先日、『言ってはいけない残酷すぎる真実』や『上級市民/下級市民』の著者であり、本音に徹した社会分析で知られる橘玲氏が、マスクの買占め行為について興味深い問題提起をされておられました。‘マスクの値上げは不道徳ではない’という…。その理由はもっともらしく説明されていのですが、どこか誤魔化されている、騙されているようにも感じられ、違和感が残ります。そこで、もう一度、この問題を違う角度から考えみることとしました。
氏が‘不道徳ではないと言い切る’理由は、買占めという不道徳な行為の排除が至上命題として設定されているからです。つまり、同問題が解決さえされれば全て‘善’となるわけであり、解決力の有無こそが道徳・不道徳の判断基準となるのです。この論理からすれば、マスクの値上げは‘善’、すなわち、不道徳ではないということになりましょう。何故ならば、マスクの店頭価格が高くなれば、「お金のない人(朝から店頭に並んで買占めができる人)」も「時間のない人(高値で転売されたマスクを買える人)」も平等な立場にとなり、買占めで暴利を得る者もいなくなるからです。一読しますと、確かに経済合理性に適っているように聞こえます(毒を以って毒を制す?)。
橘氏は「時間のある人」と「お金のある人」が平等になるとしていますが、マスクの価格を値上げすれば「お金のある人」が有利となるのではないかとする疑問もあるのですが、この論法には見落としている視点があります。それは、高い解決力が、たとえそれが合理的であったとしても、必ずしも‘善’を意味しない点です。例えば、マスクではなく、お米といった人々の命を繋ぐために必要不可欠な食品であったらどうでしょうか。‘お米の買占めや転売を止めさせるために、お米の通常販売価格を吊り上げればよい’と主張すれば、誰もが反対の声を上げることでしょう。悪しき行為を止めさせようとして採られた措置が、さらに人々を悪い状態に追いやるとしますと、他者の困窮や不幸を利用して暴利をむさぼる悪徳業者を廃業させることに成功したとしても、それは善い解決策とは言えないはずです。同氏の主張は、道徳を論じながらも、実のところ、‘目的のために手段を択ばず’とするマキャベリズムに通じる没倫理的な態度に陥りかねない危うさがあるのです(マッキャベッリは支配のための住民虐殺を肯定…)。
そして、もう一つ、見落とされている視点を挙げるとしますと、それは、需要と供給のバランスと価格との間に横たわる問題です。物の適正価格は、価格が需要と供給のバランスによって決定されるとするのは、経済学の基本原則とされています。しかしながら、この原則は、需要も供給も十分な場合にのみ通用します。モノの価格とは、原材料費を含め、製造や販売等にかかる必要経費に事業者の利益が上乗せされる形で決定されるのですが、需要が供給を大幅に上回る状況下にあっては、後者の事業者の利益が膨れ上がります。例えば、一枚100円のマスクが転売によって5000円に跳ね上がるのも、需要が高まった結果です。悪徳業者は労せずして4900円の利益を得るのですから、たとえそれが経済の基本原則の通りの現象であったとしても、他者にそのものの本来の価値、すなわち、原価を遥かに超える金額の支払いを要求するのですから、不当な高値販売となりましょう。この点に鑑みますと、メーカー、卸店、あるいは、小売店がマスクの定価を上げる行為は、それが悪徳業者のものではなくとも、やはり不当な行為、即ち、不道徳な行為と見なされても致し方ありません(公正取引委員会や消費者庁等が動き出すかもしれない…)。
以上に述べてきましたように、橘氏の見解には危うさがあります(もっとも、後半部分では、マスクの配給制や課税による利益の還元等にも触れているのですが…)。‘不道徳ではない’としてマスクの値上げを正当化してしまいますと、マスク以外にあっても、品不足や買占め行為が発生した商品分野において堂々と値上げが実施されないとも限らないのですから。あらゆる生活必需品の価格上昇により国民生活が逼迫することともなれば、それこそ、不道徳な結果となりましょう。悪しき行為を止めさせ、かつ、善き結果をもたらすこと、即ち、多くの人々が安価で安定的にマスクを入手できる状況の実現こそ、道徳という名にふさわしいのではないでしょうか。