MAICOの 「 あ ら か る と 」

写真と文で綴る森羅万象と「逍遥の記(只管不歩)」など。

寒鰤(かんぶり)と鱸(すずき)の虚々実々

2005年12月27日 | たべもの・料理
氷見の寒鰤は高くて手が出ないが、寿司屋で食べる程度ならさほど金額も張らず美味しく味わうことが出来る。鱸もアライなどで食べると身が引き締まってこれまた美味である。

スーパーでも寒鰤は売られているがやはり手が出ない。高いから手が出ないのではなく「寒鰤?」と思わせるに十分な代物だからである。だから買わない。
鰤というには小さすぎ更にハマチよりも小さいと思われるからである。鰤と呼ぶには不十分なものが堂々と「寒ブリ」として並べられているのは、消費者を欺くことになり公正な取引に違反するのではないだろうか?

どこのスーパーでも同じ表示をしているが、あるデパートの地下で見たものは「ぶりの子」とあった。どうしても旬な寒鰤の威光を借りたいのかと失笑せざるを得なかった。

このようなことは「鱸」にもいえることで、30cm程度のものを鱸として売っているスーパーばかりである。鱸と呼ばれるためには体長が80cm以上なければならないのは釣をするものなら誰だって知っている。それ以下はすべて「フッコ」と呼ばれ鱸としては扱わないのである。

そういえば、ネットオークションで「熟成.辛子明太子」を買ったことがある。あまりにも安かったので疑心暗鬼であったが、製造は博多の老舗でありタレントを起用した広告活動をしていたので、下調べの上買ったのである。

ネット販売担当はメーカーとは別会社で、その宣伝文句も「つぶつぶ感が最高」でいかにも美味しそうだった。
届いたので早速食べてみた。十分に味付けがしてあり美味しかったが、食感がどことなくおかしい。プチプチ感がたらこではないのである。なおかつ香りはシシャモの卵のかおりだった。

卵の皮をむき中身を採って水に入れるとすぐにばらばらになり、大小さまざまの魚卵が現れた。大き目の魚卵がししゃもだったのである。
すぐに成分表を見た。米国産たらこ、大西洋産魚卵(これこそシシャモの卵)、でんぷん(魚卵の皮を造るのに使われたのでは)などが使われた人工明太子だった。

すぐさまメーカーにメールを送ったが当然返事が来るわけでもなく、現在も売られているのを目にしている。取締りの対象にもならないのか?

西武デパート系列とヨーカドー系列が合併になるという。デパートの良心が勝つか、それとも相変わらず「寒ブリ」として売っていくのか興味津々である。
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石楠花山道

2005年12月21日 | 花随想の記
 学生時代、アルバイト先の上司が計画した登山に何もわからぬまま参加したことがある。
 新宿駅発の夜行列車で仲間十数人と三ッ峠駅に降り立ったのは深夜の2時を回った頃だった。
 ひんやりと澄み切った夜の空気に冬の訪れを感じながら、静まり返った街中を歩いて三ッ峠登山道に入っていった。
本格的な登りに入る前に軽食タイムがあり、三々五々思い思いの時間を過ごしていた。

「あっ、流れ星」
女性が叫んだ。見上げると満天の星空だった。
 新月だったにも拘らず満天の星の明るさが登山道の木々を浮かび上がらせていた。
わずか一時間足らずの間に7~8個の流星が我々一行の頭上を飛んだ。若い女性の中には、手を合わせて一心に空を見ている者もいた。

 流星の感動に心を洗われた一行は、雑木林のような登山道をさらに登って行った。
登るにつれて東方の山の稜線がわかるほどに明るくなってきた。明るくなるにつれて登山道後方には富士山が姿をあらわしてきた。最初は黒い影に過ぎなかった富士山は夜明けとともに徐々に色を変え、やがて赤く染まった。

赤富士の出現だった。

 「すごい」「綺麗」「わおー」様々な形容の言葉と感動とも溜息ともつかない言葉が発せられた。リーダーの声で一行は足を止めしばし呆然と赤富士をながめていた。
三つ峠から河口湖河畔までの行程であったが、晩秋の山は澄み渡り、雲一点無い天候にも恵まれ私の初登山は終了した。

三ッ峠登山がきっかけとなり、登山が趣味の一つとなった。
登山中に雨が降ってきても、雲の切れ目から絶景が現われるかもしれないという期待があった。雨によって空気中のチリが洗われた後にはキレの良い光景が現れることが多かった。一日中雨であっても雨を楽しめるようになっていた。

 初登山から数年間、天気図の書き込みや気象の予測、非常食の調査や登山コースの設定や時間配分などを先輩から指導を受け、あるいは登山書を購読して独学していた。登山に関してあらゆる方面から検討するという手法は、その後のサラリーマン生活において企画立案や新規部門の開設などに大いに役立つこととなった。

 やがて転職し登山仲間も変っていったが、昇格する度に仕事も忙しくなり、年に一、二度の登山しか出来り遂には山登りを止めてしまった。その山行きの最後を締めくくったのが西沢渓谷だった。

 西沢渓谷は山梨県を流れる笛吹川の上流にあり、登山と言うにはやや物足りないが、山の気分は十分に満喫できるので人気があった。真冬には滝が全面凍結して氷のオブジェに包まれるのでニュースになることもある。

 男三人女二人のグループで新宿を早朝の電車で発ち、塩山にて下車、タクシーに乗り換え西沢渓谷の入り口である不動小屋に着いたのは午前十時頃だった。
小屋の前で身支度を整え、記念写真を一、二枚撮ってから沢の右岸から入っていった。

 左下からは沢を流れる水の心地よい音が聞こえていたがまもなく沢も見えてきた。沢の水は美しいコバルトブルーだった。それまでの登山で様々な川や谷川を見てきたが、コバルト色の流れは初めてだった。

 周りの緑に溶け込むことのない水の色は奇異と言えば奇異だったかもしれないが、見る者は一様に感動していた。
水の美しさの原因は鉱毒だった。明治時代、銅鉱石を採るための鉱山が上流にあり、その鉱毒が水に溶け込んでコバルトブルーの美しい光景を作り出していたのだった。

 水補給のため、西沢と東沢の合流地点から東沢に入り軽い食事をし、食後の珈琲も楽しんだ。珈琲と言ってもインスタントではなく、珈琲豆を挽いて持ってきたものをドリッパーで入れた本格的なものである。挽いた豆が一夜で酸化していたのだろう家で飲むほどの味は出なかったが、香りだけは周りに漂った。

 谷川の清水を汲んできて点てたコーヒーを、沢で生まれた満ち溢れるオゾンと小鳥の鳴き声や沢音に包まれながら飲むのは、喧騒の中で辟易暮らしていた私にとっては有り難く、小さいながらも最高の贅沢だった。

 間近に渓谷や滝を見ながら歩きつづけ、川幅がわずか数メートルとなったところで川を渡った。西沢を挟んで一周する折り返し地点だった。
 折り返し地点からは西沢にある数個の滝を俯瞰するように登山道が作られていた。登山道は材木などを運ぶために作られたトロッコの廃軌道だったとかで、所々に朽ち果てた枕木と錆びたレールが残っていた。

 西沢を一周して不動小屋も近くなってきた頃
「あっ、綺麗な花が咲いている」
と女性の声がした。
 指差す登山道の斜面を見ると、2m以上はあろうかと思われる樹に赤ピンク色の大ぶりの花が咲いていた。一枝に5,6輪つけた花は殆どが満開だった。

石楠花だった。



 ヤフー検索で調べたトロッコの由来。
この森林軌道跡は、西沢や東沢の木材や黒金山の銅鉱石搬出のために塩山駅まで敷設された全長36kmの三塩軌道で、昭和8年~43年まで利用されたという。軌道は西沢渓谷の迂回路にも結構きれいに残っており、途中には「トロッコの由来」と題された解説板もある


写真は石楠花の花。
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以冷治冷・・・冷麺は冬の食べ物

2005年12月06日 | たべもの・料理
後楽園で行われた2005年日韓友情年のエベントに行ったとき、「清水冷麺」という名のスープ付冷麺を買ってきた。残念ながら添付のスープは水よりもまずくとても食べられるものではなかった。
麺を入れる前にスープの味見をしていたので、そのスープはすべて捨て、コチュジャンと砂糖と胡麻油などでビビン冷麺風に作り変え何とか食べたが、それでも食への恨みは後を引く。

後日「韓国広場」に「冷麺」探しに行った。冷麺のスープ用に「トンチミ(大根の水キムチ)」も求めようとしたが、そこまでやると韓国料理店で食べたほうが安いので、写真のビビン冷麺(文字的にはピビンネンミョン・・)を買ってきた。
麺の茹で時間は一分弱、冷水でよく洗ったら水を切り添付のたれを混ぜるだけ。最初の一、二口はやや辛く甘みが勝っているのでまあまあの美味しさ。食べるに従って口の中は辛味が増し、辛さが甘さを凌駕してくる。インスタントでこれだけの味が出ているので辛い物好きにはお勧めしたい。

ビビン冷麺は、ロッテホテルに滞在中に隣のロッテデパートの食堂街へ行って食べたのが初めてだったが、注文した時点でアガッシから「これは本当に辛いですよ、大丈夫ですか?」と忠告されてしまった。

韓国人と冷麺を食べに行っても「ムルネンミョン(スープ冷麺)」しか薦められなかったので、決心して食べに来たのである。
「はい」の一言を返すだけだった。

まずお茶代わりに湯飲みに入った白濁の「ソルロンタン(牛スープ)」が出てきた。このスープが美味しいと評判の店でもあった。塩味は殆どなかったが美味しかった。かつお節でとっただしが味付けしなくても美味しいように、素材の美味しさが感じられた。

やがてビビン冷麺が出てきた。スープのない冷麺の上に赤い「餡かけ」のようなものが乗って出てきた。アガシが鋏で器の中の麺を四等分に切り、切り終わると「さあ、どうぞ」と声を掛けていただいたので、「ピビン」の名に従って麺と餡とを十分に混ぜ合わせた。
そして一口。
なーんだそんなに辛くないじゃん、が一口目の感想。甘辛味にコクがあり、さらにゴマの風味が味を引き立てていて美味しい。
ところが、半分も食べないうちに辛さが口の中を支配してきた。食べるたびに辛さが増幅され、普通に食べられる状態ではなくなってきた。麺を口にくわえ、チョッカラで麺に絡んでいる赤い餡をこそげ落としながら何とか食べた。

表題に書いた「以冷治冷」は「暑いときは熱いお茶を」のように、冷麺はもともと冬の食べ物だったという。
冷麺スープのもとになる大根の水キムチ「トンチミ」のスープにはビタミンCが多く含まれ、風邪を引いたときなどに飲むと体にいいといわれている。
韓国滞在中に風邪を引き食欲もなかったとき、オンドルの効いた友人の家で、体にいいからと頂いた水キムチは、風邪とオンドルの暖かさで火照った体を内から冷やしているようで本当に美味しかった。

冷麺の美味しさの基準は「麺の細さ」だといわれている。今のように押し出し製麺機がなかったときは、日本のそばのように手で打っていたわけで、いかに細く仕上げるかが料理人の腕の差だといわれ腕の差は味の差にもなっていたらしい。

写真のビビン麺の名前は「アッシピビンネンミョン」、ちなみにアッシは「若婦人」という意。アッシのシは「氏」で大人同士は「キムシ(金氏)とかパクシ(朴氏)」とか敬語で呼び合います。

アガッシ(お嬢さん)、アギ(坊や、娘)、アジョッシ(おじさん)、アド(児童)、アネ(家内)、アイ(息子) ・・・・なぜか「ア」が多い。
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フリージア

2005年12月05日 | 花随想の記
学生時代、渋谷駅前にある大手不動産会社の印刷室でアルバイトをしていたことがある。

印刷室の仕事はアルバイト先の会社が請負っていて、
その派遣社員として配属されていたのである。
仲介物件の間取り図や物件案内図などのチラシを主に印刷していたが、
仕事そのものは楽なほうで、前日徹夜しても何とかこなすことが出来た。

当時は文芸創作が趣味で、
バイトが空けると一目散におんぼろアパートに帰り原稿用紙に向かっていた。
疲れた日などもあったが、眠ろうとして横になっても、
物語の主人公がまだ書けていないストリーを語りだすので、
再び机に向かうようなこともあった。ときにはインスピレーションの世界に入り込んでいて、
気づいたら出勤時間間際なんていうこともあった。

下請け会社は不動産会社と駅を挟んだ反対側の渋谷警察署のすぐ近くにあった。
そこで作業着に着替えてから印刷室に出勤し、
昼食時は再び戻り社員食堂で食事をしていた。

社員食堂は昼飯だけが用意されていたが、
おかず以外はお代わり自由でしかも無料だった。
アルバイト学生にとって一日一食とはいえバランスの取れた無料の食事は有難かった。
結局卒業までの三年間という長い間お世話になる結果となり、社員旅行などにも参加していた。

食堂は、もと担ぎ屋だった茨城の「おばあちゃん」が担当し、
肉や魚介類と調味料以外は全て自家生産されたものを持ってくるので、
野菜は新鮮だったしご飯も自家製の漬物も美味しかった。

毎週金曜日はカレーライスだったが、
大きなジャガイモの入った田舎カレーは抜群で、
職場で最も人気のある昼飯だった。
この日ばかりはお替りする人も多く「おばあちゃん」の昼飯がなくなることもあった。
それでも「おばあちゃん」は菓子パンなどをかじりながらニコニコとしていて、
食べてもらえたことに満足しているような人だった。

その日がカレーだったかどうかは覚えてないが、
食事を終えのんびりと渋谷駅前を仕事場に向っていた。

卒業式があったのだろうか、正面から袴姿の女性が三、四人歩いてきた。
美しくはでやかな格好はみんなの目をひくものであったし私も何気なく見ていた。

彼女たちとすれ違う直前だった。

「あっ」

「おっ」

とお互いに驚きともつかぬ声をあげ、間髪を入れず女性から

「Aさんでしょう、暫くぶりね」

「あっ、Tさんかぁ、ほんと久しぶり、この辺の大学だったんですか?」

「そうS女子大」

短い会話だったが、四年ぶりのあまりにも偶然の再会であった。

彼女とは高校時代の同級生で、
在学中の三年間混声合唱を中心に活動してきた音楽クラブの仲間だった。
進学校だったため部員は十五名程度で、
ある合唱祭では人が足りず他の部から何人か借り出したこともあった。
定期的に合唱大会やレクリェーション、
さらには女子高との交換会などをしていたので楽しかった思い出として残っている。

別れ際に彼女から黄色い花を戴いた。卒業式に戴いたものだろう。
初めて見る花だった。

「ありがとう、なんていう花 ?」

「フリージア! 伊豆の大島から来たようよ、いい香りがするでしょう。
東京はまだ寒いけど大島はもう春なのよね」

花に顔を近づけたら甘い香りに包まれた。

「ほんといい香りだ、ありがとう」

私は昼休時間が終わりに近づいていたし、
彼女は友人を待たせていたので話もそこそこに別れた。

その後彼女のことは忘れていたが、
数年後に母校から贈られてきた卒業生名簿で、
高校の教師をしていることを知った。
さらに数年後、
姪っ子が英語の先生としての彼女から授業を受けていることを知り、
結婚されていたことも知った。

貧しいが夢に燃え口角泡を飛ばし議論をしていた学生時代、
そんな時代に、渋谷の雑踏の中で始めてフリージアを知ったのである。
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maico流「トブチゲ(豆腐チゲ)」

2005年12月03日 | たべもの・料理
豆腐チゲは韓国滞在中の朝食事に食べることが多かった。
ホテルの洋食バイキングもいいが、やはり韓国の庶民の味も楽しまなくてはと思い、投宿ホテル近くの庶民的食堂をガイドさんから紹介してもらっていた。
小さな食堂のオモニが作る「豆腐チゲ」は、具沢山の野菜と豆腐の味噌汁といった感じで、ご飯と何種類かの漬物がついていた。

日本の味噌汁とは違い独特の香りとコクのある味だったが、一番の特徴はズッキーが入っていることである。
それをスッカラ(韓国スプーン)で食べていくのである。
ご存知のように、韓国では器を持って食べるのはマナー違反なので、ご飯もチョッカラ(金属製の箸)よりはスッカラを使って食べることになる。ただ漬物などはスッカラでは取りにくいので、チョッカラを使うのである。

スッカラでスープを飲むときは、雫がたれないようにひと工夫してから食べることになるのだが・・・・
まず器からスープをすくったら、そのままスッカラの底を器の端に当ててから口元に持ってくるのである。スッカラの底に着いた今にも落ちそうな雫は器に軽く添えることによって、器の端に吸収されてしまうことになる。

豆腐チゲに入っているのは当初、韓国味噌だけと思っていたが、それにしては大豆が丸のまま入っているので聞いてみると「ナットウ」だという。韓国にも納豆があるのかと驚いたが・・・・・・
もちろん手配して日本へ二個ほど持ち帰ったのはいうまでもない。

しばらくして日本にもあるのではと探したところ、以外に簡単に見つかった。
日暮里駅近くの小さな韓国食品店で、コチュジャンやサムジャンなどを手にしながら応対していただいた韓国人アルバイト店員に「ナットウありますか?」と聞いてみた。

わからないようだったので「豆腐チゲに入れる味噌なんですが」と食い下がったら「韓国味噌」を持ってきた。「それじゃなくて、このくらいの大きさで納豆のにおいがする・・・」店員はしばらく考えてから、右手のこぶしを左手に打って「あーーーあれね」と、閃いたようで、店の奥から持ってきてくれたのである。

写真がそれである。私流には、寄せ鍋の材料6人分(野菜7割・豆腐二丁)ぐらいに、これ一個使うのである。納豆が好きな方や納豆汁の経験のある方ならお奨めである。チゲにしても納豆のにおいはするが、少なくても市販されている永谷園の納豆味噌汁ほど強いにおいではない。

前に紹介した「韓国広場」には常備してあるので、最近は其処で手に入れることが多いが、キャッシャーの女性からいつも怪訝そうに見られている気がするのは気のせいだろうか。ここには乾燥ズッキーニ(彼らはかぼちゃとも呼ぶ)なども売られている。

写真を見ると、チョングクジャン(清麹醤)と書いてあるので辞書で引くと、味噌の一つで大豆をゆでた後、臼で砕いて熟成したものとあったが、匂いは味噌というより納豆なので「糸を引かない納豆の塊」といったほうが分かりやすい。

さらによく見ると、成分欄に大豆の97%が米国産とあり、塩(ソグム)、唐辛子粉(コチュカル)が入っていることがわかる。米国産の大豆が殆どという韓国の食糧事情も見えてくる。

韓国ではこの「ジャン(醤)」と呼ばれる調味料が発達していて、コチュジャン(唐辛子味噌)、カンジャン(醤油)、テンジャン(味噌)、サムジャン(甘味噌)など、韓国では歌になっているほど数が多いので、食の楽しみも必然的に多くなってくるのである。
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