのだった。

ズボンを脱いた後だったので、両太腿部の表皮が剥け、手や脚部も火傷を負っていた。
人はあまりにも危険な場面に出会ったり大怪我をしたすぐ後には、
大丈夫ではない状況なのに「大丈夫だ」と言ってしまう状況に陥るが、
そのときの私がまさにそんな状態だった。
アドレナリンが噴出し痛さを抑えてしまっていたのだろう。

やがて消防車と救急車が来ていろいろと事故の状況を聞かれた。
そのあとすぐに救急車に乗せられて病院に向かった。
救急車の中ではショック性の震えに見舞われていた。
震える体をコントロールしようとしたが止めることが出来なかった。
ただ車の音とサイレンの音が耳に入ってくるだけで事の重大さにはまだ気づいていなかった。

思考は平静だった。
平静さは病院についてからも「明日、会社に出られませんか」などと医師に聞いている自分がいた。
一人でやっていた会社合併の仕事は完成間近なのに・・・
「困るのだ入院は」・・そう思っていた。

診断は3度の火傷で重体。
すぐに集中治療室に入れられてしまった。
と同時に二十四時間体制で点滴が行われた。
表皮面積の40%近くを焼いて皮膚呼吸も危ういところにあったらしい。
親族には、もし助かったとしても精神的なダメージが大きく立ち直れないか、
立ち直ったとしても、治癒のためにかかる肝臓への負担によって、
近い将来肝硬変になる可能性が大きいのではないかと伝えられていた。

深夜には田舎から母が駆けつけてくれて、翌朝まで一睡もせず点滴を見守ってくれた。
その日の母は、嫁との小さないさかいで寝付けなかったようで、
私の事故を「寝付けなかったのは虫の知らせだったのだろう」と言っていた。
幽体離脱で生家を浮遊していた時間帯のようでもあった。

それから十数年後、私は私で母が亡くなった時間に「涙して夢枕に立つ母」を見たのだった。

当初2ヶ月と予想されていた入院生活は、3週間で退院するほどの驚異的な回復を見せた。
瞬間の火傷だったため、深部まで火傷していなかったのが幸いした。
薄い皮膚が出来上がり歩行訓練も行なった。
歩行訓練の初日は、ベットから立ち上がると血液が脚部に下りて来るため、
傷跡が激痛に襲われたりもしたが、何とか退院にこぎつけた。
退院してからも2週間ほど休暇をとり通院治療に専念していた。

ガスコンロの火が点くときに「ボッ」と小規模な爆発音を立てるが、
そんな小さな音にも敏感に反応するほど精神的なダメージは残っていた。
しかし、業務に復帰できる嬉しさに後押され出勤することになった。

通勤電車は相変わらず混雑していた。
いつもの時間にいつもの場所に乗った。
言葉を交わすことのないいつもの人々が乗っていた。
そんないつもの光景の中で、私はこみ上げる嬉しさを押さえきれずに居た。
笑顔さえ出ていた。
生きていることの嬉しさだった。
その止まぬ嬉しさのまま出勤し、役員や上司や部下のねぎらいを受けつつ、
最も心配して戴いた社長に合うため社長室に向かった。

先客があり少し待たされた。
社長は花や絵画が好きで、社長室にはいつも鉢植えの季節の花が並べられていた。
先客の面会が終わるまでその花を見ながら、
抑えきれぬほどの嬉しさに耐えていた。

まもなく早春という時期のその日の花は、別名「延命菊」とも呼ばれる「雛菊」だった。

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春を待つ

2009年01月28日 | 写真俳句
発着する航空機を見ながら「欧州への夢よもう一度」と思った。
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成田山新勝寺と航空科学博物館

2009年01月27日 | あらかると
兄夫婦に誘われて成田山新勝寺に初詣に行った。30年以上にわたり毎年初詣に行っていた兄夫婦に誘われたのは昨年に引き続き2回目であるが、私にとってはこれがまさに今年の初詣だった。
上の写真が成田山の境内の一部。左の建物が旧本堂で右端に一部写っている建物が本堂。


初詣を済ませた後「航空科学博物館」に行った。過去に活躍した航空機の実物が庭園に展示され、博物館内には入場料500円を支払って入場。


博物館内は一応見学の順路があるが、着陸する航空機が近づいていたのでとりあえず5階の展望室へ。展望室からは4000m以上もあるA滑走路が目の前に広がっており、離着陸する航空機を間近に見ることができた。
下の写真は、展望室からの駐機場。


展望室でいろいろ旅客機の話をしていたら、航空機マニア(成田空港マニア?)のおじいさんが私たちに対していろいろと説明をしてくれた。席が離れていたためやや大きな声で説明して戴いたので、ほかの見物人も大いに参考となったことだろう。

「滑走路途中で離陸するのは近距離の航空機で欧州などへ行く航空機ほど滑走距離が長い」とか、一台のヘリが現れると「あのヘリは管制塔との通信テストなどをしていて着陸はしない」など詳しい説明をしていただいた。

その説明がなければ判らなかったのが下の写真の航空機。成田に来る航空機の中で一番最大の旅客機とのことで、機首から尾翼近くまで2階席があった。写真はシンガポール航空 エアバスA380-800機


Yokoso JapanのペインティングのあったJAL機。



以下は私も搭乗経験のある航空会社の航空機。懐かしい!!

大韓航空機・・・韓国には良く遊びに行っていたので15回以上は乗っていると思う。


ブリティッシュエアウェイ機・・・二度目の欧州旅行のとき利用。エコノミー席でもJALよりはゆったりとしていて、機内サービスも良かった。常時パンと飲み物を持ったアテンダントが機内を回っていた。


韓国のアシアナ機、大韓航空機より料金がやや安く数回利用した。名古屋に赴任していたときに、初めてファーストクラスに乗ったのもこのアシアナ機である。当時ソウル往復8万円弱だった。

ファーストクラスはエンジンの音ではなく航空機が大気の中を進むときに発生する風の音が聞こえていたのが新鮮だった。
またサービスも必要以上のものがあったと記憶している。機内食は美味しそうな特上寿司だったがお腹が空いてないので断ったらいろいろと心配してくれた。


初めての欧州旅行に「社員旅行」として利用したのがJAL401便。約30名の団体だったが団長という責務を負わされたのでやや気疲れしたのを覚えている。


そのほかには、中華航空(台湾)、タイ航空(Philippin)、UA(韓国)、NWA(台湾)、アリタリア航空(伊→仏)などがあるが、今日は離着陸するのを見ることができなかった。

写真はほとんどが展望室のガラス越しに取っているため、ピントや色調がやや適正にかけるものばかりになってしまった。
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みいさんぽ(41)

2009年01月25日 | あらかると
久しぶりに晴れ上がったのでいつもの川沿いのコースを散歩。散歩の途中にある梅ノ木が15本ほどの小さな梅林(というよりは梅畑)の白梅。6月には実るのだが毎年のように収穫している様子はなく、熟れた梅がたくさん落ちているのを見かけている場所でもある。
咲いていた梅は4本程度で、下の写真が一番良く咲いていた梅の木でほぼ満開。


いつもの川は更に冬ざれの様相を呈し、真菰が朽ちかけ、蒲の穂も芯まで枯れ切っていた。わずかに右上に写っている土手の斜面が「冬萌え」で緑の若草が生えている。


この川にはカモ類も多く越冬していて、大きなお尻を上げて川底の藻を食べている光景を良く見かける。カイツブリのようには潜れないのである。波紋の美しさにカメラを向けた。


前日までの雨で濡れたままの「蒲の穂」。梟の様でもあり、白い猿が棒をよじ登っているようにも見え、またおどろおどろしい様にも見え・・・


黄色い羽を持っていたので「黄連雀」とばかり思っていたが、今回掲載するので調査したら「カワラヒワ」ということが判った。大きさは雀と同じ程度で、「キリキリ、コロコロ」と啼く声がなんとも軽やかだった。


「カワラヒワ」・・・Wikipediaより
体長は約 14cm 、翼開長約24cmでスズメと同大。全体的に黄褐色で、太い嘴と、翼に混じる黄色が特徴。

東アジア(中国、モンゴル、ロシア東南部、朝鮮半島、日本)に分布する。
日本国内ではほぼ全域に分布する留鳥。ただし北部のものは冬場は暖地へ移動する。 低山から低地にかけて広く生息し、市街地の公園や川原などでも観察される。

繁殖期には低山から平地にかけての林で番いで生活し小さな縄張りを持つが、秋季以降は数十羽から数百羽の群れを形成し植物の種子を求めて移動する。繁殖期には、雄が雌に対して求愛給餌を行う。
食性は植物食で、主に植物の種子を食べる。ヒマワリなどの種子を特に好み、大きな種子を太い嘴でついばむ様子が観察され
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細雪

2009年01月24日 | 写真俳句
明るかった曇り空が急に暗くなり霙が降ってきてやがて雪になった。冷え込んでいたためか関東でよく見られるボタン雪ではなく細雪だった。しかも風が強く一瞬吹雪の様相さえ呈していた。今日の昼時の話である。

撮影時は暗かったのでカメラのシャッター速度は4分の1程度しか出なかったが、その速度ゆえに雪が流れて風の強さも写り込んだと思っているが・・・・
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