MAICOの 「 あ ら か る と 」

写真と文で綴る森羅万象と「逍遥の記(只管不歩)」など。

花随想の記 「雛菊(延命菊)」と幽体離脱

2009年01月30日 | 花随想の記
その日は関東名物の空っ風が吹き荒れていて寒かった。

仕事を終え四畳半二間に台所と風呂場が付いたアパートに帰ったのは22時を回った頃だった。
当時私は会社合併の仕事を一人で任されていて残業が続いていたが、
公正取引委員会から合併の許可が下り後は合併登記を待つのみと言う仕事一段落の状態になった日でもあった。

アパートに帰るまもなく風呂釜のガスバーナーに火を入れ、
薬缶でお湯を沸かすために台所のコンロの火をつけた。
居間兼寝室のガスストーブにも火をつけた。
やや大きめのプロパンガス用のストーブは火力が強く瞬く間に四畳半の室温を25℃近くまで上昇させた。

風呂が沸くまでの間はTVニュース等を見ながら待つことが多く、
その日もいつものようにテレビを見ていた。
あることを除いては何もかもいつものような流れだった。
しかし、
都内から越してきたばかりの私にはこのあることが重大なことだったとは気がつかなかった。

夜食代わりの菓子パンを食べ始めた頃からなんとなく口の中で洋辛子のような味がしていた。
辛味成分の入ったパンではないのにおかしいとは思ったが、
原因がわからないまま風呂の沸くのを待った。

バーナーの火をつけて約40分後、すなわち時間的に風呂が沸く頃、
すぐに入浴したかったのでズボンを抜いて風呂場に行った。

風呂場のドアを開けたとたんに異変に気づいた。
風呂場に全く温かみが感じられなかったのである。
このとき初めてガスが「シュー」と音を立てて漏れているのに気づいた。
瞬間、怒髪天を突き「やばい!」と思った。
ガスバーナーの元栓をすぐに締め、沸騰していた薬缶の火を消した。

その瞬間だった。
「グオーー」と猛火が私を包んだ。
部屋のストーブから引火したのである。
火に包まれた瞬間「死んだ」と思った。
後で判った事だが、ストーブから引火したことと流れ出たガスの濃度が高かったこと、
マッチやライターを使わなかったことが大爆発を誘発しなかった原因だった。

当時プロパンガスには都市ガスのように臭素が混合されていなかったので、
ガス漏れに気づくのが遅れ、
しかも空気より重いガスなので溜まりやすく、爆発力も強い。
プロパンガス事故というとアパートなどが爆発で吹き飛ばされ、
命までをも落とす人がいて度々ニュースになっていた。
このようにプロパンガスの怖さはわかっていたから瞬間「死んだ」と思ったのも当然のことだった。

猛火に包まれ「死んだ」と思ったとき、火に包まれている私を背後やや上から見下ろしている別の私がいた。
そのときの憐憫な意識は背後から見下ろしている別の私にあった。

「幽体離脱」だった。

幽体離脱直後、田舎の上空で生家を見ている別の私がいた。
瞬間の思いが脳裏を駆け巡ったのかもしれない。
しかし、
上空からの生家の光景はいまでこそGoogleの航空写真で見ることができるが、
当時は航空写真で個人の家が見られることは大変まれであり、
ましてや、田舎の生家の上空からの写真を見る機会など無かった。

火は爆発的に燃えすぐに収まったが、
冬場で空気が乾燥していたため柱が2、3箇所とカーテンが燃え始めていた。
まだ火は燃え上がるほどではなかったのでコップの水で消し止めた。
部屋のガスストーブも消した。

ちょろちょろと燃えていた風呂場の排水口の火は、
水で消そうとした瞬間火柱が上がった。これは爆発だった。
その火柱で左手の甲を焼かれた。

アパートの外を流れる排水溝のコンクリートのフタが爆発音とともに殆ど吹き上げられて居たようだ。
幸いなことに部屋に充満していたガスは燃え尽きていたので、
更なる被害を受けることはなかった。

ガス漏れの原因は点いていたはずの火が、
強風によって煙突から風が逆流し消えたのではないかと言うことだった。
後日隣に住む奥さんから聞いた話によると、
私の前に住んでいた人もガスバーナーの調子がよくないと言っていたようだった。

消し止めて直ぐに爆発音を聞いたであろう隣近所の人たちの声が裏庭から聞こえてきた。
私はすぐに裏庭まで出かけ「大丈夫ですから」と声をかけた。

裏庭の周辺に作られた排水溝の蓋がすべて30センチほど飛ばされていた。
40分以上にわたって漏れ流れたガスの爆発の威力である。
間髪をいれず、組合長さんから
「なに言ってんのよ、そんなに怪我しているのに、今すぐ救急車呼んであげるからズボンはいてきなさい」
ワイシャツにパンツ一枚という姿で飛び出していたのだった。

ズボンを脱いた後だったので、両太腿部の表皮が剥け、手や脚部も火傷を負っていた。
人はあまりにも危険な場面に出会ったり大怪我をしたすぐ後には、
大丈夫ではない状況なのに「大丈夫だ」と言ってしまう状況に陥るが、
そのときの私がまさにそんな状態だった。
アドレナリンが噴出し痛さを抑えてしまっていたのだろう。

やがて消防車と救急車が来ていろいろと事故の状況を聞かれた。
そのあとすぐに救急車に乗せられて病院に向かった。
救急車の中ではショック性の震えに見舞われていた。
震える体をコントロールしようとしたが止めることが出来なかった。
ただ車の音とサイレンの音が耳に入ってくるだけで事の重大さにはまだ気づいていなかった。

思考は平静だった。
平静さは病院についてからも「明日、会社に出られませんか」などと医師に聞いている自分がいた。
一人でやっていた会社合併の仕事は完成間近なのに・・・
「困るのだ入院は」・・そう思っていた。

診断は3度の火傷で重体。
すぐに集中治療室に入れられてしまった。
と同時に二十四時間体制で点滴が行われた。
表皮面積の40%近くを焼いて皮膚呼吸も危ういところにあったらしい。
親族には、もし助かったとしても精神的なダメージが大きく立ち直れないか、
立ち直ったとしても、治癒のためにかかる肝臓への負担によって、
近い将来肝硬変になる可能性が大きいのではないかと伝えられていた。

深夜には田舎から母が駆けつけてくれて、翌朝まで一睡もせず点滴を見守ってくれた。
その日の母は、嫁との小さないさかいで寝付けなかったようで、
私の事故を「寝付けなかったのは虫の知らせだったのだろう」と言っていた。
幽体離脱で生家を浮遊していた時間帯のようでもあった。

それから十数年後、私は私で母が亡くなった時間に「涙して夢枕に立つ母」を見たのだった。

当初2ヶ月と予想されていた入院生活は、3週間で退院するほどの驚異的な回復を見せた。
瞬間の火傷だったため、深部まで火傷していなかったのが幸いした。
薄い皮膚が出来上がり歩行訓練も行なった。
歩行訓練の初日は、ベットから立ち上がると血液が脚部に下りて来るため、
傷跡が激痛に襲われたりもしたが、何とか退院にこぎつけた。
退院してからも2週間ほど休暇をとり通院治療に専念していた。

ガスコンロの火が点くときに「ボッ」と小規模な爆発音を立てるが、
そんな小さな音にも敏感に反応するほど精神的なダメージは残っていた。
しかし、業務に復帰できる嬉しさに後押され出勤することになった。

通勤電車は相変わらず混雑していた。
いつもの時間にいつもの場所に乗った。
言葉を交わすことのないいつもの人々が乗っていた。
そんないつもの光景の中で、私はこみ上げる嬉しさを押さえきれずに居た。
笑顔さえ出ていた。
生きていることの嬉しさだった。
その止まぬ嬉しさのまま出勤し、役員や上司や部下のねぎらいを受けつつ、
最も心配して戴いた社長に合うため社長室に向かった。

先客があり少し待たされた。
社長は花や絵画が好きで、社長室にはいつも鉢植えの季節の花が並べられていた。
先客の面会が終わるまでその花を見ながら、
抑えきれぬほどの嬉しさに耐えていた。

まもなく早春という時期のその日の花は、別名「延命菊」とも呼ばれる「雛菊」だった。

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連翹とケナリ

2007年07月12日 | 花随想の記

その日のソウルの秋はどんよりとしていた。

その年は異常に海外に行くチャンスが多く、
比律賓、台湾、欧州(倫敦・羅馬・巴里)などに行った。
社員旅行や御褒美としてのものも含まれるが、見聞を広めるに大変役に立ったものである。

英語を不得手としている私にとって初めての国を訪問するときはいつも心穏やかではない。

比律賓と欧州はガイドつきの社員ツアーだったので、ホテル以外はすべてガイドに頼って居れば良く、
欧州のときは団長の任にありツアーガイドと行動を共にすることが多かったため、
通訳の代わりを務めてもらったりしていた。

当時流行した電子手帳翻訳機なども持っていったが、
こちらの意思は伝えることができても、
ヒアリングができてないから殆ど役に立たなかった。
結局片言の英語と身振り手振りのほうが確実にこちらの意を伝えやすかった。

初の韓国旅行は関連子会社の部長の誘いによるもので台湾にも同行した仲である。
台湾は何気に私のほうから誘ったが、
彼の両親は日本企業の海外駐在員で、本人も台湾のキールン生まれだったため、
そのルーツを探りたいと言うことですぐに決定した。

韓国行きは、関連会社の取引先である韓国企業日本支社長の薦めで急遽組まれたもので、
5名の私的なツアーだった。
そのときは、日本支社長の兄で本社社長を勤めている金さんと、
案内役として大学教授でオリンピック委員でもあった同じ金さんにオリンピック競技場や、
ロッテワールド、南大門市場、明洞(ミョンドン)などを案内していただき、
夕食では大層な接待を受けた。

料亭の離れでご馳走になった宮廷料理(唐辛子を使ってないので辛い料理はない)のフルコースは、
7人の大人に対して大型卓袱台が4つ、
日本ならさしずめお膳で出てくるところだが料理を満載した卓袱台で運ばれてくるのである。
さらに、5人前もあるような大型の神仙炉が3つ、高級な材料が乗った九節板(クジョルパン)、
チヂミや牛肉などの焼物、煮物、高麗人参の刺身、
そして水菓子と、とても食べきれるものではなく、
それこそ「大長今」の王様の食事のように一口食っては別の皿に・・
腹一杯になってもう食べられませんと言ってももっと食べろと笑いながら薦められた。
(家庭などに招待されて出されたものをきれいに食べることは韓国ではマナー違反とされていて、
接待者に「足りなかったのでは」と心配させることとなり、ひいては接待者が恥と考えられている。
(家庭に接待されての家族と一緒の食事では、キムチなどのおかずがたくさん出されますが個々に分けられることはあまりなく、
食卓を囲む全員で大皿に箸をつけることになります)


二度目は名古屋に赴任中に友人と二人旅立った。季節は春だった。

なにげに「焼肉を食べに行こうか」がソウルまで行くことになったのである。
当時は名古屋にある関連会社に出向し財務や総務をまかされていたので時間的な制約はさほどなく、
さらに空港がタクシーで20分足らずのところにあったため、
空港カウンターに行けば何とかなったのである。
もちろんホテルの予約もしてなかった。

金浦空港についたのは夜だった。
結構客引きもいた。
日本の温泉地の駅前光景の再現である。
入れ替わり立ち代りいろいろ言ってきたが大方無視した。

かといってこちらもある程度不安があった。
何より韓国のハングル文字が全く読めなかったことがショックだった。
台湾は漢字圏なのでなんとなく解るし、
英語圏も何気に解ったが、
ハングルは漢字の簡体字でもなく意味の無い記号にしか見えなかった。

そんな多くの客引きの中で、
名刺を差出し「良かったらソウルまで乗せて行きます、怪しい者じゃありませんので安心してください」、
なかなか日本語も達者でよく聞くと日本に留学していたとのことで、
都内のことも詳しかった。
日本語が解りしかも名刺まで頂いたので、
やや怪しいとは思いつつも彼を信頼して、
ソウルの一流ホテルであるロッテホテルを指示して車に乗った。

車の中でホテルの予約がないことを伝えると、
「私に任せてください安くするように交渉しますから」と、
で彼に任せると結果的には20%引きとなった。
このことが後々役に立つことになった。
その後何回か韓国に行ったが、予約は日本からロッテホテルに直接することになり、
こちらの氏名を名乗ると繁忙期にかかわらず常にこのレートが適用されたのである。

結局焼肉店もその人のお世話になった。
ついでに翌日の市内観光までということになり、女性のガイド一人を手配していただいた。

こちらの希望を取り混ぜてロッテワールドや、
漢川クルーズ、オリンピック競技が行われた国立射撃場、南大門市場、
夜には韓国プロ野球をネット裏で観戦した。

国立射撃場では案内人の薦めもあって、38口径のピストル射撃を経験した。
25m先の的をめがけ両手撃ちだったが、
射撃については自衛隊時代にM1ライフルで、200ヤード先の的2mの伏撃ちなどを経験していたので、
威力的に下位のピストルということもあり安心感はあったものの久しぶりの実射に軽い緊張感を味わった。
全部的中したものの引き金を引くときにやや銃口が下がる癖があったようで、
的の中心より下のほうに弾痕は集中していた。

韓国の春はいたるところに黄色の花が咲いている。
高速道路の両側や空地や緑地、川の堤防などに見られる。
日本でも見られる花だったが名前は分からなかった。

ガイドさんに聞くと「ケナリといいます。日本ではレンギョウとか呼ぶそうですよ」と・・・

「ケナリ? 連翹?」

日本名と韓国名を同時に覚えた花として心に残った。
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山百合と横須賀74期練習員

2006年09月20日 | 花随想の記

当時は高校を卒業すると70%程度は就職をしていた。

私はといえば大学進学に淡い思いを抱きつつ、
横須賀にある「海上自衛隊横須賀教育隊」に「第74期練習員」として入隊した。

自衛隊なら陸海空なんでもよかったが、
セーラー服の格好よさから海上自衛隊を希望し入隊の許可が出たのだが、
まだ旧海軍上がりが教官として任官していたころで、
訓練や躾は陸海空自衛隊の中でも特に厳しいものだった。
同期練習員は新卒者を中心に約330名と多かったが、
希望によって艦船、航空機、補給3つの分隊に分けられさらに20名程度の班に分けられた。

教育隊に到着すると下着以外の制服や靴、作業服などが支給され、
制服へのアイロンのかけ方や、三角巾にもなるネクタイの結び方などを
、お客様待遇よろしく懇切丁寧に教えていただいた。
入隊式までの3日間ほどお客様待遇が続いた。

宣誓を主題とした入隊式が終えると正式に海上自衛隊員として2等海士という階級に任命され、
各自に固有の認識番号が与えられた。
私の認識番号はME00-147xx2(00の部分は都道府県ごとに決められた番号)だった。
これを刻印したペンダントを作りネックレスにしておくと、
万が一の場合は認識番号のみで個人が特定できる便利なものだった。

任命されるや否やお客様待遇は終わりを告げ、
教官たちは鬼教官と呼ばれるほどに急変する。
たとえば行進中に私語があっても式前は何も言われなかったが、
入隊式後に発見されるや即座に活を入れられ、罰として2kmほどのマラソンが全員に課せられた。
こうして半年にわたる基本教育訓練が始まった。

教育訓練の詳細についてはあまり記憶にないが、
座学(夜間に行われることが多い)では自衛艦や航空機の概要、
日本の歴史や戦争の歴史、国防、国際情勢、海軍の歴史、
消火器や小火機(ライフル銃)などの取り扱いと分解や組み立てなど、
実技では、礼式、カッター訓練、手旗信号、艦船火災消火訓練、艦船係留結索、
乗艦実習、砲弾の填法、水泳訓練、銃格(柔剣道)、柔道、マラソン、夜間行軍、
武山登山、ライフル射撃(200ヤード伏撃)、部隊実習、隊歌訓練などがあった。

時には言行不良などで旧海軍上がりの教官に殴られるものも出た。
しかし
「きおつけ~!!、歯を食いしばれ~!!」の号令で不動の姿勢になったところを体が飛ばされるほど殴られるが、
不思議と傷ができるようなことはなかった。
旧海軍の殴り方のようでコツがあるらしいということだが詳細は教えていただけなかった。

班員から一人でも秩序を乱す隊員が現れる必ず連帯責任となり、
班員全員が両足を高さ70cmの壁の上に乗せた腕立て伏せやマラソンやうさぎ跳びなどが課せられた。
毎日どこかの班がバッチョク(罰)を受けていた。
特にうさぎ跳びはきつく一気に足腰がやられる。
しかし教官は手を緩めない。
うさぎ跳びの翌朝は筋肉疲労で階段の上り下りもままならないほどになるが、
整列が遅いといっては再び罰を与えてくる。

起床は6時、消灯は22時だった。
体を使う訓練は毎日16時30分ごろには終了し、
19時まで夕食と風呂と自由時間があった。
PX(基地内売店)で買い物をしたりすることもできた。
また映画館もあり土日祝日には封切り物を見ることができた。

教育隊は小田和湾に面していた。
岸壁で波の音を聞きながら友と愛国心について激論を交わし、
かつ夢も語りあった。
まずは何とか大学卒業資格を得て内部幹部候補生選抜試験に合格し幹部自衛官になることで、
どちらが先になるか賭けをしたが、私は三年の任期満了で除隊してしまったが、
彼は内部幹部候補生試験からついには隊司令(軍隊で言えば大佐クラスの階級にあるものが任命される)にまでなった。

入隊して三ヶ月が経過したころ、私は歯科通院の帰途左膝に激痛を感じた。
翌日には腫れてしまったので隊内の医者にかかったところ精密検査が必要とのことだった。
(歯科医は隊内にいなかったので許可の上特別に通院できる、特に歯の治療に関しては航海の際に痛みが出てもすぐに陸に戻って治療することなどは不可能なため、完全に治療しておくことが求められた。事実、入隊時の身体検査の折、虫歯が数本発見された者は入隊が許可されず、隣の陸上自衛隊の教育隊に入隊した者もいた)

膝の炎症が原因で訓練教育期間中にもかかわらず、
海上自衛隊久里浜病院に入院することになってしまった。
膝関節炎で水がたまっているとのことだった。
関節炎の原因は柔道訓練のとき、投げ技を強引に返され二人の体重が左ひざにかかったために発症したのではないかとのことだった。

膝以外は元気そのもので病院では退屈をしていた。
膝の水を抜く治療は膝の皿の下に注射針を射して行うのだが、
麻酔は行われなかったため目の前が真っ暗になるほど痛かった。
二度目は麻酔を要求したが、
「男でしょう我慢しなさい」という婦長の言葉で却下されてしまった。
婦長は海上自衛隊では佐官クラスの幹部で、
新入隊員とは10階級もの差があったということを同じ病室の先輩に教えられた。

そんなある日、病棟の廊下からあの独特の花の香りが漂ってきた。
花を見る前にその名前はわかった。
田舎にいたときは強すぎる香りのためあまり好きではない花だった。
花の香りが漂い始めしばらくすると3人の子供たちが花を手に持って入ってきた。
山百合の花だった。売りに来たのだという。

確か一本50円程度だった。
私は花瓶の持ち合わせがなかったので買わなかったが、同室の上司が買った。
そしてなんとなく百合の話をしつつ田舎の話へと進んだ。
田舎の話から出身高校の話になったとき、
「えー、本当かい、参ったなぁ俺も卒業生だよ、こんな階級で会うなんて先輩として恥ずかしい限りだよ」・・・・
これほどの偶然は今までの人生の中でもこれ一度きりである。

先輩とは自衛隊の生活のことや田舎のことなどさまざまなことを話した。
そんな中で、「何かあったら遠慮なく相談に来いよ」という言葉がうれしかった。
それから数年賀状の交換はしたが、
私の任地である下総航空基地に彼が出張に来たときに偶然に出くわし挨拶を交わした程度で、
それ以上の親睦をはかるチャンスには恵まれなかった。

今年もまた山百合の咲く季節になった。

山百合を見るたびに先輩を思い出し、
高校時代に友と行った秋田旅行のとき奥羽本線のSL(当時、蒸気機関車は奥羽線などで運行されていた)の車窓から見た山百合などを思い出す。
自衛隊の先輩はいずれ田舎に帰ってお寺を継がなければといっていたので、
今は住職になっているのかもしれない。
この文章をしたためている今日は8月15日である。終戦記念日だがお盆でもある。

海軍五省
1.至誠に悖る(もとる)なかりしか
1.言行に恥ずるなかりしか
1.気力に缺(か)くるなかりしか
1.努力に憾 み(うらみ)なかりしか
1.不精に亘る(わたる)なかりし


写真は74期練習員41分隊。同期はこんなにいるのに除隊後に会ったのはただ一人だった。
彼は上級幹部になったが任官中に病死してしまった。いいやつだった。


追記
この原稿を脱稿したのは一ヶ月以上前だったが、修正などをしているうちに日がたってしまった。
朝早く夜遅い勤務のために投稿の時間も少なく、今日の投稿になった。
9月20日
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石楠花山道

2005年12月21日 | 花随想の記
 学生時代、アルバイト先の上司が計画した登山に何もわからぬまま参加したことがある。
 新宿駅発の夜行列車で仲間十数人と三ッ峠駅に降り立ったのは深夜の2時を回った頃だった。
 ひんやりと澄み切った夜の空気に冬の訪れを感じながら、静まり返った街中を歩いて三ッ峠登山道に入っていった。
本格的な登りに入る前に軽食タイムがあり、三々五々思い思いの時間を過ごしていた。

「あっ、流れ星」
女性が叫んだ。見上げると満天の星空だった。
 新月だったにも拘らず満天の星の明るさが登山道の木々を浮かび上がらせていた。
わずか一時間足らずの間に7~8個の流星が我々一行の頭上を飛んだ。若い女性の中には、手を合わせて一心に空を見ている者もいた。

 流星の感動に心を洗われた一行は、雑木林のような登山道をさらに登って行った。
登るにつれて東方の山の稜線がわかるほどに明るくなってきた。明るくなるにつれて登山道後方には富士山が姿をあらわしてきた。最初は黒い影に過ぎなかった富士山は夜明けとともに徐々に色を変え、やがて赤く染まった。

赤富士の出現だった。

 「すごい」「綺麗」「わおー」様々な形容の言葉と感動とも溜息ともつかない言葉が発せられた。リーダーの声で一行は足を止めしばし呆然と赤富士をながめていた。
三つ峠から河口湖河畔までの行程であったが、晩秋の山は澄み渡り、雲一点無い天候にも恵まれ私の初登山は終了した。

三ッ峠登山がきっかけとなり、登山が趣味の一つとなった。
登山中に雨が降ってきても、雲の切れ目から絶景が現われるかもしれないという期待があった。雨によって空気中のチリが洗われた後にはキレの良い光景が現れることが多かった。一日中雨であっても雨を楽しめるようになっていた。

 初登山から数年間、天気図の書き込みや気象の予測、非常食の調査や登山コースの設定や時間配分などを先輩から指導を受け、あるいは登山書を購読して独学していた。登山に関してあらゆる方面から検討するという手法は、その後のサラリーマン生活において企画立案や新規部門の開設などに大いに役立つこととなった。

 やがて転職し登山仲間も変っていったが、昇格する度に仕事も忙しくなり、年に一、二度の登山しか出来り遂には山登りを止めてしまった。その山行きの最後を締めくくったのが西沢渓谷だった。

 西沢渓谷は山梨県を流れる笛吹川の上流にあり、登山と言うにはやや物足りないが、山の気分は十分に満喫できるので人気があった。真冬には滝が全面凍結して氷のオブジェに包まれるのでニュースになることもある。

 男三人女二人のグループで新宿を早朝の電車で発ち、塩山にて下車、タクシーに乗り換え西沢渓谷の入り口である不動小屋に着いたのは午前十時頃だった。
小屋の前で身支度を整え、記念写真を一、二枚撮ってから沢の右岸から入っていった。

 左下からは沢を流れる水の心地よい音が聞こえていたがまもなく沢も見えてきた。沢の水は美しいコバルトブルーだった。それまでの登山で様々な川や谷川を見てきたが、コバルト色の流れは初めてだった。

 周りの緑に溶け込むことのない水の色は奇異と言えば奇異だったかもしれないが、見る者は一様に感動していた。
水の美しさの原因は鉱毒だった。明治時代、銅鉱石を採るための鉱山が上流にあり、その鉱毒が水に溶け込んでコバルトブルーの美しい光景を作り出していたのだった。

 水補給のため、西沢と東沢の合流地点から東沢に入り軽い食事をし、食後の珈琲も楽しんだ。珈琲と言ってもインスタントではなく、珈琲豆を挽いて持ってきたものをドリッパーで入れた本格的なものである。挽いた豆が一夜で酸化していたのだろう家で飲むほどの味は出なかったが、香りだけは周りに漂った。

 谷川の清水を汲んできて点てたコーヒーを、沢で生まれた満ち溢れるオゾンと小鳥の鳴き声や沢音に包まれながら飲むのは、喧騒の中で辟易暮らしていた私にとっては有り難く、小さいながらも最高の贅沢だった。

 間近に渓谷や滝を見ながら歩きつづけ、川幅がわずか数メートルとなったところで川を渡った。西沢を挟んで一周する折り返し地点だった。
 折り返し地点からは西沢にある数個の滝を俯瞰するように登山道が作られていた。登山道は材木などを運ぶために作られたトロッコの廃軌道だったとかで、所々に朽ち果てた枕木と錆びたレールが残っていた。

 西沢を一周して不動小屋も近くなってきた頃
「あっ、綺麗な花が咲いている」
と女性の声がした。
 指差す登山道の斜面を見ると、2m以上はあろうかと思われる樹に赤ピンク色の大ぶりの花が咲いていた。一枝に5,6輪つけた花は殆どが満開だった。

石楠花だった。



 ヤフー検索で調べたトロッコの由来。
この森林軌道跡は、西沢や東沢の木材や黒金山の銅鉱石搬出のために塩山駅まで敷設された全長36kmの三塩軌道で、昭和8年~43年まで利用されたという。軌道は西沢渓谷の迂回路にも結構きれいに残っており、途中には「トロッコの由来」と題された解説板もある


写真は石楠花の花。
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フリージア

2005年12月05日 | 花随想の記
学生時代、渋谷駅前にある大手不動産会社の印刷室でアルバイトをしていたことがある。

印刷室の仕事はアルバイト先の会社が請負っていて、
その派遣社員として配属されていたのである。
仲介物件の間取り図や物件案内図などのチラシを主に印刷していたが、
仕事そのものは楽なほうで、前日徹夜しても何とかこなすことが出来た。

当時は文芸創作が趣味で、
バイトが空けると一目散におんぼろアパートに帰り原稿用紙に向かっていた。
疲れた日などもあったが、眠ろうとして横になっても、
物語の主人公がまだ書けていないストリーを語りだすので、
再び机に向かうようなこともあった。ときにはインスピレーションの世界に入り込んでいて、
気づいたら出勤時間間際なんていうこともあった。

下請け会社は不動産会社と駅を挟んだ反対側の渋谷警察署のすぐ近くにあった。
そこで作業着に着替えてから印刷室に出勤し、
昼食時は再び戻り社員食堂で食事をしていた。

社員食堂は昼飯だけが用意されていたが、
おかず以外はお代わり自由でしかも無料だった。
アルバイト学生にとって一日一食とはいえバランスの取れた無料の食事は有難かった。
結局卒業までの三年間という長い間お世話になる結果となり、社員旅行などにも参加していた。

食堂は、もと担ぎ屋だった茨城の「おばあちゃん」が担当し、
肉や魚介類と調味料以外は全て自家生産されたものを持ってくるので、
野菜は新鮮だったしご飯も自家製の漬物も美味しかった。

毎週金曜日はカレーライスだったが、
大きなジャガイモの入った田舎カレーは抜群で、
職場で最も人気のある昼飯だった。
この日ばかりはお替りする人も多く「おばあちゃん」の昼飯がなくなることもあった。
それでも「おばあちゃん」は菓子パンなどをかじりながらニコニコとしていて、
食べてもらえたことに満足しているような人だった。

その日がカレーだったかどうかは覚えてないが、
食事を終えのんびりと渋谷駅前を仕事場に向っていた。

卒業式があったのだろうか、正面から袴姿の女性が三、四人歩いてきた。
美しくはでやかな格好はみんなの目をひくものであったし私も何気なく見ていた。

彼女たちとすれ違う直前だった。

「あっ」

「おっ」

とお互いに驚きともつかぬ声をあげ、間髪を入れず女性から

「Aさんでしょう、暫くぶりね」

「あっ、Tさんかぁ、ほんと久しぶり、この辺の大学だったんですか?」

「そうS女子大」

短い会話だったが、四年ぶりのあまりにも偶然の再会であった。

彼女とは高校時代の同級生で、
在学中の三年間混声合唱を中心に活動してきた音楽クラブの仲間だった。
進学校だったため部員は十五名程度で、
ある合唱祭では人が足りず他の部から何人か借り出したこともあった。
定期的に合唱大会やレクリェーション、
さらには女子高との交換会などをしていたので楽しかった思い出として残っている。

別れ際に彼女から黄色い花を戴いた。卒業式に戴いたものだろう。
初めて見る花だった。

「ありがとう、なんていう花 ?」

「フリージア! 伊豆の大島から来たようよ、いい香りがするでしょう。
東京はまだ寒いけど大島はもう春なのよね」

花に顔を近づけたら甘い香りに包まれた。

「ほんといい香りだ、ありがとう」

私は昼休時間が終わりに近づいていたし、
彼女は友人を待たせていたので話もそこそこに別れた。

その後彼女のことは忘れていたが、
数年後に母校から贈られてきた卒業生名簿で、
高校の教師をしていることを知った。
さらに数年後、
姪っ子が英語の先生としての彼女から授業を受けていることを知り、
結婚されていたことも知った。

貧しいが夢に燃え口角泡を飛ばし議論をしていた学生時代、
そんな時代に、渋谷の雑踏の中で始めてフリージアを知ったのである。
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