「彼は自分の精神も肉体も、今、此大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。その自然といふのは芥子粒程に小さい彼を無限の大きさで包んでゐる気体のやうな眼に感ぜられないものであるが、その中に溶けて行く、――それに還元される感じが言葉に表現できない程の快さであった」。これは『暗夜行路』の主人公が大山(だいせん)山中で力尽き、草叢で野宿する場面である。作者の気分には遠いものの、私たちも大山寺宿坊に泊まった。
伯耆富士と讃えられる大山の整った山容は海側から眺めたもので、それと全く異なる表情を見せたいという友人の計らいで、私たちは蒜山高原(岡山県)からこの山塊に近づいた。南側になるのだろうか、山頂は荒々しく削り取られた直後のように磐が露出し、緑の潤いは乏しい。巡礼登山者は沢に転がる石を持って登り、崩れた山に還して来る習わしがあると聞いたが、そうした脆い岩盤がまた、修験者を惹き付けて止まないのだろう。
標高は1709メートルと、さほどの高山ではないけれど、海からも望まれる独立峰として、大山は確かにその名にふさわしい。そのことが志賀直哉に『暗夜行路』のクライマックスをこの山中に求めさせたのだろう。読み返すと私の今回の旅は、鳥取から東郷池を経て大山にやって来た、時任謙作とほぼ同じ行程であると気づいた。謙作が通った大山寺の阿弥陀堂にわれわれも登り、彼が滞在した塔頭に近い宿坊を宿にしたのだった。
暗い家族関係が人格を蝕んでいく様子を、暗く書き続けるこの小説が私はどうも苦手だ。だが魂の彷徨を続ける謙作が大山にたどり着き「彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏み出したといふやうな事を考へてゐた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。然し、若し死ぬなら此儘死んでも少しも憾むところはないと思った」と、山独活、女郎花、吾亦紅などに囲まれて考えるくだりまで来ると、主人公と気分が一体になるのを感じる。
夜通し豪雨になった。山陰地方はこのところの集中豪雨で被害が続出しており、その雨雲が鳥取にもやって来たようだ。日中、私たちが景色を楽しんだ東郷池辺りは、住民に避難するよう呼びかけが始まったとテレビが騒いでいる。それでも翌朝、朝食を食べていると雨脚は弱まり、陽が射して来た。私にはこの日、「どうしても行きたい」と言い張っている地がある。山麓の伯耆町にある「植田正治写真美術館」で、そこを目指して出発する。
大正2年、現在の鳥取県境港市に生まれた植田は、旧制中学を卒業すると東京で短期間、写真学校に通い、帰郷して写真館を開業する。地方にあってアマチュア的活動を続け、たどり着いた「群像演出写真」は独特の構図で世界を驚かせる。舞台は鳥取砂丘、モデルは家族。鳥取のアマチュアが、世界の写真家になったのである。その作品を収蔵する美術館を、小さな町が建てた。窓から大山を正面に望む、魅惑的な写真美術館である。
植田の生誕100年ということで、特別展を開催中だった。写真学校の一行らしい学生たちが、熱心に鑑賞している。友人が窓辺でポーズをとり、私がカメラを構えると、若い女性が駆け寄って来て並んでポーズを決めた。思いがけない群像演出写真の完成である。「植田調」と呼ばれる作品に触れると、みんなそのマジックに感染してしまうらしい。女の子は何ごとも無かったように、澄ました顔で一行の列に戻って行った。(2013.7.31-8.1)
伯耆富士と讃えられる大山の整った山容は海側から眺めたもので、それと全く異なる表情を見せたいという友人の計らいで、私たちは蒜山高原(岡山県)からこの山塊に近づいた。南側になるのだろうか、山頂は荒々しく削り取られた直後のように磐が露出し、緑の潤いは乏しい。巡礼登山者は沢に転がる石を持って登り、崩れた山に還して来る習わしがあると聞いたが、そうした脆い岩盤がまた、修験者を惹き付けて止まないのだろう。
標高は1709メートルと、さほどの高山ではないけれど、海からも望まれる独立峰として、大山は確かにその名にふさわしい。そのことが志賀直哉に『暗夜行路』のクライマックスをこの山中に求めさせたのだろう。読み返すと私の今回の旅は、鳥取から東郷池を経て大山にやって来た、時任謙作とほぼ同じ行程であると気づいた。謙作が通った大山寺の阿弥陀堂にわれわれも登り、彼が滞在した塔頭に近い宿坊を宿にしたのだった。
暗い家族関係が人格を蝕んでいく様子を、暗く書き続けるこの小説が私はどうも苦手だ。だが魂の彷徨を続ける謙作が大山にたどり着き「彼は今、自分が一歩、永遠に通ずる路に踏み出したといふやうな事を考へてゐた。彼は少しも死の恐怖を感じなかった。然し、若し死ぬなら此儘死んでも少しも憾むところはないと思った」と、山独活、女郎花、吾亦紅などに囲まれて考えるくだりまで来ると、主人公と気分が一体になるのを感じる。
夜通し豪雨になった。山陰地方はこのところの集中豪雨で被害が続出しており、その雨雲が鳥取にもやって来たようだ。日中、私たちが景色を楽しんだ東郷池辺りは、住民に避難するよう呼びかけが始まったとテレビが騒いでいる。それでも翌朝、朝食を食べていると雨脚は弱まり、陽が射して来た。私にはこの日、「どうしても行きたい」と言い張っている地がある。山麓の伯耆町にある「植田正治写真美術館」で、そこを目指して出発する。
大正2年、現在の鳥取県境港市に生まれた植田は、旧制中学を卒業すると東京で短期間、写真学校に通い、帰郷して写真館を開業する。地方にあってアマチュア的活動を続け、たどり着いた「群像演出写真」は独特の構図で世界を驚かせる。舞台は鳥取砂丘、モデルは家族。鳥取のアマチュアが、世界の写真家になったのである。その作品を収蔵する美術館を、小さな町が建てた。窓から大山を正面に望む、魅惑的な写真美術館である。
植田の生誕100年ということで、特別展を開催中だった。写真学校の一行らしい学生たちが、熱心に鑑賞している。友人が窓辺でポーズをとり、私がカメラを構えると、若い女性が駆け寄って来て並んでポーズを決めた。思いがけない群像演出写真の完成である。「植田調」と呼ばれる作品に触れると、みんなそのマジックに感染してしまうらしい。女の子は何ごとも無かったように、澄ました顔で一行の列に戻って行った。(2013.7.31-8.1)
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