いじめの問題 2

いじめの問題 2 2012.12.8.  金森正臣

 以前にいじめ問題を書き始めたのは、7月23日であったから、あれから4ケ月が経っている。私はなまくらだから、書く状態になるのに時間を要する。以前からそうで、論文を書くときには、いかに状態を保つかがなかなか難しかった。最近は年のせいで、なかなか書けない状態が続いても、以前ほど焦らなくなった。以前には締め切などもあって、なかなか苦しい思いもした。いじめ問題の様に難しい問題は、頭が十分に回転して、全体を見られる状態でないと、部分の正論に振り回されて、問題の本質を見失う。現在のマスコミに取り上げられる話題は、ほとんど部分の正論だけで本質を見失っている。文部科学省などから出される意見も、ほとんど本質について語られることは無い。これは専門家と言われる人たちの見識が狭く、人間の本質についての理解が低いためと思われる。最も人間だけを見ていても、その本質が見えてくるものではなく、動物と比較してみることも必要であると思われる。また太古以来ヒトが求めてきた、普遍的価値観についても視野を開く必要がある。人間は、二元対立の簡単な理論で理解できるものでは無く、もっと全体性として多次元の観点から見なければならない。

 ヒトと言う動物は、チンパンジーなどから分かれて700-800万年以上の時間が経過していると考えられる。ヒト自身が持っている特性は、ヒトとして独立してから持った特徴だけではなく、チンパンジーと非常に似ている特徴もある。多分このような特徴は、分化する以前から持っているとものと思われる。フランス・ドバールが書いた「政治をするサル」などを読んでいると、人間関係はチンパンジーの時代からあまり変わっていない部分があると感じる。特に「いじめ」で問題になる点は、成長過程における人間関係の構築にあると思われる。現在問題になっている「少子化」の問題も、同じ視点で見ると、問題の本質が良く見える。また、不特定多数の殺人や自殺の多さなども、同じ根本問題から派生しているとして理解することが出来る。

 ヒトが親から受け継いで来る遺伝子は、決して完全な形ではない。個体の集合が大きくなって複雑な社会を作った人間は、成長過程で多様で複雑な社会的ルールを学ぶ必要があって、遺伝子に乗っているプログラムは、学習のきっかけを作るだけであって、内容は入っていない。そのきっかけを使って如何に学習するかが、いろいろと異なる文化に適応する優れた学習過程になっていると思われる。

 生まれたばかりのヒトの子どもは、自分の生活を維持する能力はほとんど無い。母親に依存して、生命を維持する。この過程ですでに重要な人間関係を学習するようになっていることは、正高信男の書いた「0歳児が言葉を獲得するとき」(中公新書)(古い本で絶版になったかと思ったら、最近再版されているらしい)に明らかである。初めてこの世に出た子どもは、授乳を通して母親と言う他者とのやり取りを獲得して行く。しかし彼の本でも、調査した時点で、かなりの数の母親が、授乳時に子どもとしっかり向き合っていないために、子どもが母親との関係を構築できないでいることが出てきている。初めての世界に出て、最初の他者(母親)が信頼できなかったなら、以降に接する人間を信頼できるようになるのはなかなか難しい。その後の他者との関係の構築に、様々な問題が出てくる。

途上国では、母親は授乳時に子どもに集中しており、他のことはあまり心配していない。私の調査地であったタンザニアの市場では、売り手の店番の母親が授乳を始めると、客は待っている姿をよく見かけた。サルの世界でも、授乳している母親には、ボスといえどもちょっかいは出さない。これは子どもを育てる上で、重要なルールなのであろう。しかし文明が発達し、先進国になると、母親自身が色々なことに関心を持ち、テレビを見ながらの授乳や次のするべきことを考えながらの授乳が起こってくると、子どもは人間関係の構築の最初の段階で混乱が起こる。この混乱を解消することは不可能ではないが、再学習はなかなか困難になる。

 ここまで書いて既に2週間がたってしまった。今日は12月4日、カンボジアはいよいよ雨季を終わって、乾季に入ったようだ。今年は、雨季が長引き、11月の末まで雨が降った。今朝も29度を超えており、熱帯の日々は熱い。

 子どもの遊びを見ていると、意欲を引き出すために有るような行動が観察される。1歳ごろから始まる、「水遊び」である。様々な段階が見られ、次第にエスカレートして、12-3歳まで続く。分かり易いのは、1-4歳ごろで、最初は水に触ることから始まる。繰り返し触っているうちに、2歳の終わりころには、少しずつ水をコントロールする方向に向かう。食事の時にテーブルに水をこぼして遊ぶのも、器から器に水分を移したがるのもこのころである。これらの行動は何時も行うわけではないが、始まると1-2時間も続くことは普通である。でも食卓の上では、親に止められることが多い。それは食卓のマナーとして必要なことではあるが、意欲を引き出すことを考えるとマイナスである。家の周囲に水たまりなどがあり、子どもが自由に遊べると、子どもの意欲は高くなる。寒い雪の降る朝でも、手を真っ赤にして遊んでいることがある。不登校の子どもたちの野外塾をしていた時、しばしば水で熱心に遊ぶ子どもがあり、次第に集中して熱心にすることが身について行くことが観察された。この熱心に遊ぶ「意欲」こそ、人間関係の構築に大きな役割を果たしているように思われる。意欲の低い子どもは、人間関係で必ず引き起こされるトラブルを避けるようになり、孤立して行く。

 現代におけるいじめの問題は、この意欲の不足と孤立の結果として理解する必要がある。この点に着目しないと、問題の原点に迫ることはできず、いつも対症療法に終わる。現在の日本における「いじめ対策」の問題点は、いつもずれているためいつまでたっても減少して行くことはなく、増加の一途をたどっている。相談者を増やすのも、発見を早くするのも対策としては必要であるが、問題の根本解決には至らない。子どもの成長の過程をもっと深く理解し、未来に向かって両親が子どもの意欲の成長に関して対策を練らなくてはならないであろう。
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