年賀の御礼

年賀の御礼   2019.01.15.

様々な方から年賀を頂いた。いろいろ楽しませて頂いて、心から御礼申し上げる。私は、年末年始を外国で過ごすようになった2000年ごろから、年賀状を欠礼しており申し訳なく思っている。しかしながら、近年は体力の衰えもあり、相変わらず欠礼したままである。

卒業生の皆様から頂くと、名前とともに思い出すのは学生時代の姿で、既に子どもさんが独立した姿はなかなか思い出せない。

最近、山折哲雄さんがテレビに出ていて、著書【「ひとり」の哲学】について語っておられた。親鸞聖人や一遍上人、西行法師などの生き方や思想について語り、ご自分の死生観について話された。新聞には瀬戸内寂聴さん御話が載っており、死生観が伺えた。ご両人とも現代を代表する知識人で、多くの人々の生きる指針になっている。しかしながら、何か物足りなさが残った。何が違和感であろうかと考えてみた結果、仏教の本質についての考え方の相違で有ろうと思われた。山折さんは宗教哲学者で、宗教の本質についての追究者ではない。寂聴さんは、僧籍を持っておられる立派な坊さんであるが、修行の経験が不足しているように思われる。作家で平泉の住職だった今東光大僧正のもとで得度している。その後どのように修行されたかは知らないが、多分悟りを得られた方に付いて修行されたのでは無い様に見受けられる。

悟りを得られた方に出会えるチャンスは、多くはない。またお会いしてもすぐには理解できない。その方のもとでしばらく指導を受けているうちに、自分のレベルが理解できるまでに達した時に初めて少し垣間見ることが出来る。私は非常に幸いなことに、最初から悟りを得た方にお会いすることができた。しかし、少し理解できたのは3年ほどした時に初めて、異次元の精神世界の方だと言うことが感じられた。その方から伺って現在の老師のもとにたどり着くことが出来た。30年ぐらいになるが、いまだ悟りの世界には遠い。しかしながら、確かに悟りの世界があることは理解ができるようになった。現在の老師様のもとには、40年も禅宗で修行された方が、やっと辿り着いたり、外国から来て30年近くも禅宗を学びながらやっと辿り着いたお坊さんが来たり、なかなか覚者にはお目にかかれないもののようである。

まだ悟りには遠い世界で生きているが、少しでも日々努力したいものである。

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