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伊豫の天山と大和の天香具山・21年振りの交流

2015年12月21日 | 伊予松山歴史散策
天山のある、愛媛県松山市天山町の岸区長・白石事務局長と奈良県橿原市南浦町の辻本区長や福本博治・世話人の間に文通が続き、昭和52年5月8日、天山町の代表25名が松山名産の姫ダルマを土産に、天香具山のある、橿原市南浦町を訪れた。・・この記事が昭和52年5月31日(火)の讀賣新聞地方ニュース「奈良版」に掲載された。
そのご暫く疎遠になっていた姉妹町の交流は、21年振りに再開された。
先日、平成27年11月28日、松山市天山町から18名が21年振りに橿原市南浦町を訪問し、昭和52年5月31日の新聞記事や、両町の交流を記念し、天山山頂に交流記念碑を建立した写真等々を持参し懇談した。
両代表は、此れからも交流の機会を増やし後世に伝承していき故郷づくりに努力したいと語った。
参考に
記紀に現れた伊豫と言う書籍があり、その中に付記として「風土記逸文 伊予国・天山」の項がある。
それは、伊豫(いよ)の国の風土記には曰(い)く、伊(い)与(よ)の郡(こほり)。郡家(こほりのみやけ)より東北(うしとら)のかたに天(あめ)山(やま)あり。天山(あめやま)と名づく由(ゆゑ)は、倭(やまと)に天(あまの)加具山(かぐやま)あり。天(あめ)より天降(あも)りし時、二つに分(わか)かれて、片端(かたはし)は、倭(やまと)の国に天降り(あまくだり)、片端(かたはし)は此の土(くに)に天降(あまくだり)りき。因(よ)りて天山(あめやま)と謂(い)ふ。本(ことのもと)なり。(其の御影(みかげ)を敬礼(ゐやま)ひて久米寺(くめでら)に奉(まつ)れり。)・・と記述がある。

註として、
伊与の郡・・・凡そ愛媛県伊予市と伊予郡の地にあたる。
天山・・・・・温泉郡石井村天山(あまやま)にある孤立丘。旧久米郡内。もと伊予郡に属していた。
天加具山・・・大和三山の一つ。香具山。神代紀口訣に「風土記、天上有山、分堕地。一片伊予国天山。一片大和国香山」とあるのは本条の記事を要記したもの。
其の御影云々・・・・以下は後人の附記と認められる。天山の姿を絵図に描いたもの(御影)。天山は久米氏所管の久米郡にある故にその本居の大和の久米寺(橿原市内)に祀ったことをいうか。・・・と記述がある。
以上記紀に現れた伊豫より引用。


上空からみた伊予4山、「天山・東山・星岡山・土亀山」で、奥に伊予松山城を望む。


奈良県橿原市南浦町にある「天香具山」標高、152mで、日本100名城巡りで、松坂城から高取城に移動中に撮影した。山の形が、天山とよく似ている。


愛媛県松山市天山町にある「天山」標高、52m、天香具山とよく似ている。
我が家は近くにあり、毎日天山に登っている。113段の石段を。


天山山頂にある「天山神社」


昭和52年5月8日、天香具山の地、橿原市南浦町と天山の地、松山市天山町との交流を記念して記念碑が建立された。天山神社本殿南側にある。


交流20周年記念碑の裏面に「昭和52年4月交流開始、古代よりの由緒と歴史をここに刻む・平成9年7月吉日」と揮毫されている。


交流20周年記念碑の左側に建立


交流20周年記念碑の左側に建立


天山神社の入口、長い石段(113段)が設けられている。
神社正面、左に三輪田米山揮毫の社号碑「天山神社」がある。


神社正面左に画像の歌碑がある。


松山市教育委員会が設置している説明板


天山から見た伊予松山城天守で、伊予松山初代城主、加藤嘉明は、松山城築城に際し徳川家康に築城予定地の候補地を三ヶ所申請した。
第1候補地が、天山 第2候補地が勝山(現在の松山城)、第3候補地が御幸寺山であった。
家康は第2候補地、勝山に築城地の許可をした。もし間違って、第1候補地の天山に許可が下りていれば我が家付近は城下町となっていた。


先月、11月28日、松山市天山町の18名が21年振りに、天香具山の地、橿原市南浦町を訪れた時の読売新聞愛媛版の記事。


先月、11月28日、松山市天山町の18名が21年振りに、天香具山の地、橿原市南浦町を訪れた時の読売新聞奈良版の記事。
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