万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇族という存在を考える

2021年03月03日 11時38分12秒 | 日本政治

 秋篠宮家に起きている婚姻問題は、今日、皇族という存在の意義を根底から問い直しているように思えます。世襲制である以上、皇族の婚姻は、個人レベルの問題とは言い切れないからです。そこで、秋篠宮家に限らず、本記事では一般論として皇族について考えてみたいと思います。

 

皇族の自由結婚を認めるべきか、否かという問題は、戦後にあっては個人の自由意思が尊重され、前者が選択されてきました。民間出身の皇族の誕生を、国民の側も皇族との間の垣根が取り除かれ、より親しみのある存在となることとして歓迎したのです。その一方で、国民の多くが、婚姻相手を相応しくないと判断した場合、どのような事態が起きるのでしょうか。

 

 まずは、自由結婚を認め、皇族の婚姻相手は一切の要件を求めることなく、’誰でも良い’という状況を想定してみることとします。人種、民族、国籍、宗教、年齢、財産や所得、居住地、容姿、性格、さらには近年のリベラルなLGBT運動からしますと性別をも含め、一切の属性が問われないのです。この状況にあって、国民の多くは、同結婚に不満を抱くことでしょう。何故ならば、国民の多くは、神武天皇を通して神とされる天照大神に繋がる血統の高貴さから皇族に敬意を払い、特別の存在として認めていますので、代ごとに血統が半減され、伝統的な御所文化さえ継承されないとすれば、民心の離反を招くことは避けられないからです。言い換えますと、国民は、’条件付き’で皇族の存在を認めているとも言えましょう。このため、皇族の側が一方的に同条件を放棄してしまいますと、当然に、両者の関係は崩壊してしまうのです。加えて、政治的に見ましても、海外勢力や国内の特定勢力による合法的な’乗っ取り’手段ともなり得ますので、皇族の自由結婚は、国民にとりましてはハイリスクなのです。

 

 それでは、自由結婚を認めず、皇族に婚約を破棄させる場合はどうでしょうか。このケースでは、国民は一先ずは安心するのでしょうが、皇族の側に不満が残ることは想像に難くはありません。婚姻を阻止された皇族は、生涯にわたって被害者意識を持ち続け、自らの幸せを奪った憎き相手として国民を恨むかもしれません。人格にもよるのでしょうが、恨みを抱く相手と親しく接するとは思えず、皇族と国民との間には冷たい空気が流れることでしょう。あるいは、皇族は、自らの払った犠牲の代償を国民に求めるかもしれず(女性皇族の場合には、女性宮家の創設や女性皇族の皇位継承など…)、辣腕弁護士が付けば、破棄された相手方から巨額の慰謝料等を請求されるかもしれません。最悪の場合には、国民に対して復讐心さえ抱くことでしょう。また、法的な側面からしましても、皇族の自由結婚を認めないとしますと、両性の合意による婚姻を保障した日本国憲法に反するとして違憲性が問われるかもしれませんし、あるいは、皇族が憲法の枠外の存在であることを認めるのか、否か、という別の問題も発生してしまいます(身分制を認めないとする憲法への違反問題)。そして、一方の国民の側も、皇族に自由婚姻を諦めさせたのですから、心理的な負い目を感じることでしょう。

 

 以上に二つのケースについて予測してみましたが、何れのケースにあっても、皇族と国民との関係は’不幸’と言わざるを得ません。各種行事に皇族の’お出まし’があったとしても、国民は、最早、かつてのように感涙もしなければ、有難いとも感じないことでしょう。そして、過去にあって前者のケースが既に不可逆的に起きていますので、皇族というものの存在意義は、今日、大きく揺らいでいると言えましょう。英王室にあっても混乱が続いておりますが、国家祭祀の役割としての天皇の位の存否問題は別としましても、皇族については、今後、未来永劫に亘って存続してゆくとも思えません(ダーティーな皇室利権の問題も…)。皇族の婚姻問題は、長期的な視点から皇族の存在意義について根本的に見直す機会となるのではないかと思うのです。


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