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万国時事周覧

世界中で起こっている様々な出来事について、政治学および統治学を研究する学者の視点から、寸評を書いています。

皇室問題ー身分制+婚姻自由化は最悪の折衷

2017年07月02日 13時21分16秒 | 日本政治
 現行の日本国憲法は、天皇の地位を明治憲法下の立憲君主から象徴へと転じた点において、制度上の重大な転換点となりました。その一方で、皇室と国民との関係において最大の転換点となったのは、婚姻の自由の容認ではなかったかと思うのです。

 今上天皇と美智子皇后との婚姻は、日本史上初めての恋愛結婚による民間出身の皇妃の誕生を意味し、”開かれた皇室”を象徴する出来事でもありました。民主主義と自由の風が皇室にも吹き込み、皇室と国民との距離が一気に縮まることを歓迎した国民も少なくなかったのです。古来から続く皇族の婚姻範囲の制限は、天皇と国民との関係を隔てる非民主的な慣例であり、自由の価値から見ても、個人の自由に対する重大な抑圧と映っていたからです。しかしながら、皇族に対する婚姻の自由の容認は、真に日本国の民主化に貢献し、かつ、自由の価値を体現したのでしょうか。

 皇族の婚姻の自由については、マスメディアをはじめ肯定的な意見ばかりが散見され、異論を挟む余地はないように見えます。しかしながら、近現代の価値観を皇室にも持ち込むならば、古来、皇族の特権を意味する身分制にも踏み込むべきです。否、この部分に踏み込まないからこそ、皇室は、限りなく醜悪な姿に変貌していっているとも言えるのです。

 古都の寺社仏閣には、しばしば、天皇や皇族のみに使用が許される勅使門や玉座の間などが設えられており、現在でも、貴賓室やお召列車など、皇族は特別の配慮を以って遇されています。’お出まし’ともなれば交通規制がかけられるのも、皇統を引く身分の高さゆえの特別措置です。皇族の身分に対する特別の待遇は歴史を通して然程には変化はなく、現行の日本国憲法において身分制度が否定された今日おいても、変わらずに引き継がれています。

 こうした皇族の身分に伴う特権は、皇族の行動に対して制限があった時代には、権利と義務がバランスしていた面もあります。皇族は、婚姻の制限を受け入れ、伝統的な祭祀等の役割を義務として果たす代わりに、特権が認められいたからです。しかしながら、今日、婚姻の自由の容認は、皇統と皇室の血脈との際限のない乖離をもたらし、国民の許容レベルを越えているように思えます。何故ならば、現皇室の血脈を見ると、最下層の身分とされた人々、中国や朝鮮半島等の外国出身者、さらには、全くの出自不明の人々の子孫が少なくないのです。皇統は、代を重ねるたびに半減していく一方ですので、結局は、一般の国民よりも遥かに政治的リスクを高い勢力が姻戚関係を通して”成り上がり皇族”を構成しつつ、皇族の特権だけはそのまま享受するという、国民からしますと、まことに馬鹿馬鹿しい状況に至る、もしくは、既に至っております(民主主義とは、特定の民間勢力の皇室の私物化ではない…)。しかも、”成り上がりの皇族”ほどそのコンプレックスから特権に執着する傾向が強く、最大限に私欲のために特別待遇を利用しようとするのです。婚姻の自由、即ち、差別反対を主張して皇族の一員となると、平等など眼中になく、国民に対して特別待遇を求めるのですから、唖然とせざるを得ないのです。

 権利と義務のバランスからしますと、皇族が、義務を放棄した以上(婚姻の制限のみならず、現皇室は祭祀という職務まで放棄している…)、従来の特権をそのまま認める理由もなくなります。婚姻の自由化は、一見、近現代の価値と伝統とを折衷、両立させる妙案のようにも見えますが、実のところは、身分制度の維持と婚姻の自由の容認の組合せは、最悪のパターンではないかと思うのです。

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コメント (8)
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