私の教育方法

私の教育方法       2008.12.29. 金森正臣

 カンボジアの教育の本の第一次原稿を昨日終わった。これからまだ直すところが多くあり、既に今日も少し直した。でも後は大きくは変えられない。なぜならば、見積もりが昨日までの原稿によって行われているから。

 明け方の夢の中で、私の教育の仕方は、一般的ではないことに気がついた。いろいろの支援団体の報告書を見ると、客観テストと言われているようなペーパーテストを行い、他国の状況などと比較することで、カンボジアのレベルを示している。そしてレベルの低さは、授業方法を改善しなければならないとか、教員の給料を改善しなければならないとか、カリキュラムを直さなければないとか、教科書を直す必要があるとか言う、読む人が納得しやすい結論になっている。私はこの様な思考方法をしたことは無く、授業方法、学校の運営方法、給料、カリキュラムや教科書よりも教える人材の能力が重要であると思っている。
 
 私の場合は、まず教えている状態の観察から始めて、各個人の特徴を調べ、どこがどのような問題点を含んでいるか、どのようにしたら改善できるか、具体的な例から考えている。このために、現地の状況を知らない人、あるいは現地にいても教育経験の少ない人には分かり難い。私の今までの仕事はどの仕事も、15年ぐらいしてからようやく見通しがついてくる。カンボジアも10年になりようやく様々な状況が、立体的につながって理解できるようになった。同じような経験をしていなければ、なかなか理解が難しかろうと思われる。

 大学にいた42年間の間も、後半には多くの皆さんの教育方法とは異なっていることは知っていた。しかし、今朝の様にその違いがはっきりしたのは初めてである。今までも、教育は人生を受け渡すものであり、教科はその材料に過ぎないとか言って、皆さんの中には戸惑っていた方もおられたように記憶している。ベテランの校長先生などで、理解を示して下さる方が居て、あまり説明を試みなかったように覚えている。また教室において学生に平等にと言う意見も良く聞いていたが、あまり気に掛けず、教育はもっと個人的なもので、必要な人に必要なことを伝えるべきであると考えていた。その結果、個人のそれまでの経験が異なるのだから、一人一人別なことが必要であろうと考えていた。研究室の中でも、あまり平等な扱いはしなかったので、不満を持たれていた方もおられたかもしれない。でも私からすると、それぞれにその時々の最も必要なことを伝えようとしていただけなので、あまり気にしていなかった。ご迷惑をおかけしていたであろう。
 なぜこの様になったかを考えてみると、小学校の教員をしていた父親の影響と仏教の影響と思われる。20年ぐらい前に、禅宗の教育方法に接したとき、その完成度の高さに驚愕した。我々が学んできた教育学の概念とは全く異なる物である。一人一人に、必要な物を受け渡す、その精度の高さは、大学では経験できないことである。皆さんも興味がおありであったら、ぜひ一度経験してみることである。ただし誰に付いても良いと言うわけには行かず、正当な修業をした老師に付かなければならない。日本の国内に10人とは居ないようであるが。
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