職員室通信・600字の教育学

小高進の職員室通信 ①教育コミュニティ編 ②教師の授業修業編 ③日常行事編 ④主任会トピックス編 ⑤あれこれ特集記事編

暑ぅーて暑ぅーて、ホンマ、わし、もうアキマヘンわぁ~

2009-06-14 11:18:02 | Weblog


◆ある団体を退会するに際し、「カタログ式ギフト」を贈られる。
 プレゼントをいただくことは、ホンマ、うれしい。
 しかし、「イラナイ族」の典型であるわたしには、カタログのページを繰っても繰っても、自分のほしい「物」がない。

 この4月・5月・6月でも、購入した物というのは、①蟄居の象徴としての玄関灯=電球型蛍光灯1個 ②プリンター用インク 黒2個・カラー2個(2個セットのほうが安いから……)だけだ。

 繰っても繰っても、繰っても繰っても、結局、心を動かされなかったイラナイ族のわたしは、最終コーナーの「グルメ」ページから、ようやくのことで、この画像の「よこすか海軍カレー」を選択したのだった。

 1日おきに食べたら、7月の終わりまで海軍カレが食べられる。
 3日おきだと、お盆頃まで海軍カレーが食べられる。

◆昨日、レオンの墓にお参りし、シロツメクサを供えたあと、帰宅してハードディスク内からレオンの画像を探す。


 きょう、ここに提示するのは、レオンが亡くなる前の年(2006年)のものだ。
 この年になって、レオンの体力が急激に衰える。
 散歩のときも、わたしと並んで歩くことができなくなり、少しうしろからトボトボとついてくるようになる。
 大得意・大好きだった歩道橋の階段登りのもできなくなる。










◆次の画像も2006年で、8/9、庭師が庭の木々を剪定するため、レオンを玄関内に一時的に避難させたときのものだ。

★暑がるので、扇風機でカゼを送る。

★「暑くて暑くて、もうどうにもなりまへんわ」とパートナーに甘えるレオン。


★「ホンマにもうあきまへんわ」


レオンが亡くなって2年になるが、今でも、わたしはレオンの幻影と歩いている

2009-06-13 11:50:00 | Weblog

★きょうは、レオンの命日


◆ネットニュースをみていたら、トンデモナイ……ニュースに遭遇する。
 〈見出し〉
 「先生が12年間も無免許で車通勤…発覚後も学年末まで担任」(6月13日5時51分配信 読売新聞)
 〈ニュース概略〉
 「長野県波田町教委は12日、町立波田中学校の男性教諭(39)が1度も運転免許をとったことがないにもかかわらず、12年間にわたって車で通勤していたことを明らかにした。
 安曇野署は11日、教諭を道交法違反(無免許運転)容疑で地検松本支部に書類送検した。」

 わたしがトンデモナイといっているのは、このことではない。
 次にある校長の対応と、町教委教育長のコメントだ。

 「今年1月17日午後、安曇野市内で一時不停止で摘発され、無免許が発覚。教諭は翌18日、学校側に報告したが、同校では学年末まで、教諭を担任から外さず、教壇に立たせていた。他の教員や保護者にも説明しなかったという。(中略)記者会見した町教委の木下保雄教育長は、無免許運転が発覚した後も勤務を続けさせたことについて「3年生の学級担任で、進路指導をしていたので、生徒に動揺を与えないようにと考えた」と述べた。〈「概略」以上〉

 同じ教育界に身を置く者として、ことばもない。
 わたしは「正面突破主義」、こういう対応はしないが、百歩譲って、これまでの自分の人生の軌跡も踏まえて、「隠す」という選択もあり得る……としたとしよう。
 しかし、その場合は、それが発覚したとき、自分が全責任をとるという覚悟が必要だ。(この場合、とれるかどうか?だか……いや、詳細は避けるが、とれる……。)
 わたしの感覚では、今回のケースは、無免許通勤センセの罪も重いが、町教委教育長と校長のほうは、もっと重い。

◆最近、乱氏のHPの更新がない。
 休暇をとって旅行にでも出たのだろうか? それとも病気なのだろうか?……と思いめぐらしていたら、昨日、深夜になってメインページ「公西電鉄東平賀貝塚駅」に「病気療養中」というテロップが流れはじめた。
 テロップの下のデジカメ日記には〈体調不良。薬屋に行ったが、やたらと混んでいる〉とある。

 ああ、旅行ではなく、病気のようだ。

〈薬屋は半端じゃない混み方。2つのレジに100人近い人が並んでいる。
 ほとんどの人がトイレットぺーぺーを持って並んでいる。
 オイルショックかと思ったぞ?!
 おそらく、店の戦略で安いトイレットぺーぺーを目玉にしたのだろう。
 しかし、本末転倒だね。
 薬屋だろ。
 薬を買いに行った人がトイレットぺーぺーの客のせいで買えないなんて。
 しかも、店のもくろみがはずれて、ほとんどの客はトイレットぺーぺー1パックしか持ってないのだ。
 こんなのやめろよ!〉
 と、自己矛盾に無頓着・鈍感なご都合主義やポピュリズムを嫌う乱氏らしい物言いである。

 見舞いのつもりで、デジカメ日記とともに乱氏のHPの柱である「公西電鉄新松戸駅」と、「公西電鉄新真知山駅」を閲覧した。
 後者の「新真知山駅」には、乱氏の社会的経歴を含む、詳細なプロフィールが記録されている。

 「社会的な自分と本来の自分の融合」
 これは、ここ数年の、わたしのモットーの1つだ。
 最近、よく記述している「公的な側面の記述に私的な側面を含む方向にシフトする……云々」も、この一環だ。
 乱氏のHPに見る限り、畏友乱氏ほうが融合度が高いことに驚く。

 乱氏の早い快癒を祈りたい。

 ただし、この「融合」について、ひとつ断っておかなければならないのは、たとえば、わたしはよく経験するのだが、「社会的な自分に、いわゆる『本来の自分(らしいヤツ)』が混入し、まったくやる気がでない」とか、あるいは、「旅先にのみ存在する『本来の自分』が、枠組みが崩壊してしまい、常に傍らにつきまとって悪さをするようになった」とか……これは、あくまでも「混入」だ。
 「混入」と「融合」は違う。
 「混入オーライ」とすれば、もはや自分は「形骸」に過ぎない。
 以後、気をつけたい。


◆きょうはレオン(ゴールデンレトリバー 2007/6/13死亡 12歳と2ヵ月)の命日だ。
 12年間、「歩く」というのは、「レオンと歩く」ことだった。
 レオンが亡くなって2年になるが、今でも、わたしはレオンの幻影と歩いている。

 昼過ぎ、レオンの墓にお参りし、(レオンが好きだったかとうかは知らないが)シロツメクサを供える。


WEB無人駅線の旅〈JR八戸線〉の背後で、「ふたりっ子はん深夜特急」が、過去、現在、未来へと疾駆して

2009-06-12 13:36:06 | Weblog


◆このところ、精神の好不調の浪が激しい。

 みなみ在職時代は「好だ」「不調だ」などとはいっていられなかったが、みなみ退場後は、自分をカタチづくる外からの枠組みが一切ないから、「好もあり」「不調もあり」だ。
 きょうは、お天気のせいか、絶不調だ。

 小高進のWEB無人駅線の旅〈JR八戸線〉のトップページを改造する。
 きょうは、表紙をいじくっただけで、中味は、まだまだ、これからだ。
 現在、〈陸奥白浜〉〈金浜〉〈平内〉〈玉川〉〈陸中八木〉〈有家〉等に個々のページがあり、他はぜんぶ〈他の無人駅〉となっている。
 今後、〈陸奥湊〉〈白銀〉〈鮫〉〈大久喜〉〈大蛇〉〈階上〉〈角の浜〉等は、〈他の無人駅〉から独立させていくつもりだ。

 各無人駅をただ列挙するというのではなく、この「WEB無人駅線の旅〈JR八戸線〉」の背後で、(おなじみの?)「ふたりっ子はん深夜特急」が、過去から現在、未来へと疾駆していることが、よくわかるように編集していきたい。

  WEB無人駅線の旅〈JR八戸線〉


高村光太郎といっしょに「買い物ブギ」を聴く(●ゝω・)ゞラジャ⌒☆

2009-06-11 14:03:19 | Weblog


◆高村光太郎詩集(昭和39年:大和書房)

 ある文化祭バザー(1997)の担当者から「この売れ残った本は廃品回収業者に引き取ってもらいますから、もし、好きな本があったら、今のうちに持っていってください」と言われて、その廃棄物寸前の山の中から見つけたものだ。
 どうしてこの詩集が、こんなところにあるのか、シンジラレナイ……という気持ちだった。
 これをひとつのエピソードにして、子どもたちに全校朝会で「人間にとって価値とはなにか?」と題して話をしたことがある。(文章末に掲載)

 さしずめ、わたしは、この詩集に価値の光を当てた命の恩人゜・:,。★\('ー'*)♪ということになる。

 この詩集の編者である藤島宇内は13回ほど山小屋時代(昭和20年~27年)の光太郎を訪ねている。
 わたしも行きたいが、当時、わたしは0歳~4歳の頃だ。

 昭和20年10月=太田山口の山小屋に移る。
 昭和21年=「雪白く積めり」
 昭和22年=『高村光太郎詩集』鎌倉書房
 昭和23年=「山口より」(生野区のわたし0歳)
 昭和24年=「もしも智恵子が」(わたし1歳)
 昭和25年=『典型』中央公論社(わたし2歳)
 昭和26年=「岩盤に深く立て」(わたし3歳)
 昭和27年=青森県より十和田湖彫像依頼(わたし4歳)

 ラジオから、毎日、毎日、笠置シヅ子の「買物ブギ」が流れていたのを、かなりはっきりと覚えている。
 わたしにとっては、生きているのがイヤになるような憂鬱な声と旋律だったからだ。

 「今日は朝から私のお家は
 てんやわんやの大さわぎ
 盆と正月 いっしょに来たよな
 てんてこまいのいそがしさ
 何が何だかさっぱりわからず
 どれがどれだかさっぱりわからず
 何も聞かずに飛んでは来たけど
 何を買うやらどこで買うやら
 それがごっちゃになりまして
 わてほんまによういわんわ
 わてほんまによういわんわ」

 光太郎もラジオから流れる笠置シヅ子をきいたことだろう。
 ひょっしたら、太田山口と生野区で、いっしょに同じ放送をきいていたのかもしれない。

 こんなことを考えながら、きょうの昼食に、ひさしぶりにチキンラーメンを食べる。



◆わたしが最初に太田山口を訪れたのは昭和45年だから、光太郎が小屋を去ってから18年後だった。
 もしかしたら、裏山に光太郎が落としたボタンや切れた鼻緒なんかがあったかもしれない。
 今回は、光太郎が小屋を去ってから58年後。
 わたしが大学生のときに訪れてからでも、既に40年が経っている。
 「18年」も「58年」も「40年」も、意味が微妙に異なるので、同じ時間軸上に載せると、胸がきゅーッとなるようなヒズミが生じる。

「野をわたりくる大気芳し」「よき師」「よき友」の味がする

2009-06-10 17:28:17 | Weblog


◆昨夜、みなみの花梨酒をひとくち飲んで驚いた。
 昨年、10月下旬に2瓶つくった。(1.8リットル×2)
 1瓶目は、4月・5月で既に飲んでしまった。
 驚いたのは、2瓶目だ。
 お酒の味の表現方法を知らないので、うまく書けないが、何も書かないとまるで伝わらないので、少しだけ文字にするが、まず、まったく味が違う。
 1瓶目は、比較するものがないから、特になんとも思わずに、みなみのことを懐かしく思い出しながら飲んだのだけれど(2瓶目とくらべると)香りが足りない、……(トゲトゲしいとまではいわないけど、サラサラと)軽い感じ。
 2瓶目は、(1瓶目とくらべると)はるかにいい香りだ(←ああ、これが花梨酒の香りかぁ~という感じ)、……まろやかだし、……みなみの校歌にある「野をわたりくる大気芳し」「よき師」「よき友」の味がする。

 同じ日に、同じように作り、廊下の影に同じように保存してあった。
 違うのが、1瓶目は、保存期間6ヶ月。
 2瓶目は、7ヵ月。

 大切に飲みたい。
 だれにも飲ませない。


◆昨日、やっとのことで、(他の人からみれば、どうということはないのだろうが、本人=わたしにしてみれば、決着・妥協・折り合いをつけなくてはいけないことがいろいろあり、やっとやっと)WEB版「新版・職員室通信」第1号が完成した。
 中味というか、出来については、今は、あまり考えないことにする。
 まず、とにかく、1つのカタチにして、WEB上にアップできたということが大切で、これがでないと、次がないのだから……。

 これからは「銭形平次」と競争するつもりでやっていこうと思っている。
 原作、野村胡堂。
 昭和6年~昭和32まで383篇。
 原稿用紙にして約30000枚。
 大川橋蔵の銭形平次(橋蔵平次)。
 昭和41年~昭和59年まで888話。
 ほんとうに、どちらも、トンデモナイ話だ。

 野村胡堂は、読者に白内障であることを告げ、昭和32年8月に掲載された「鉄砲の音」をもって、27年に及ぶ、銭形平次の連載を終えている。
 大川橋蔵は、昨日も触れたように、888回目が終わった昭和59年の11月25日に入院(結腸ガン・肝臓に転移)、12月7日死去(享年55歳)。
 棺には平次用の十手と投げ銭がいれられた(「人間臨終図鑑」山田風太郎)そうである。

 この「銭形平次」と競争するのだ。
 1回、1回、次から次へと書いていく。
 書くことによって、前に進む。
 「前に進む」という言い方があいまいなら、せっせと書く、書くことだけが、よろこびだ。
 あるいは、野村胡堂や橋蔵平次の場合は、こうも言える。
 たえずつくること、たえず工夫すること、たえず、よりよいものをみている人に提供すること、これが生きがいだ、と。

◆1回、1回、ま、胡堂の原稿用紙だと80枚、TVドラマだと46分、ひとつのカタチに、ドンドン流し込むようにつくっていくというやり方が気に入っている。(ちなみに、昨日のわたしの第1号は原稿用紙11枚。)
 これとは違って、たとえば、先日、亡くなった栗本薫のヒロイック・ファンタジー小説のように、えんえん100巻を越えて書きつづけるというスタイルもある。
 つきつめると、どちらも同じなのかもしれないが、悲しいことにわたしの場合、「ドンドン流し込む」ことも、「えんえん100巻書きつづける」こともやったことがないからわからない。

 当面は、「ドンドン流し込む」スタイルでやっていきたい。
 「ドンドン流し込む」といっても、まだ、流し込む「カタチ」も、1回の量もはっきり決まっていないが、これも、せっせと書きつづけながら見つけていきたい。

 橋蔵平次の、悲しみも、よろこびも、孤独も、不運も、すべて包み込むラストシーンが、わたしは好きだった。
 次は、837話「花かるた殺人事件」のラストシーン、平次の家。

お静「万助ちゃんは、ほんとに今度のことでは辛い目に遭ったわね」
平次「あぁ、おそらく生まれて初めての試練だったろうよ。まぁ、父親にも口を閉ざして、お竜との約束を守ったんだ。ほんとによく耐えた」
お静「ねぇ、おまえさん、御褒美に今度、家へ呼んで、何か御馳走してあげましょうよ」
平次「おぅ、それがいい、うん」
八「でも、あんまりいいもの、食わせない方がいいですよ。万助の奴、ここにいついちゃいますよ。日頃、たいしたもん食ってませんからね」
お静「まぁ、八つあんたら、うふふ」
平次「な~んでぇ、おめぇのことじゃねぇか」
お静「うふふふ」
平次「アハハハ」

 わたしの「ラストシーン」も、早いうちに、なんとかしたい。


わたしの行政職(教育委員会)時代の画像

2009-06-10 12:01:05 | Weblog



★行政(教育委員会)時代の画像だ。
 2000年~2003年
 上の画像がわたしのデスクで、下の画像が、わたしのデスクのうしろの風景だ。

 3月になって、突然、行政に……という人もあるだろうが、わたしの場合は、30年近くの教職員生活者の勘で、なんとなく察知していた。
 2つの気持ちが存在した。
 1つは、行政に身を転じることで、教育現場で、にっちもさっちもいかなくなった「脱・教育の学校丸抱え体制」の教育改革を、市全体で、一歩でも前進させることができるかもしれない。
 もう1つは、教育現場でやっと着手しはじめた「授業参観記」をライフワークとしてつづけたい。

 前者が3、後者が7くらいだった。

 (今、ちょっと画像アップテストをやる……でも、なんかコメントを添えて……という感じでキーボードに向かったたげなのだが、こうして書いていると、また、悪いクセで、ズルズルと書きたくなった。でも、今はガマン……☆)メ゜皿゜)⌒"▼▼ ポロッ!!)


橋蔵平次と競争だ。野村胡堂と競争だ

2009-06-09 17:04:55 | Weblog


◆昨日も触れたように、きょうは、ひさしぶりに天気がよかったので、はなむけ号を列車に乗せて、JR八戸線の無人駅(角の浜・平内)を訪れようと思っていたら、朝、予想外の来客(←客が悪いのではない、うっかりしていたこちらが悪い)があり、出かけるタイミングを逸してしまった。

 そこで、ずっと以前から気になっていた「新版・職員室通信」のやりかけ作業を、一応、きょう、完成→アップまでもっていくことに予定を変更した。

 このことについて3点。

(1)「新版・職員室通信」にこだわるのは、前提として次のような認識がある。
 わたしの私的な側面の記述が弛緩している。
 わたしの公的な側面の記述が硬直している。
 この2つを連携・融合させることによって、豊かな作調を創出しよう……と考えている。
 その際、私的な側面の記述に公的な側面を含むという方向でもいいし、あるいは逆に、公的な側面の記述に私的な側面を含む方向でもいい……としていたが、どうも、前者はむずかしい……そこで、公的な側面の記述に私的な側面を含む方向にシフトすることにした。
 具体的なイメージとしては、教育に関する「通信」に依拠しつつ、記述全体の改善・改革を図ろう……ということだ。

(2)内容や編集方針について。
 もうくりかえさないが、これにはずいぶん迷った。
 迷いつつ、迷いつつ、ひとつの結論として、この「通信」を必要としているのは、ほかならぬ、このわたしだ。
 読者は「わたし」。
 この「わたし」のために、「わたし」が編集する……。
 このことをはっきりさせることによって、やっと、最初の一歩が踏み出せることになった。

(3)体裁について。
 これは、ホンマ、素人やから、内容以上に困ってしまった。
 題字にGIF画像などを使って凝ったものにすると、経験上、更新がめんどうだ。
 しかし、だからといって、罫線ばかりで作成すると、こちらが文字の大きさ=中で組み立てていて、閲覧する人も「中」でみてくれればいいが、志塚Tのように、常に「大」でみられると、画面が大きく崩れてしまう。
 そこで、罫線で組み立て、更新に手間がかからないやり方で、かつ、閲覧者が、文字サイズ中でみようと、大でみようと、こちらは大きく崩れない……ということを目標に作成した。

 発行がどのくらいの頻度になるかはまだわからないが、ガンガン、アップするつもりでいる。
 「わたし」以外の方も、ぜひ、ぜひ、ご覧いただきたい。(・O・)」オーイッ!!(^|0|^) オーイ!!

  新版・職員室通信は、こちら


★銭形平次(橋蔵平次)は、1966~1984まで888話放送されている。
 5日に1本という重労働。
 もちろん、他にも舞台公演などもあるかに、ほとんど休みがない。
 撮影時、よくセットの片隅で、椅子に腰かけ、顔に布をかぶって眠っていたそうだ。
 888回目が終わった1984年11月25日入院(結腸ガン。肝臓に転移)。12月7日死去(享年55歳)。
 医師に「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気をつかい、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、なぜこんな病気になったんです」といったそうだ。

 野村胡堂&橋蔵平次と競争だ。

◆お好み焼き修業に手ごたえ。
 現在、修業として、調味料などは極力使わないようにして、
 〈材料〉お好み焼き・豚玉(1人分)
 ①薄力粉30g+強力粉20g=合計50g
 ②ベーキングパウダー少々
 ③ミネラルウォーター50㏄
 ④キャベツ150g
 ⑤紅しょうが少々
 ⑥乾燥エビ少々
 ⑥卵1個
 ⑦天かす少々
 ⑧豚バラ薄切り肉3枚
 ⑨青ノリ
 ⑩ソース
 これだけで、「おお、おいしい」と思える、超ベーシックな「豚玉」を究めようとしているが、昨日、やや手ごたえがあり、「これが大阪のお好み焼きじゃ」に一歩近づくことができたと、よろこんでいる。

 外サクサク感あり。
 焼いた小麦粉が香ばしい。
 中ホカホカ感あり。
 よく蒸されたキャベツがおいしい。
 例外的に使用されている紅ショウガが、よく効いていくる。

 前回、焼きが中途半端だったところを、今回は、こげる寸前、ギリギリまで焼いたこと。
 前回、厚く焼いたので、今回は、5ミリほど薄く焼いたこと……などがよかったのだろう。
 食べながら「思想」を強く感じた。

 次回(今夜)は下記の3点に注意したい。
①薄力粉と強力粉の割合を変えてみる。
②ベーキングパウダーが(まんべんなく混じっていないように感じるので)薄力粉や強力粉に直接混ぜるのではなく、以前のように、水に溶かしてから混ぜるようにする。
③ついつい時計や(あるいは)TVの隅に出ている時間に頼ってしまうので、時計にはいっさい頼らないで焼く。

 お好み焼き修業はまだまだつつぎまっせ。


「これ、千早にみせると、キャッキャッと喜ぶだろうな」と思いました。

2009-06-08 21:15:10 | Weblog

★みなみ退場後、まだ一度も無人駅線の旅に出ていない。少し落ち着いたので、明日あたり、平内駅のネコに会いに行こうと思っている。

◆この月のはじめに「6月になると、からだにカチッとスイッチが入る」と書いた。
 そのとき、そのわけもいっしょに記述しようとして……頭のなかでいくつかのエピソードを想い起こしてみた。
 2つのエピソードが3つになり、4つになり、5つになり……というふうに明確に意識化させていくという操作を連ねていくうちに、「6月にスイッチが入る」というのは、もう自分のDNA構造のようなものなのではないか?
 もし、そうだとすると、とても適切に説明できるとは思えないし、かりにいくつか説明したとしても、それが全体のどのくらいの部分なのか?がわからない。
 ということで、そのときは、やめたのだった。

 でも、やはり記述することにした。
 きっと「役立たない書きかけの内容です」という、この「600字の教育学」全体をつらぬく、重要なコンセプトに後押しされているのだろう。

◆わけとして、はっきりしていることが1つある。
 江藤淳氏の自刃と関係がある。
 江藤氏の命日は7/21。
 自刃の次の年から、わたしは7月を氏の弔い月間とした。
 なにをするのかというと、この期間の自分の記述に、意識的に氏の記述を取り入れるのだ。
 いわば本歌取りだ。(本歌取りだから、いちいち「引用」とは断らない。)
 例をあげると、6/1の「つくばい」がそうだ。
 江藤氏の庭につくばいはあるが、わたしの庭にそんなものはない。
 あるのは、レオン(ゴールデンレトリバー 2007/6/13死亡 12歳と2ヵ月)の形見の水飲みボウルだ。
 つくばいの水を何度も何度もくみ出して洗ったのが江藤淳氏で、わたしは、レオンの水飲みボウルを何度も何度も洗った。
 引用ではなく、氏の記述を本歌取りする。
 これが氏の供養だ……と考えている。
 しばらくは7/1~7/21を弔い期間にしていたのだが、この日数ではとても供養しきれないので、いつ頃からか1ヵ月繰り上げて、6/1~7/21とした。
 これが「6月になると、からだにカチッとスイッチが入る」、ひとつの理由だ。

◆もうひとつは、伊東静雄の詩句だ。
 〈耐えがたければわれ空に投げうつ水中花。
  金魚の影もそこにひらめきつ。
  すべてのものはわれにむかいて
  死ねという、
  わが水無月のなどかくはうつくしき〉
 これがスイッチと連動していることはまちがいない。

 自分の記述の層(←わたしの場合、「日記」ではない。口では「日記」といっているのだが、厳密にはわたしに「日記」は存在しない。存在するのは記述の「層」)の、どの年の6月を取り出しても、金太郎飴のように〈わが水無月のなどかくはうつくしき〉が登場する。

 次の記述は、1983/6に、教え子に宛てた手紙の下書きだ。(わたしの仕事がデジタル化するのが1982年のことだ。)
    ★
 お手紙ありがとう。
 A(←教え子のイニシャルとする)の悩み……高校のこと、友人のこと、家のこと、それが今回の決断に結びついたこと……と、Aの精神の状態を、僕のうちで、ごくごく大雑把になぞってみました。
 なぞりながら、無意識のうちに、自分の心の状態とかさねあわせていました。
 わたしの仕事のこと、友人?のこと、家のこと、オートバイのこと。
 15、6歳のAと、30歳を越えた男の悩みの質が違うのはあたりまえですが、パターンとその重さは似ているものですね。

 〈すべてのものはわれにむかいて
  死ねという、
  わが水無月のなどかくはうつくしき〉
 この頃、授業を終え、職員室の自分の椅子に座ろうとするとき、ガラス窓の向こうにある木々の濃い緑と、曇った6月の空が目に入ります。
 腰を下ろし、スタンプ台、集団行動訓練実施要項のプリント、ホチキス、画鋲、変色した職員会議資料などが散らかった机に頬づえをつくと、目の前に存在する、湿気をふくんだ6月の風景と解け合うように〈すべてのものは……〉の詩句が、音もなく、かすかな痛みをともないつつ、僕の頭のなかにひろがっていきます。
 はかどらない、プライベートな仕事が原因かもしれません。
 ①才能がないのだから「二流」「亜流」「ものまね」に徹してやっていこう。
 ②しかし、すぐその「決意?」を忘れ、もがく。「生の声」をオートマチックに、しなやかに、のびやかに文章化できたらと夢みる。
 ③再び、でも、お前に「生の声」などあるのだろうか? 着色された、すすけたガラスや、借り物のレンズを通した「声」「感覚」しかないのではないか?
 ④だから、「二流」いや「三流」に徹するのではないのか……。
 ここ2、3年、こうやって①→②→③→④……と、僕は同じ円周上をノロノロまわっているだけのようです。
 「とにかく教師をやっている場合ではない」→「けど、やめてどうするんだ、やっていけるのか」→「でも、このまま40歳、50歳になりたくない」……これも同じサイクルはまっていますね。
 ですから、Aの「今の自分を素直に書きたい」とか「電話だと、ひねくれた言い方しかできないような気がしたのです」とかということばは、僕の頭に痛みをともなってひろがっていく詩句と同じように、僕がクルクルまわっている円の中心に突き刺さりました。

 先日、僕の母校である高等学校から、ぶ厚い同窓会名簿が送られてきました。
 ページを繰り、友人の名前を探しました。
 見知らぬ先輩、後輩、数限りない高校生群。
 2時間くらいも見つづけました。
 そうしているうちに、「自分は、この十数年間、なにをやってきたのか」と、グジュグジュ考え込んでしまいました。
 いい加減な生き方をしたとは思いません。
 失敗の連続だったけれど、その時、その時、精一杯でした。
 でも、「もっと本気に生きることができたのでは……」という後悔があることはたしかです。
 この後悔の連なりを、今、自分にぶっつけています。

 あなたは笑うかもしれませんが、Aからのペンギンの便箋をみたとき、「これ、千早にみせると、キャッキャッと喜ぶだろうな」と思いました。
 赤ん坊をもった男の退歩でしょうか。
 お元気で。(「教え子Aへの手紙」以上)
    ★


平岡さんは、この頃、とても元気ですね。やっぱり男の子が生まれたからですかね。えらいもんですね

2009-06-07 21:05:02 | Weblog

★根岸時代(1975~1977)、半分ふてくされて、しかし、半分居直って、毎週、野村胡堂『銭形平次』を観ながら、島田ピーナッツを摘み、ビールを飲んでいた。画像をみていると「男だったら 一つにかける かけてもつれた 謎をとく」という主題歌がきこえてきて涙ぐんでしまう。・゜・(*ノД`*)・゜・。。帰りたいと思う、数少ない人生のポイントやね。

◆前々回、ブログの記述終了間際に、これは「今後の自分のための〈書きかけ……書きっぱなしのメモ〉です」というようなことを口走ったがm(_ _"m)、これは、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』の中によく登場する「この『○○○』は、まだ閲覧者の調べものの参考としては役立たない書きかけ項目です」が頭をかすめたからだ。
 口走ったあと、「役立たない書きかけの内容です」というのは、『ウィキペディア』では単なるただし書きにすぎないが、この「600字の教育学」では、全体をつらぬく、重要なコンセプトになり得る……ということに気がついた。

 きょうは、まず前々回の書きかけのつづきから書くことにする。
 前々回では、まず、加藤典洋氏の分類案を提示した。

(1)「ねじれ」感覚有り=無頼派……太宰治、坂口安吾等
(2)「ねじれ」感覚有り=旧プロレタリア……中野重治等
(3)「ねじれ」感覚無し=戦後文学派……三島由紀夫、島尾敏雄等

 次に、その一部を否定して、わたしの分類案を提示した。

(1)「ほろび」感覚有り=深い挫折感、あるいは一種の解体現象……伊東静雄
(2)「ほろび」感覚有り=(太宰ファンの人、怒らんとしてくださいね)「ホロピ」の歌をうたって、暗く生きて(デカダンス)、どこかに他人が声をかけてくれないかという期待を隠しているタイプ……太宰治
(3)「ほろび」感覚無し=勝者から「精神の武器」を護持しよう……高村光太郎
(4)「ほろび」感覚無し=(加藤氏の「ねじれ」感覚無し)……戦後文学派

 加藤案とわたしの案を組み合わせると、次のようになる。

(1)「ほろび」感覚有り+「ねじれ」感覚無し
  =深い挫折感、あるいは一種の解体現象……伊東静雄
(2)「ほろび」感覚有り+「ねじれ」感覚無し
  =(太宰ファンの人、怒らんとしてくださいね)「ホロピ」の歌をうたって、暗く生きて(デカダンス)、どこかに他人が声をかけてくれないかという期待を隠しているタイプ……太宰治
(3)「ほろび」感覚無し+「ねじれ」感覚有り=強制的にやってくる勝者の文化から「精神の武器」を護持しよう……高村光太郎
(4)「ほろび」感覚無し+「ねじれ」感覚無し=(加藤氏のいう)戦後文学派

 2つの案の合体を可能にするには、加藤案の中核である「ねじれ」感覚有り=太宰治……を否定しなければならなかった。

◆このことについて、3点述べる。
 まず、第1点。
 大学時代のわたしは、(1)「ほろび」感覚有り+「ねじれ」感覚無し=伊東静雄:時代思潮の指導者としてでなく、地味な市井の一生活者として、敗戦の痛手で、深い挫折感に打ちひしがれるという詩人像と、(3)「ほろび」感覚無し+「ねじれ」感覚有り=高村光太郎:時代思潮の指導者として、強制的に占領してくる勝者の文化から「精神の武器」を護持しようする詩人像とを、対比的にとらえ、そのうえで、伊東静雄の哀しみと喪失感を理解することで「諒とする」ことにした。

 見る人が見れば、当時のわたしの精神構造は、図式的に、粗くいえば、伊東静雄が近藤勇的で、高村光太郎が土方歳三的ヾ(@°▽°@)ノあハハ……と言われるかもしれないが、ま、それで大きくははずれていないのかもしれないヾ(@°▽°@)ノあハハ。

◆第2点。
 以前、中期(『富嶽百景』『老ハイデルベルヒ』)から、後期(『斜陽』『人間失格』)への太宰治の変貌が、どうしても解せない……と書いたことがある。
 「解せない」は「許せない」と置き換えてもいい。
 しかし、(これこそ「書きかけ」の「書きかけ」になるかもしれないが……)「変貌」の理由の中核に、大東亜戦争敗戦の痛手 → その対症療法としての「ホロビ」の歌 → 「ホロビ」の歌に追い立てられるように玉川入水自殺……と考えれば、伊東静雄へのわたしの理解の仕方を諒としたように、太宰治の「変貌」に対する理解も諒とできるかもしれない。

◆第3点。
 大学時代、伊東静雄への理解に対して「諒とした」のは、あくまでも、提出期限が迫ってきた卒業論文を終結、決着、落着させるための精神上の操作であって、決してわたしの魂の内側で、そのすべてが完了したというわけではなかった。

 今、手元に(←と軽くいっているが、実際は屋根裏部屋の段ボール箱から、やっとのことで探し当てた)、卒業論文とは別に、『反響』という、わたしが大学時代に書いた、原稿用紙にして100枚くらいの小説がある。
 伊東静雄に『わがひとに与ふる哀歌』(1935年)、『夏花』(1940年、『春のいそぎ』(1943年)、『反響』(1947年)という4つの詩集があるが、小説の題は、4番目の詩集からとっている。
 魂の内側で決着させるために、生前「広い庭のある田舎の家の座敷で、毎日の日課に、1枚、2枚と小説……というより、世のさま、家の内、わが感想など書きつぐ仕事がしたい」(1943年)と願いつづけた詩人に代わって、(大学生の)わたしが、伊東静雄の詩、静雄の残した散文・日記、および諸家による伊東静雄論をもとに挑戦した小説だ。
 作調は、静雄が将来の日本語はかくあるべしとした「できるだけ少なく語の種類を使って、こまかいところまであらわせる国語」をイメージした。
 通常、「言う」と表現するときは、状況によって、しゃべる、語る、滑らせる、口にする、口をついてでる、口を開く、触れる、ま、あるいは「○○○」と笑った……等々、いろいろに使いわけるわけだが、小説では極限にまで語の種類を減らすという操作をしたことを覚えている。
 『反響』の一部を抜粋する。

 (前略)「あっちゃんはどうしてる?」
 「あっちゃんはまだ寝てるの」
 「赤ん坊はいいなぁ、寝たいだけ寝られるから」
 と平岡は笑った。
 あっちゃんというのは男の子で、去年の11月25日に王寺の町の病院で生まれた(王寺というのは、東のケーブルカーで下りていったところにある町だ)。
 「もうすぐ生まれる」
 というので、平岡と女の子は、病院に行き、
 「こんどは男の子かな、女の子かな、男の子かもしれないな」
 といっていたら、男の赤ん坊だった。
 「まあちゃん、生まれたよ、男の子だって」
 といったら、女の子も手をたたいてよろこんだ。

 夜は、毎日、女の子と病院へ行った。
 赤ん坊がいつ行っても眠っているものだから、女の子はたよりながって、さかんに起こして抱きたがる。
 それを看護婦に叱られてから、
 「もう、まあ子、病院にいかない」
 といいだした。

 赤ん坊の30日目とは、なるほど、よくいったもので、寝ながら、自由に顔の向きを回転するようになった。
 手もよく動かし、頭や顔に持っていく。
 視線もこちらの顔の移動につれて、動かしていく。
 女の子はたいへんおもしろがって、
 「あっちゃん、あっちゃん」
 といいながら、自分の身体を右から左、左から右へと動かして、よろこんでいる。
 「あっちゃんが見えるようになったんだから、まあちゃんも、いいことをしてみせないと、あっちゃん、悪い子になってしまうよ」
 といったら、
 「うん!」
 と、うなずいている。
 女の子はずいぶんねえさんらしい振るまいをするようになった。
 平岡も、平岡が勤めている学校で、
 「平岡さんは、この頃、とても元気ですね。やっぱり男の子が生まれたからですかね。えらいもんですね」
 などと冷やかされている。(後略)

 静雄の「日記」から忠実にひろいあげながら、20年後の時点(昭和40年代)に静雄空間を創出しようとしている。
 この『反響』の前後の『おかえりのうた』や『くまさんにお聞き~ラストポーズ№9』も連作と考えれば、400枚くらいの作品になる。
 普通の大学生にとっては、シンドイ話だった。
 新聞社からも雑誌社からも同人たちからも、酷評されつづけたけれども、志としてはもっとも高かった時代だ。

 大学生のわたしのこまかなたくらみは、もうほとんど忘れたが、あっちゃんが生まれた日を三島由紀夫の命日に設定したことは覚えている。

 そうだ、この作品を高く評価してくれたヤツがひとりたげいる。
 卒業論文に三島由紀夫をとりあげた友人T(故人)だ。
 Tのことは、また、いつか書きたい。


お好み焼き修業。わしもお好み焼きロボット君と競争や。おいしいお好み焼きを焼きまっせ。

2009-06-06 13:06:09 | Weblog

★お好み焼き修業中のお好み焼きロボット君。わしも、ロボット君と競争や。もっともっとおいしいお好み焼きを焼きまっせ((((BOM!))))


◆お好み焼き修業。

 これまでお好み焼きを焼くときには、もちろん、コンブだしやうどんだし用削り節を使ってきたし、調味料として、あるいは、隠し味として、いろいろ(ま、ぜんぶ、いっぺんに使うというわけではないが……)塩コショウ、ハイミー、砂糖、牛乳、蜂蜜、野菜ジュース、バター……等々を使ってきた。
 たしかに、おいしいといえばおいしいが、徐々に、なんだかよくわからない味になってきた。
 そこで、今回、調味料は全部やめて、超ベーシックな「豚玉」を究めることにした。

 〈材料〉お好み焼き・豚玉(1人分)
 ①薄力粉30g+強力粉20g=合計50g
 ②ベーキングパウダー少々
 ③ミネラルウォーター50㏄
 ④キャベツ150g
 ⑤紅しょうが少々
 ⑥乾燥エビ少々
 ⑥卵1個
 ⑦天かす少々
 ⑧豚バラ薄切り肉3枚
 ⑨青ノリ
 ⑩ソース

 これだけで焼く。

 250℃の鉄板に薄く油を塗り、生地を流し込んで、6分間焼く。(これまで、このホームページのレシピには、「210℃~220℃に温めて」といってきたが、家庭用ホットプレートで、220℃というのは、やや低すぎる。)
 焼いているあいだに、表面に天かすを散りばめ、その上に豚バラを並べる。
 ひっくり返して、また6分間焼く。
 このとき、豚バラから出てくる油を徹底的にふき取る。
 さらにひっくりかえして4分間焼く。
 表に薄くソースを塗り、青ノリをふりかけて、完成。

 結論をいえば、味は、予想どおり、あまりおいしくなかった。
 ただ、この材料だけで(調味料なしで)、ああ、焼いた小麦粉が香ばしい、焼いたキャベツがおいしい、ああ、ソースがいい香りだ……というようなお好み焼きを焼いてみたい……と思っている。

 〈反省点〉
(1)もっともっとこんがりと、カリッと焼きあげるべきだろう。焼き方が少し足りなかった。
(2)いつも通り、厚さ2㎝で焼いたが、もっと薄く焼いたほうがよかったかもしれない。


微調整が必要だ!!.....((((((○゜ε゜○)ノ~~ |出口|

2009-06-06 10:35:08 | Weblog

★画像は、高村光太郎の小屋(7坪半)の内部。

 光太郎は昭和20年~27年まで、ここで独居・農耕自炊生活を送る。
 この囲炉裏がある板の間の奥(左側)に3畳ほどの畳が敷いてある。
 真冬は氷点下20度まで下がる。

 イメージとして、自分(=小高)の魂は、こういう空間に存在させたいのだが、現実の空間は、なんだか、お子ちゃまの趣味空間。
 微調整が必要だ!!....微調整が必要だ!!.((((((○゜ε゜○)ノ~~ |出口|と、ひとりで口のうちで叫んでいる。

「ねじれ」感覚の有無と「ほろび」感覚の有無の組み合わせ

2009-06-04 16:14:45 | Weblog

★早朝、2日に1回程度、根城城址を散歩している。はなむけ号で往復10分、城址内散歩20分 合計30分くらい。この画像は、表門(城門・広場入口)をくぐって、すぐ右を下りた道。ここが散歩のスタート地点。


◆朝、新聞を読むときは、まず、テレビの「番組欄」から見る。
 興味のある番組を、赤ペンでドンドン囲んでいく。
 テレビは、ニュース以外は、まず観ないのだから、ドンドン囲んでもほとんど意味がないのだけれども……。
 その日(5/31)、赤ペンでマークした番組は、次の4つだ。
 たまたま全部、NHK教育の番組だった。
☆07:00 再放送:特集「歌人の肖像 茂吉・晶子」
☆09:00 日曜美術館「“混浴”するアート 別府現代芸術フェスティバル」
☆20:00 日曜美術館「建物の品格 建築家ヴォーリズの“愛される洋館”」
☆21:00 オーケストラの森 -山形交響楽団 第197回定期演奏会- 「スペイン交響曲 ニ短調 作品21から 第1、2、4、5楽章」ラロ作曲・「交響曲 第2番 イ長調から 第1、4楽章」カリンニコフ作曲 ~山形テルサ・テルサホールで録画~

 今、わたしのテレビはアナログだが、画面がクッキリとした地デジで、こういう番組を1日じゅう、みているというのもいいものだなぁ~と、ふと思う。
 ただし、結局は、やはり、どの番組もみなかった。


★散歩の途中で牡丹の花を発見。周囲の緑の風景からクッキリと浮かびあがって、ま、やはりきれいなものはきれいだ。素直になろうと思う。

 「テレビ番組欄」の次は、1面だ。
 1面から35面まで、順々に、パラパラと拾い読みしていく。
 1面から2面にかけての「地球を読む」は、北岡伸一氏の「国民と国家 利益は一致」という記事。
 通常、この「地球を読む」は一瞥して、瞬時に読むか読まないかを決める。
 この日のテーマ「国民と国家 利益は一致」をみて、いったん記事から目を離し、他を読み始め、あれ?と再び目を戻し、離し、戻し、結局、北岡氏の記述に引き込まれていった。
 筆者紹介欄をみると、立教大助教授~プリンストン大客員研究員~立教大教授~東京大教授~国連大使~東京大教授……という経歴で、年齢からいえば、わたしと同世代である。

 目を離し、戻しをくりかえしたのは、記事のテーマそのものにはあまり興味がなかったのだが、氏があげる具体例に興味をひかれ、かつ、共感するところが少なくなかったからである。
 その主な具体例を列挙する。

(1)北方領土に関して3.5島返還案は、最終的な案としては、それほど悪いものだとは思えない。
(2)竹島問題について、私は日本が正しく、韓国の立場は誤りだと思うが、日韓関係をぶち壊してでも、竹島を取り戻すべきだとは考えない。
(3)ソマリア沖への海上自衛隊護衛鑑派遣は、日本の艦船、船員、貨物を守り、国際秩序の維持に貢献して、まったく問題ない行動なのに、随分無駄な議論が多かった。
(4)自民党は公明党に遠慮し、民主党は社民党に配慮することにより、中道よりも、むしろ極端な声が強く反映されている。今は非常時である。総選挙後には、非常時を乗り切るため、2大政党間に大連立または協力関係を樹立して、常識的な路線を、断固として歩むことが望ましい。

 もちろん、すべてに同意というわけではない。
 特に(4)の2大政党間大連立、協力関係は反対だ。
 「極端な声」が排除され、「常識的な路線」が見出せるかもしれないが、「遠慮」と「配慮」の量は、むしろ増大し、日本は自らの手を縛ることになり、それこそ国益を損なってしまうだろう。
 念のために、あちこちで何度も何度も話題にしているのであるが、わたしのシナリオ(妄想)を提示しておく。
 第1段階 衆院選 自民VS.民主。自民大敗。
 第2段階 自公連立解消。
 第3段階 安倍晋三復活。
 第4段階 安倍自民と民主右派(民主右派に期待するのはアンポンタンという声もあるが……)連立政権。もちろん、自動的に民主分裂。


★木立がうっそうと茂った道を抜けると、ここに出る。右が根城下町。正面に小さく見える白いものが、本丸の柵だ。

 もう1つ、北岡氏の説に違和感をもつのが、氏が冒頭部分で例示して述べている「昭和16年(1941年)日米開戦は、国益にかなうことだったのか。もちろん否である。国家の利益にとっても国民の利益にとっても、それは大失敗だった。昭和20年8月に戦争をやめることは、国家にとっても、国民にとっても利益だった」という部分である。
 では、「開戦」しなければ、「国益にかなうこと」になるのか?
 開戦しないということは、ハル・ノートをそのまま受け入れることである。
 ハル・ノートを受け入れれば、戦争はしなくともすんだだろう。
 しかし、(詳細は端折るが)ハル・ノートを受け入れれば、戦争してぜんぶ負けたのと同じ結果になる。
 加えて、氏自身が述べている「国益の名のもとに国民の利益が抑圧された戦前」の大日本帝国が存続するのである。
 極端なことをいうようだが、戦争をしておいたために、まだ日本はもっているともいえる。
 このことは絶対に忘れてはいけない。
 また、氏は「昭和20年8月に戦争をやめ」たといっているが、あれは、どうみても「やめた」とはいえないのではないか。
 わたしは、戦争をして、最後まで戦った……最後まで戦ったから今の日本がある……というとらえかたをしている。

◆話を飛躍させるようだが、(でも、わたしに欠けているのは「飛躍」「非連続」の自由さだ……)こういうことをいっていたら、太宰の『冬の花火』を思い出した。

〈数枝〉:(両手の爪を見ながら、ひとりごとのように)負けた、負けたと言うけれども、あたしは、そうじゃないと思うわ。ほろんだのよ。滅亡しちゃったのよ。日本の国の隅から隅まで占領されて、あたしたちは、ひとり残らず捕虜なのに、それをまあ、恥かしいとも思わずに、田舎の人たちったら、馬鹿だわねえ、いままでどおりの生活がいつまでも続くとでも思っているのかしら、相変らず、よそのひとの悪口ばかり言いながら、寝て起きて食べて、ひとを見たら泥棒と思って、(また低く異様に笑う)まあいったい何のために生きているのでしょう。まったく、不思議だわ。

 これを、太宰が時代の「ねじれ」を直覚し、それをなんとか構造としてとらえようとしている……という人(加藤典洋氏)がある。(これ以降は、粗い、メモ程度の記述になることをお詫びする。後日の、この「メモ」をもとに、きちんと記述したいが……。)

 この「ねじれ」というのは、粗く2つ。
 1つは、武力による威嚇のもとに押しつけられたという憲法の手にされ方と、その憲法の内容(他ノ国民トノ紛争解決ノ手段トシテ武力ノ威嚇又ハ使用ハ永久ニ之ヲ廃棄ス)との「ねじれ」
 もう1つは、勝者の強圧下に「押しつけられ」ているにすぎないのに、「この価値を否定できない」と自分で感じているという「ねじれ」

 加藤氏は、戦後の文学をこの「ねじれ」感覚の有無で、次の3つに分類している。
(1)「ねじれ」感覚有り=無頼派……太宰治、坂口安吾等
(2)「ねじれ」感覚有り=旧プロレタリア……中野重治等
(3)「ねじれ」感覚無し=戦後文学派……三島由紀夫、島尾敏雄等

 きょうのブログを書きはじめるとき、わたしは頭のなかで、漠としたストーリーとして、加藤氏の太宰=ねじれ感覚有り派を否定して、むしろ、もっとストレートに、ああ、太宰は、あの敗戦後の崩壊的時代を「ほろび」と受けとめていたのだ……とした上で、次のように分類していた。
(1)「ほろび」感覚有り=深い挫折感、あるいは一種の解体現象……伊東静雄
(2)「ほろび」感覚有り=(太宰ファンの人、怒らんとしてくださいね)「ホロピ」の歌をうたって、暗く生きて(デカダンス)、どこかに他人が声をかけてくれないかという期待を隠しているタイプ……太宰治
(3)「ほろび」感覚無し=勝者から「精神の武器」を護持しよう……高村光太郎
(4)「ほろび」感覚無し=(加藤氏の「ねじれ」感覚無し)……戦後文学派
(今後の自分のための「書きかけ……書きっぱなしのメモ」以上)


「通信」はわたしの原点だ。(高村祭最終回)

2009-06-02 17:12:10 | Weblog



★ここしばらく、高村祭の画像を紹介してきたが、いよいよ、きょうが最後だ。これは高村山荘近くの食堂だ。もちろん、光太郎そばを食べました。

◆生前、江藤淳氏が「山小屋を建てて置いたのは本当によいことだった。18年間、毎年5月と7・8月に来ているうちに、土地の人たちとも顔馴染みになっているので、知らない土地でウロウロするという心配が全くない。旅館の味気ない料理をあてがわれて、要らざる散財をするという不愉快さも経験せずに済む」と言い、その某日を「濃霧の立ちこめた静かな日だった。電話もかからず、訪れて来る人もいない。朝寝坊をして朝風呂に入り、買い物から戻っては昼寝をし、というような気儘な生活を……(『渚ホテルの朝食』)」と記述している。

 江藤氏の気持ちと多少は重なり合う部分もないわけではないが、わたしの場合は、気が小さいから、きっと本拠地にいれば山小屋の管理状況が気になり、山小屋にいれば本拠地が気になって、よりストレスをためるハメになりそうだ。
 ただ、わたしのパートナーは、山小屋を欲しがっている。
 若い頃、住んでいた家のことで、しょっちゅう「あそこを買い戻したい」と言っている。
 大きな招き屋根、駆け回れるくらいのL字型ベランダ、正面に森の木々がひろがる清澄な風景……。
 土地もあり、光太郎の3畝の畑はムリだが、2畝くらいならなんとかなりそうだ。

 でも、とてもとてもムリだ。
 気が小さいことに加え、買い戻すだけの財力がない。
 仕方がないから、ここを本拠地兼山小屋にして、「電話もかからず、訪れて来る人もいない。朝寝坊をして朝風呂に入り、買い物から戻っては昼寝をし、というような気儘な生活を……」するつもりだ。

 なお、昨日、紹介した「つくばい」だが、さっき、見てきたところでは、羽根も浮かんでいないから、小鳥はまだやってきていないようだ。




★バス停。平日は4本、休日は2本。まずまずの本数なのだが、究極の赤字路線だろう。

◆カステラと牛乳で朝食後、1時間強の散歩(はなむけ号で、長者山→片町の朝市→舘越下→新井田川→川沿いに、陸奥湊界隈→湊線跡のみさき通り→裏通り……下大工町・十一日町・朔日町・六日町・十六日町・廿六日町、寺横町・大工町……)に出る。
 以後、ずっと閉じこもり、WEB上の「職員室通信」のデザインを考える。

 昨日、「〈私的な側面を公的な側面が含む、あるいは逆でも可、公的な側面を私的な側面が含む〉のうち、その一方である〈私的な側面を公的な側面が含む〉という方向に大きくシフトすることによって、やっと具体的なイメージをつか」むことができた……と記述したが、簡単にいえば、教育に関する「通信」に依拠しつつ、記述全体を創出していこう……ということだ。

◆多くの教師がそうだろうと思うが、わたしも「通信」発行の歴史が長い。

 生徒や保護者を対象にした「学級通信」「学年通信」
 同僚教師を対象にした「学年事務通信」「研修通信」「教科通信」「職員室通信」

 変わったところでは、主任教師を対象にした「主任会通信」。
 また、教頭時代(わたしは教頭を3年間やったが、その最後の1年間)には、校長(ひとり)を対象にした「教頭メモ通信」がある。
 他の「通信」はだいたい1週間に1回程度の発行だが、「教頭メモ通信」は毎日、発行した。

 次は、その「教頭メモ通信」を作成しているときの様子を記述したものだ。
 もう10年以上も前の文章だ。


★2時間以上待ったバスが遂にやってきた。高村山荘ともお別れだ。

 夜、職員室の隅の、うずたかく積み上げられた印刷物や書物の間に置かれている9821V7の電源を入れ、一太郎7を起動する。
 そして、ディスプレイの上に、ノロノロと単語を打ち込む。
 生徒はもうだれもいない。
 職員もほとんど帰ってしまった。
 残っているのは教育課程編成作業の○○T、入試関係事務の○○Tだけだ。
 もう電話も鳴らない。
 肩から昼間のプレッシャーが少しずつ抜けていくのが感じられるが、やはり疲れているのか、次の行動にはなかなか移れない。
 頭もはっきりしない。
 ただ「今日も1日が終わったのだ」という感覚をそのまま受けとめながら、明日の1日の教育活動を想定して、単語を打ち込んでいく。
 霧の向こうに見える景色のように、昨日と今日と明日がおぼろげになっていることもあるが、ひらがな入力→変換→確定を繰り返しながら、ディスプレイの上を這っていくという作業は、視点を変えた場所から現実を見つめ直すことができそうで、結構愉しい。
 話があとさきになってしまったが、9821V7とは、現在、鮫中で一番新しいパソコンのことだ。
 処理速度が速いし、同時にいくつかのソフトが使えるなど、なかなかの能力だ。
 特にわたしは、メモリーの大きさに驚いている。
 単純計算だが、1個の内蔵ハードディスクには原稿用紙800000枚分が記憶できる。
 書物に換算すると約3000冊だ。
 残りの人生では、いや、若い頃から一生書き続けたとしてもハードディスクをいっぱいにすることはできないだろう。
 この大記憶容量に関連するのだと思うが、夜、ひとりで単語を打ち込んでいると、そのディスプレイの向こう側に、無限に広がっている宇宙を感じる。
 身過ぎ世過ぎのわずらわしさを飛び越え、自分の身体が宇宙に開かれながら、ここにこうして生きているという不思議さを感じ、ときめきを覚える。
 夜の9821V7のディスプレイ、自分が自分自身にかえる「場所」だ。
 今は単語を打ち込むだけで精一杯だが、いつかピアニストがピアノを弾くように、心の中の鍵盤を探りながら、明確な文章の形で記述できるようになりたい。(鮫中職員室にて)


★花巻駅に向けて太田付近を疾駆するバス。

◆他には、若い頃、教師仲間で発行していた『やまねこ通信』も印象深い。
 小・中・高・特の教師、7~8人で、互いの実践を持ち寄り、討議したり、模擬授業をしたりしていた。
 持ち寄る資料のなかには、きちんと仮説を立て、生徒を実験群と統制群に分け、ひとつの結論を導き出した論文もあったが、たいていは実践レポートで、形式もさまざまで、自分で作成したワークシート、試験問題、指導案、それに、きょう発行したばかりという「学級通信」などにメモ書きしたようなものだった。
 その持ち寄った資料をホチキスで綴じて、製本テープでとめたものが『やまねこ通信』だ。

 今、手もとにある『やまねこ通信』を開いてみると、
 ①仲間が仲間の授業を見た参観記録、
 ②書評(おすすめの本)、
 ③自分の授業記録(テープを起こして、見出しをつけたり、図示したりしてまとめたもの)、
 ④学級通信をもとにした実践レポート、
 ⑤研修会の参加報告……等でびっしり詰まっている。
 ページをめくっていると、例会に使っていた会場の光景がひろがる。
 部活動を終わらせ、息せききってかけつけた仲間の表情が浮かぶ。
 語りが聞こえてくる。
 ああ、もう一度、ここに帰りたい……帰らなければいけない……と思う。

◆「通信」が、わたしの原点だ。
 くりかえすが、この「通信」に依拠しつつ、自分の記述全体を創出していきたい。

 ただ、その「通信」すら、これからどのように編集していくのかについては、(昨日、孤独チャット上でも展開しているが)、相当に迷いった。
 迷いつつ、ひとつの結論が出た。
 通信の作成者は、もちろんわたし……で、その通信の読者も、わたし……というところに、やっと至ることができた。

 WEB上「職員室通信」については、きょう、題字の部分だけが完成。
 そのうち、ジャンジャン、アップしたい。


くだらないことをくだらないママに、ツラのカワをウンと厚くして、ベタベタと貼りつづけよう

2009-06-01 14:43:37 | Weblog

★高村山荘の裏山の中腹にある智恵子抄泉。高村祭の献茶はこの水を使っているそうだ。

◆朝、天気がよかったので、庭に出て「つくばい」の水をきれいにする。
 「つくばい」とカギ括弧つきにしたのは、「つくばい」というのは、元々は茶室の庭先に据えるものであるのに、わたしの「つくばい」はそういうものではないから……ということと、もうひとつは、漢字で書きたいが、常用漢字外なので、ひらがなで書いたら、なんとなく他の文字にうずもれてしまいそうだったから……ということである。
 桜の木の下に、しばらくほうったらかしにしてあったので、もう水は枯れ、苔状のものが黒っぽくこびりついている。
 水道の水をゴムホースで流し込み、何度も何度もくみ出して洗う。
 レオン(ゴールデンレトリバー 2007/6/13死亡 12歳と2ヵ月)がいた頃には、たくさんの小鳥たちが、レオンのえさをねらってやってきて、そのついでに、この「つくばい」で水を飲んだり、浴びたりしていた。

 以前のように、小鳥たちが集まってくることを期待している。(小鳥たちの様子は、後日、画像でお知らせしたい。)

◆早いもので、今年も、もう6月である=①
 早いもので、みなみ退場後、2ヵ月、もう6月である=②
 この①の思いと②の思いが、今、相半ばして、自分のうちに存在する。

 6月というのは、自分のからだに、カチッとスイッチが入る月だ。
 過去の記述を「06・01」検索すると、そのレオンが死んだ年、2007の6月1日には、次のように記述している。

★〈耐えがたければわれ空に投げうつ水中花。
  金魚の影もそこにひらめきつ。
  すべてのものはわれにむかいて
  死ねという、
  わが水無月のなどかくはうつくしき〉

 伊東静雄の「水中花」の終わり5行である。
 5/31、校舎の2階、2年1組前の廊下から、グランドのヤマボウシの緑あざやかな若葉を眺めていた。
 岬台の高台から海霧が降りくる。
 野馬小屋付近で野焼きの煙があがっている。
 そのときだった。
 この〈耐えがたければ〉の詩句が、身体の内側からドッと吹きだした。
 毎年のように6月が近づくと、この絶唱が想いおこされる。
 かつてこの詩はわたしのなかにひとつの文学的体験を残した。
 その体験は……と、記述を展開したいところだが、「その体験は……」で思考が停止、正しくは強制停止だ。

 というのは、文学体験を語っている余裕がないのだ。
 この1週間ほど、①すこやかみなみネット事業推進委員会 ②職員会議 ③PTA組織会 ④みなみ小中連携研究会とつづき、その資料づくりに追われた。
 A4版で、粗く粗く、24枚を書き散らしたことになる。
 ④の資料を完成したあと、身体が電池切れのような状態になった。
 しかし、意識の奥底で「わが水無月のなどかくはうつくしき」の旋律を奏でながら、教育の仕事に関して「書き散らす」作業を継続して、この両者のあいだで必死に精神のバランスをとろうとしている自分というのは「悪くはないなぁ」と思っている。(「2007/6/1」引用以上)

 また、2008年の6月は、午前4時起床→午前5時50分学校到着という「ひとりサマータイム」をスタートさせている。(期間 6/2~7/21)

 その頃の記述をみると、「6/4 ひとり・サマータイムをはじめて3日目。いい点は、なんといっても、なににもわずらわされない時間が、約2時間確保できることだ。特に7時までは電話もない、もちろん、訪ねてくる人もない。ここ、2、3日のブログの記事は、ぜんぶこの時間を使ってに書いたものだ」と。

 事実、怒濤のようにWEB上に文字をアップしている。


★光太郎菜園。「畑は五畝ほど。野菜などの副食物を自給するつもりでいるが、なかなかできない。耕具・肥料・殺虫剤、みな不足で困る」という光太郎の声が聞こえてくる。

◆「早いもので、もう6月である」の①&②のうちの、2つ目、すなわち「みなみ退場後、2ヵ月」のほうだが、昨日も、それとなく触れたように、なかなか具体的な「一歩」が踏み出せず、苦しんでいる。
 朝に決めた「一歩」の方向が、夕方にはひっくり返る……、夕方に決めた「一歩」が、翌朝にはまたまたひっくり返るということがつづいている。

 元より、みなみ退場後、即「蟄居」という選択をしたのは、狭い部屋に閉じこもり、ことばとことばをつないで、1日じゅう、ま、古い言い方をするなら、原稿用紙のマス目を埋めていきたい……、あるいは、今の自分の行為に即していうなら、ディスプレイの上に文字を並べていきたい……と思っているからである。
 文字を並べてさえいれば、無上のよろこびという、世間一般の眼からみれば、ほんとうにほんとうに変わり者なのだ。
 ついでにいえば、そのディスプレイの上の文字が、だれかに認められて、こいうふうになればいい……という意識や願望は(認められないよりは認められたほうがいいだろうが……)まったくない。
 認める、認めない……は、だれでもない、この自分が決める。
 自分が「よし、これで諒とする」という到達点に至れれば、それでいいのである。

◆その文字を並べる具体的な「一歩」に逡巡しているわけだが、ただ、最近、「逡巡」の幅は狭まってきている。
 狭まり方に2つある。
 1つ目。
 「希望をいえば、私的な側面を公的な側面が含む、あるいは逆でも可、公的な側面を私的な側面が含む、こういう今よりもっともっとパワフルで、もっともっと豊かな、新しい文体を創り出したいと思っています。その文体ができたら、再び、『教育改革』を語りたいと考えています。」
 これは2、3日前、ある人に宛てたメールの一部分なのだが、「私的」=日常生活の記述、「公的」=教育に関する記述……と考えていい。
 そして、今、わたしが「狭まっている」というのは、逡巡しつつ、逡巡しつつ、「私的な側面を公的な側面が含む、あるいは逆でも可、公的な側面を私的な側面が含む」のうち、その一方である「私的な側面を公的な側面が含む」という方向に大きくシフトすることによって、やっと具体的なイメージをつかみつつある……ということだ。

 記述の勢いやパワーでいうと、今のわたしは、(残念ながら)「私的」=日常生活の記述より、「公的」=教育に関する記述のほうが、格段にあるわけだから、その勢いを生かすしかない。


 2つ目は、まさしく、今、記述しているような、くだらないことをくだらないママに、ツラのカワをウンと厚くして、ベタベタと貼りつづけよう……とホゾを固めていることだ。★ハ★ズ★カ★(/\)★シ★イ★ー★
 このことについては、説明はいらないだろう。