今日は、この街にいます。

昨日の街は、懐かしい記憶になった。そして・・

248 新界(中国)・・・香港のバックヤードは壁の中

2009-10-28 20:51:11 | 海外

香港では、ぜひ再訪したい《村》があった。24年前、香港駐在の同僚が「珍しいところを見せてやろう」と案内してくれた《村》で、その不思議さに呆然となった記憶が残っている。香港島からどうやって連れて行かれたかは全く覚えていないのだが、香港特別行政区の北部、錦田(Kam Tin)にある「吉慶園」だと見当をつけた。ホテルで道を訊ねると、「香港にはもっと見どころがたくさんあるのに」と、フロントのみんなが肩をすくめた。

英国による香港支配は、香港島割譲(1842年)、九龍半島南部割譲(1860年)、新界租借(1898年)と拡大して行く。だが九龍半島北部地域と周辺の島々を指す新界(New Territories)は、英国からみれば新しい支配地だとしても、ここに英国人が現れるずっと以前に客家(はっか)の集団が移住して来て、《村》を営んでいた。

支配者の威光が行き届かない僻遠の地だったからだろう、農民は夜盗の襲撃から自らを守るため、厚く高いレンガの壁を築いて《村》ごとその壁の中に押し込んだ。非常時にはただ一カ所の門を貝のように閉ざすという仕掛けの「城壁村」が、このあたりにはたくさんあったといい、今もその姿を残しているのが吉慶園である。「園」とは客家が営む「一族集落」のことで、中世以来、吉慶園には鄧一族が集い暮らして来たのだという。

城壁は40メートル四方程度の方形で、壁の高さは4メートルほどか。門と奥の廟を結ぶメインストリートこそ人が並んで歩けるけれど、そこから脇に延びる路地は人一人の歩行がやっとだ。薄暗い壁の内部に、蜘蛛の巣のように梁や柱がわたされ、わずかな空間に人がいて、そこが部屋であることが伺える。家と家の境がどこにあるのか、それすら定かでない。それが24年前。

門と外壁は昔と同じだ。しかし内部は様変わりし、ほとんどの家屋が3階建ての現代住宅に改築されていた。壁の中の区画は変更されていないから、狭い路地に面してアクロバットのような住居が建ち並んでいる。古いレンガ壁と新建材のミスマッチ。日当りなど、望むべくもない。これはこれでまた、昔とは違った異相である。

壁の中で生まれ、生涯を過ごし、子孫に姓をつないで行く。そこに中国の歴史の凄さを感じるけれど、それにしてもなぜ、改築までして壁の中で暮らし続けているのだろう。香港における土地所有はどのような仕組みか知らないが、壁の中は、先祖伝来の貴重な財産だからか。郵便受けに「鄧宅」と記した表札を掲げる家があった。

新界西部には近年、九広鉄道の西線が延伸され、元朗(Yuen Long)や屯門(Tuen Mun)といった街を結んでいる。元朗は英国が香港島を割譲する以前から、一帯の産物集積地としてにぎわっていたといい、今も中心部はたいへんな賑わいだ。人波をかき分けるようにして歩くしかない歩道で、ささやかな野菜を並べるおばあさんたちがいた。私が写真を撮った直後、警察官だろうか、制服の男性2人に追い立てられてしまった。


屯門は、東京でいえば多摩ニュータウンのような位置づけの街で、都心からの距離も似たようなものだ。人口が急増しているらしく、ひたすら高層マンションが林立している。その窓の一つ一つに暮らしがある。天を衝く住宅タワーを見上げていて、吉慶園の城壁村を縦に積み上げただけのことではないか、と気がついた。(2009.9.25)
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