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EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

季節外れの濃霧発生

2015年12月25日 | 伊予松山歴史散策
松山市では、24日朝、局地的に濃い霧に覆われた。松山気象台によると、23日夜までにまとまった降雨で湿度が高まり、空気が24日の放射冷却により気温が低下して霧になった。
気象台は午前7時47分濃霧注意報を出した。
我が家近くにある福祉施設に通勤してくる従業員の車はライトを点灯して慎重に運転していた。
この時期の濃霧は珍しい現象なのでカメラを持ち出し現象を撮ってみた。濃霧は2時間ほどで消え去った。












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秋山好古揮毫石碑紀行 24 松山市石手一丁目岩堰の碑

2015年12月24日 | 伊予松山歴史散策


1.碑   文 :  藤岡 翁 頌功碑
2.所 在 地:  松山市石手一丁目2番「岩堰橋・袂」
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  記載無し
5.建立年月日:  昭和 4年 5月 
6.碑石大きさ:  高さ:2m78㎝ 横幅:1m52㎝ 厚み:25㎝

この石碑は上部に、題額として秋山好古が「藤岡翁頌功碑」を揮毫し、題額の下部に藤岡翁(藤岡勘左衛門)の功績を近藤元晋が撰文して石碑となっている。


藤岡翁頌功碑の裏面で、藤岡 勘左衛門は、嘉永5年10月2日・末広町、勘三郎の子で伊予鉄道会社創業に参画し、松山商工会を起し会長に推され、銀行の創始・市場の開設・伊予がすりの販路の拡張に努める等地方の実業界の発展に尽くした。
また趣味多く茶花道・謡曲・調理・・和歌俳句を楽しみ、石手川の岩堰遊園地を開き晩年好んでここで遊んだ。昭和3年12月没 76歳 湊町円光寺に葬られている。・・この様な事項が書かれている。


岩堰に掛かる「岩堰橋・通称(あかばし)」で、橋長18,2m、幅員1,4mのつり橋、岩堰に咲く桜や菜の花等々の季節の花々とともに地域の方々に親しまれている。
大正13年に竣工した。
松山市景観形成重要建造物、平成15年9月1日指定、指定番号第1号である。


大正13年に竣工したこの「岩堰橋・通称(あかばし)」は秋山好古が北豫中学校校長として就任した年でもある。
好古は、東京に奥さんと子供を残し松山に帰り、昭和5年3月、北豫中学校長辞任まで故郷松山の青少年教育の普及に尽力した。そして生活は、独身に近い質素な生活をした。


「岩堰橋・通称(あかばし)」は、石手寺から東約200mにあり、「あかばし」を渡った正面に藤岡翁頌功碑がある。


松山市湊町四丁目5番地5、圓光寺にある「藤岡翁頌功・(藤岡勘左衛門)」の墓所。

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秋山好古揮毫石碑紀行 23 松山市和泉北三丁目の碑

2015年12月23日 | 伊予松山歴史散策


1.碑  文 :  追 遠 記 念 碑
2.所 在 地:  松山市和泉北三丁目2番3号 泉永寺
3.揮 毫 者:  陸軍大将 秋山好古
4.建 立 者:  不明
5.建立年月日:  昭和 2年 8月 
6.碑石大きさ:  高さ・2m37cm 表幅・ 62cm 横幅・ 45cm

参考資料:
足立重信により石手川が改修され和泉、朝生田の洪水被害は少なくなったが和泉村七十町歩の養水乏しく旱害に苦しんだ。
1606年森宗勘が縦淵城跡ほとりに堰を設け和泉村用水路の普請が和泉村民総出ではじまった。
難工事は石手川底を通水させる埋樋水門で、宗勘が苦心の末考案して宗勘樋が完工し和泉村七十町歩は良田と化した。
森宗勘の不滅の功績をあらわすため明治25年3月泉永寺に彼の遠孫森六次郎名をもって「小野川縦淵水門開祖之碑」が建てられ、昭和2年8月「追 遠 記 念 碑」が向かい合うように東側に建立された。
石碑裏面には、明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。

註・縦淵城跡所在地:松山市東石井五丁目13番14号「城山神社」
小野川は中世「縦淵川」と言っていた。


松山市和泉北三丁目2番3号 泉永寺にある「追遠記念碑」
明治2年和泉村と朝生田村との水争いの以後五十有余年の、昭和2年8月、和泉の危急存亡の時、血涙を奮い起ちその重任を一身に集め篤志家数人があった。その行動功績を讃え、後世に伝えるため追遠記念碑を建立した。そしてその揮毫を秋山好古がしたのである。


「追遠記念碑」の裏面で、裏面には明治2年和泉村と朝生田村との水争いのことが記載されている。
それは、明治2年梅雨に入っても降雨がなく、田植えも遅れ水不足は深刻であった。
折も折、郡役人より川附川の余水を朝生田村に分水するよう厳命があった。
和泉村としては一大事、灌漑水利権の侵害分水など出来る状態ではなかった。
「背に腹はかえられぬ」悔いを後世に残すにしのびず、5月26日夜、村民大挙して井水門より朝生田に通ずる水路撤去の非常手段をとった。
事の重大さを知った郡役所は、和泉の処置を不隠当とし、全村民の農事以外の外出を禁じ、庄屋、相原武敬氏を解職し禁固、組頭、堀内為一郎、大野喜三次両名を3年の刑に処し、5人組、飯泉佐一郎、堀内彌三次、村民浮田彌七、森啓次郎、相原与八、池田兵蔵の6名を半年抱禁の刑に処した。
これが世に言う立渕事件である。
此の有様が裏面に書いてある。


松山市和泉北三丁目2番3号・泉永寺でこの境内に当時の事件があった石碑がある。
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秋山好古揮毫石碑紀行 22 松山市祝谷三丁目の碑

2015年12月22日 | 伊予松山歴史散策

この石碑は一時期、横倒しになっていたが、地主の千葉農園先代社長が再建立した。
裏面に建立した経緯らしい文言が記載されているが判読困難である。

1.碑   文 :  石槌神社遥拜所 
2.所 在 地:  松山市祝谷三丁目5番1号 高木印刷前
3.揮 毫 者:  陸軍大将従二位勲一等 秋山好古
4.建 立 者:  記載無し
5.建立年月日:  大正13年 甲子5月 
6.碑石大きさ:  高さ:2m35㎝ 横幅:2m16㎝ 厚さ:23㎝


はるかかなた松山のこの地から日本七霊山の一つで、西日本最高峰の石槌神社を拝んでいた所として遥拜記念碑を建立した。記念碑は、石鎚山を拝むように建っている。


石槌神社遥拜所石碑裏面で、裏面直ぐ後ろには石垣があるため、真後ろからの撮影困難である。


12月18日の石鎚山で、初冠雪後暖冬の為冠雪は解けたが、その後、積雪したが例年よりも積雪は少ない。
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伊豫の天山と大和の天香具山・21年振りの交流

2015年12月21日 | 伊予松山歴史散策
天山のある、愛媛県松山市天山町の岸区長・白石事務局長と奈良県橿原市南浦町の辻本区長や福本博治・世話人の間に文通が続き、昭和52年5月8日、天山町の代表25名が松山名産の姫ダルマを土産に、天香具山のある、橿原市南浦町を訪れた。・・この記事が昭和52年5月31日(火)の讀賣新聞地方ニュース「奈良版」に掲載された。
そのご暫く疎遠になっていた姉妹町の交流は、21年振りに再開された。
先日、平成27年11月28日、松山市天山町から18名が21年振りに橿原市南浦町を訪問し、昭和52年5月31日の新聞記事や、両町の交流を記念し、天山山頂に交流記念碑を建立した写真等々を持参し懇談した。
両代表は、此れからも交流の機会を増やし後世に伝承していき故郷づくりに努力したいと語った。
参考に
記紀に現れた伊豫と言う書籍があり、その中に付記として「風土記逸文 伊予国・天山」の項がある。
それは、伊豫(いよ)の国の風土記には曰(い)く、伊(い)与(よ)の郡(こほり)。郡家(こほりのみやけ)より東北(うしとら)のかたに天(あめ)山(やま)あり。天山(あめやま)と名づく由(ゆゑ)は、倭(やまと)に天(あまの)加具山(かぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分(わか)かれて、片端(かたはし)は、倭(やまと)の国に天降り(あまくだり)、片端(かたはし)は此の土(くに)に天降(あまくだり)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)ふ。本(ことのもと)なり。(其の御影(みかげ)を敬礼(ゐやま)ひて久米寺(くめでら)に奉(まつ)れり。)・・と記述がある。

註として、
伊与の郡・・・凡そ愛媛県伊予市と伊予郡の地にあたる。
天山・・・・・温泉郡石井村天山(あまやま)にある孤立丘。旧久米郡内。もと伊予郡に属していた。
天加具山・・・大和三山の一つ。香具山。神代紀口訣に「風土記、天上有山、分堕地。一片伊予国天山。一片大和国香山」とあるのは本条の記事を要記したもの。
其の御影云々・・・・以下は後人の附記と認められる。天山の姿を絵図に描いたもの(御影)。天山は久米氏所管の久米郡にある故にその本居の大和の久米寺(橿原市内)に祀ったことをいうか。・・・と記述がある。
以上記紀に現れた伊豫より引用。


上空からみた伊予4山、「天山・東山・星岡山・土亀山」で、奥に伊予松山城を望む。


奈良県橿原市南浦町にある「天香具山」標高、152mで、日本100名城巡りで、松坂城から高取城に移動中に撮影した。山の形が、天山とよく似ている。


愛媛県松山市天山町にある「天山」標高、52m、天香具山とよく似ている。
我が家は近くにあり、毎日天山に登っている。113段の石段を。


天山山頂にある「天山神社」


昭和52年5月8日、天香具山の地、橿原市南浦町と天山の地、松山市天山町との交流を記念して記念碑が建立された。天山神社本殿南側にある。


交流20周年記念碑の裏面に「昭和52年4月交流開始、古代よりの由緒と歴史をここに刻む・平成9年7月吉日」と揮毫されている。


交流20周年記念碑の左側に建立


交流20周年記念碑の左側に建立


天山神社の入口、長い石段(113段)が設けられている。
神社正面、左に三輪田米山揮毫の社号碑「天山神社」がある。


神社正面左に画像の歌碑がある。


松山市教育委員会が設置している説明板


天山から見た伊予松山城天守で、伊予松山初代城主、加藤嘉明は、松山城築城に際し徳川家康に築城予定地の候補地を三ヶ所申請した。
第1候補地が、天山 第2候補地が勝山(現在の松山城)、第3候補地が御幸寺山であった。
家康は第2候補地、勝山に築城地の許可をした。もし間違って、第1候補地の天山に許可が下りていれば我が家付近は城下町となっていた。


先月、11月28日、松山市天山町の18名が21年振りに、天香具山の地、橿原市南浦町を訪れた時の読売新聞愛媛版の記事。


先月、11月28日、松山市天山町の18名が21年振りに、天香具山の地、橿原市南浦町を訪れた時の読売新聞奈良版の記事。
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