《日本史の奇跡》を問われたら、その一つに《足利学校》を挙げたい。世の中が猜疑心と陋習による悪意に満ちていた(ような印象がある)中世にあって、琉球からも学徒がやって来て、かのザビエルが「最大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介した《大学》がこの地方都市に存在したこと。そしてそこが「野山に働く人々も漢詩を口ずさむ風雅の都会」と讃えられる知的生活に満ちていたこと。これは、奇跡でなくて何であろう。
学問とは究極のソフトウエアであろうから、学校跡地というハードな史跡を訪ねてもその本質を学んだことにはならない。とはいえそれに代わるお近づきの方法が見当たらないから、近くの無料駐車場に車を停め、市街地裏の住宅街を抜けて史跡へと歩く。平日ながら、日本最古の大学を訪れる人は多く、まずは受け付けのビデオで一通りの歴史を確認している。私たちも《學校》の額が掲げられた門を潜って「校庭」に足を踏み入れた。
往事の規模をしのぶには余りにささやかな校庭であったが、全国から集まった学生が醸すキャンパスは、現代の大学より遥かにストイックなものであっただろう。私もまじめな気分になって、方丈に設けられた座卓に向かい《漢字試験》に挑んでみる。問題はスラスラと解け、自分の漢字力にうぬぼれたのだが、それは初級ということだった。上級試験は熟慮の末、辞退することにした。
足利学校の創建には諸説あって、古い説は8世紀に遡るらしいが、最も活況を呈したのは15世紀から江戸時代にかけてのこと。主要科目の易学をマスターすれば、戦国大名からその知識を求められた。つまり就職先には困らなかったわけで、全国の俊秀が集まることになったのだろう。それにしても、なぜ足利だったのか? 足利(=葦か處)は遠隔地だったろうに、全国に11カ所しかなかった高等教育機関が営まれたのはやはり奇跡だ。
これだけの文化遺産を持つ足利市なのだから、市が足利学校を再興したらいかがなものだろう。足利学校を改組する形で市立大学を設立し、足利学校の歴史を引き継ぐのだ。さすがに「易学」では学生が集まらないだろうから、大学の付属研究機関として「中世国学研究所」を開設し、足利学校の伝統的研究はそこに移管する。名称は《足利学校大学》でもいいかもしれない。「日本最古の大学」である。沿革は、東大など足元にも及ばない。
史跡保存事業で整備されたらしい庭園を歩きながら、こんな妄想を抱いたのは、盛時には学徒3000人が学んだと言われるキャンパスに思いを馳せ、この遺産を単なる観光地にしておくことが惜しいと思ったからである。学校の営みが現代に蘇ったら、どんなに素晴らしいか。
そうした思いは市民に間にも強くあるようで、専門家を招いての講座開講や、論語の素読会などが定期的に開かれているらしい。足利は今も「風雅の都会」というわけだ。学校前の孔子様通りから大日大門通りを抜けて、足利氏の居館跡だという鑁阿寺(ばんなじ)へと歩く。
石畳の道に添って、古裂を売る店やそば屋が並んでいて、お年寄りの小さな旅がよく似合う街並みだ。年寄りの自覚が無いわれわれが似合っていたか、それは分からない。足利は、たったこれだけの滞在だったから、街の雰囲気がつかめたとは言えない。ただボランティアらしい駐車場のおじいさんの道順説明は、帰路を急ぐわれわれに極めて適切だった。あのおじいさんも、日ごろ漢詩を口ずさむ、足利学校生の末裔だろう。(2010.3.17)
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