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生きている証「ぼくも運動がしたい」~子どものまなざし 34

2010年05月13日 | 土佐いく子の教育つれづれ

 今日も「親を殺した」というニュースが飛び込んできて、胸が痛みます。親を殺しながら、実は自殺をしているのでしょう。命に^ついて考えさせられる今日です。

 突然ですが、「進行性筋ジストロフィー症」という病気をご存知でしょうか。難病中の難病といわれ、次第に病状が進行し、死に至るという病気なのです。夫が病院内の学校で、筋ジスの子どもたちの命と向き合う仕事を10年してきました。今回は、その話をしてもらうことにします。

  ◆  ◆  ◆

 大学を出て体育の教師として赴任したのが、国立療養所刀根山病院の中にある進行性筋ジストロフィー症児が入院治療しながら通っている院内学級でした。

 ある日、急いで廊下を走って職員室に向かっていると「走らないで!風圧で子どもが倒れます」と看護婦さんの声。驚きました。私がこれから体育の授業をしようとしている目の前の子らは、風圧で倒れる子、車椅子で10m移動するのに3分もかかる子、軽いテニスボール投げで50cm。

 当時は障害児教育の理論と実践もほとんどなく、就学猶予や免除という制度で学校教育からしめ出されていました。まして障害児体育やスポーツなど考えられないことでした。身体が不自由な子に無理にさせるのは可哀想だ、と切り捨てられてきたのです。ですから子どもたち自身、体育やスポーツはテレビで観て楽しむものだと思い込んでいました。

 より速く、より高く、より遠くと記録を求められるスポーツは彼らとは無縁のものでした。そんな彼らの学校に「体育の先生が来る。ボクたちも体育ができるんだろうか」。彼らにも、私にも全く未知の世界への挑戦でした。


 ■弘志がスマッシュ

 さて、新しいものを作り出していく営みで大切なことは、発想の転換です。

 私たちは卓球に取り組みました。台上で行うゲームですから、車椅子の子でも立ったままの子でもほとんどハンディなくプレーできます。

 ところが、卓球は台上のネットの上をラリーするスポーツだと考えられてきたのですから、彼らにはできないスポーツだったのです。

 ネットの上をラリーできなければネットを少し上げてころがして、その下をラリーしてもいいのです。また台が広いので、横からピンポン球が落ちないように、ガードを付けると全く問題がありません。

 シングルやダブルスだけでなく、6人対6人のゲームも考えました。「卓球バレー」と名づけました。

 ピンポン球は軽く、ほとんど力がなくてもころがっていくのです。

 こんなことがありました。車椅子に乗ってほとんど手首だけの力しか出せない弘志が、プラスチックの物差しをラケットに見立てて相手からの球を返球したとき、彼は叫びました。「ナイス・スマッシュ!」。球はコロコロとゆっくり相手コートに返っていきました。私は感動しました。

 彼にとっては、自分の打った球がまるで全日本選手のスマッシュのようにビシッと決まったのです。自分の代わりにピンポン球が動いてくれるのですが、まるで自分がすばやく動き回っているような、今まで経験したことのない心地良さを感じたのでした。

 その姿を主治医であり世界的な権威のある先生がご覧になり、こんな話をしてくださいました。「この病気はいまだに完治する薬は見つかっていません。子どもたちは毎日毎日、辛く苦しい機能訓練をして病気と闘っています。でも体育の授業ができて子どもたちの表情が一変し、生活が変わりました。医者の私にもできないことでした。教育ってすごい力ですね」。

 子どもたちの生活が能動的になり、命が輝き始めたのです。その後、障害者スポーツが考え出され、東京オリンピック以後、パラリンピックも行われるようになりました。

 毎日毎日が命と向き合う仕事でしたが、今を生きる子どもらの命の確かな輝きに励まされてきた10年でした。

(とさ・いくこ 中泉尾小学校教育専門員・大阪大学講師)

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