EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

石鎚山・初雪 

2013年11月15日 | 伊予松山歴史散策
西日本最高峰の「石鎚山・1982m」に今季初雪。
この所、松山は急激に冷え込み、一昨日の最低気温は7,8度で12月初旬の気温であった。
12日夜半から松山は降雨となり、石鎚山は積雪では?と思い13日、石鎚神社頂上山荘に電話で問合せたら、雪が降りましたとの事であった。
13日、午前中は、雲が掛かり石鎚山は見えなかった。午後、京都から松山城観光客に来られた方から積雪した石鎚山が見えましたと教えてもらった。
午後5時40分ころ帰宅、日差しはなかったが、初冠雪した石鎚山が確認、撮ることが出来た。昨年の初冠雪は、11月1日、今期は11日遅い冠雪である。

画像は、11月13日初雪のあった「石鎚山」と、14日の画像です。
松山は、冬将軍がすぐ近くまで来ています。


11月13日12時11分撮影、この日午前中は、雲がかかり山頂は見えなかったが、中腹辺りが白く見えたので昨晩初冠雪があったのでは?と思った。






13日午後5時43分帰宅すると山頂がよく見え初冠雪が確認出来た。


続いてデジタルズームでISO感度を上げて撮ってみた・・画像は劣化するが。


11月14日、午後2時47分撮影、昨日よりも気温が少し高かった、そのためか石鎚山頂付近の積雪が少なくなっていた。




画像は、11月8日、午後4時35分当時の石鎚山。




画像は、今日(15日)午後3時42分撮影。初冠雪の雪は解けて見えない。
画像、真ん中の尖って見える所に、石鎚神社山頂社と山小屋がる、弥山(みせん・1974m)で、その右が西日本最高峰、天狗岳(1982m)である。1400mm相当で撮影。


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のボール野球・県立松山北高等学校で実技指導

2013年11月14日 | 伊予松山歴史散策
今日(11月14日)愛媛県立松山北高等学校の2学年の一クラスを対象に課外授業の一環として「枡(野ボール)・野球・正岡子規がはじめた」の実技指導が行われた。
指導者は、常盤同郷会理事(秋山兄弟生誕地)の宇都宮武美氏で、当時のユニホーム姿で行った。
正岡子規は、短詩系文学(近代俳句)を全国に振興し今や世界に浸透する文学でありますが、子規にはもう一つの顔があり、それは野球である。
野球を愛し数々の野球用語の日本語訳を施し、新聞「日本」で発表し、故郷伊予松山に帰るたびに、子供を集めて野球を教えた。そのため松山は野球の盛んな土地柄である。そして子規の没後100年の平成14年に、正岡子規は野球殿堂入りを果たし、文学者であり、野球人である。
秋山眞之も夏目漱石も子規と一緒に野球を楽しんだ。


愛媛県立松山北高等学校正門、前身は北豫中学校で、秋山好古が北豫中学の第四代目校長を務めた。


本日の、「枡(野ボール)・野球・正岡子規がはじめた」の実技指導と審判を務める公益財団法人 常盤同郷会理事(秋山兄弟生誕地)宇都宮武美氏、右の銅像は、秋山好古、北豫中学校校長(大正13年4月から昭和5年3月)第4代校長として、優秀な学生を育てた。


試合前の注意事項を説明する、公益財団法人 常盤同郷会理事(秋山兄弟生誕地)宇都宮武美氏。今年で第4回目となる「のボール野球」の指導。


明治の俳人・歌人 正岡子規。彼は幼名「升(のぼる)」から、雅号を野(の)球(ボール)にしたこともあるほど、野球を愛していました。
画像は、「の・ボール野球」に使用する用具。


「の・ボール野球」試合開始前の挨拶の交換。


「の・ボール野球」は、投手は下手投げ、打者は、球審に対して投げて欲しい球の高さを要求し球審はこれを投手に指令する。


球審は、打者の前に立ちストライク・ボールの判定をする。




子規は数々の野球用語の日本語訳を施し、新聞「日本」で発表した。そのほとんどが現在でも使われている。それは、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」「ショートストップ」などの外来語を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」「短遮・中馬庚が遊撃手と表現する前の呼び名」と日本語に訳したのは子規である。また東京に、正岡子規記念球場が、東京都台東区上野恩賜公園内にある球場で、正式名は上野恩賜公園正岡子規記念球場である。


画像のように、球審は打者の前に立ち判定をする。


「枡(野ボール)・野球」の実技指導を終え、整列をして宇都宮武美指導者にお礼の言葉を述べる北高校生。


画像は、県立松山北高等学校創立80周年記念館(資料館)で、入口に「北豫中学校第四代校長・秋山好古校長」と書かれた表示板の上に好古校長の胸像がある。


創立80周年記念館(資料館)内部。


県立松山北高等学校運動場北側から、後ろには伊予15万石の松山城天守が見え、画像右側の平屋校舎は、秋山好古校長時代に建築され現存し、現在は第2体育館として有効活用されている。
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松山で一番新しい重要文化財「萬翠荘」

2013年11月13日 | 伊予松山歴史散策
昨日(11月12日)愛媛県本庁舎見学会の次に行われた場所は、萬翠荘であった。
今回の見学の目玉は、日頃見学することの出来ない3階、屋根裏見学である。先ずは、萬翠荘の概要を紹介しておきます。

名称、萬翠荘は、萬(よろず)翠(みどり)荘(やかた)、松山城の麓の緑の森の中に佇む邸宅、と言う意味であります。
※ 建築は、大正11年、旧伊豫松山藩主の子孫に当たる、久松定謨伯爵が、松山の別宅として建築。
※ 構造は、鉄筋コンクリート造り、地下1階、地上3階、面積887,58㎡(268坪)
※ 設計者は、愛媛県庁舎を設計した木子 七郎。
※ 平成23年11月29日、国指定重要文化財に指定された。
※ 特記事項は、昭和20年7月26日の松山大空襲時に、ここは意図的に残したと言われている。GHQが進駐時には、司令官の宿舎として使用するためだったとか?

萬翠荘には、もう一つ特記がある。それは、建築中、大正11年11月15日、松山で陸海軍の大演習が決定その大演習を摂政宮(後の昭和天皇)が観閲のため来松決定した。萬翠荘は、摂政宮様の宿舎とするため急遽突貫工事で完成した建物として有名である。観閲された高浜の荒神山に摂政宮(皇太子)ご結婚記念に、大正13年1月「摂政宮殿下特別大演習御野立場」の記念碑が建立された。揮毫は、陸軍大将、秋山好古でこの時好古は、北豫中学校校長であった。
では、見学した特に屋根裏も紹介。そして大演習を観閲された摂政宮当時の新聞記事と記念碑を見て下さい。


旧伊豫松山藩主の子孫に当たる、久松定謨伯爵が、松山の別宅として建築した萬翠荘。政府は、旧藩主、特に旧譜代、親藩の子孫は東京住まいとされたため松山に居宅がなかったので建築した。


愛媛県本庁者見学後、萬翠荘に移動、先ずは担当者から説明を受けて内部見学。


正面玄関受付に開示してある重要文化財指定書。


1階南側にある謁見室。昨日は明日から展示会開催の準備がされていた。


各部屋に設置されている暖房(ガスストーブ)、松山で初めての都市ガス使用。


踊り場のステンドガラスで、木内真太郎の作品。当時、松山では最大の一級品。


摂政宮様で太子時代のお姿。


旧伊豫松山藩主子孫、第16代久松定謨で、大正6年陸軍歩兵第一旅団長、大正9年陸軍中将となる。


これからが萬翠荘3階の屋根裏、非公開である。


トラス構造で、三角形を基本単位としてその集合体で構成する構造形式。


真ん中の黒いパイプは、各部屋の暖炉(ガスストーブ)の排気管。


3階にある非常口。


昭和20年10月21日連合軍の四国進駐地を松山に決定。大型駆逐艦や巡洋艦に護衛されてマンダナオ島ダオバから松山・三津浜沖に到着上陸し、松山から、高松、徳島、高知とGHQの兵士は進駐していった。萬翠荘は師団長の宿舎となり、以後昭和24年11月30日までの約4年間松山をはじめ四国を統治続けた。
画像の英語表示板は、3階非常口にあるものでその当時の名残として保存されている。


大正11年11月15日から二日間、松山で陸海軍の大演習が行われた時、同年11月17日、海南新聞(現、愛媛新聞)の記事。上部画像は、摂政宮が観閲される場所、荒神山に上がられている様子。


松山陸海軍大演習を高浜の荒神山で観閲されるご座所。奥に見える島が「興居島」。


大正11年11月15日、昭和天皇が摂政宮の時、陸海軍の大演習が高浜沖で行われ荒神山から観閲された。皇太子ご結婚記念に大正13年1月に観閲された荒神山に建立された記念碑。「摂政宮殿下特別大演習御野立場」揮毫は、陸軍大将、秋山好古で好古は、北豫中学校校長であった。
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愛媛県庁本館見学会

2013年11月12日 | 伊予松山歴史散策
今日(11月12日)愛媛県本館見学会が開催され行って来ました。
地元松山に居住しながら市役所に行く機会はありますが、県庁それも本館に行くことは滅多にないことです。見学募集定員は20名であったが、40名の申し込みがあり、全て受け入れての見学会でありました。
さて、愛媛県庁本館は、昭和4年2月9日竣工で、工期は、昭和2年11月11日~昭和4年2月9日、明治6年に愛媛県誕生後、第4代目庁舎であります。現在全国の都道府県庁舎で、知事が執務する庁舎としては全国で3番目に古い庁舎で、大阪府庁本館、神奈川県庁本館そして愛媛県庁舎です。国会議事堂(昭和11年竣工)より古い庁舎です。
愛媛県庁本館の概要は下記の通りです。

1、竣  工   昭和4年2月9日竣工
2、建築様式   鉄筋コンクリート造り 4階建て
3、建築面積   2,030㎡        
4、延べ面積   8,414㎡ 
5、高  さ   32,6m 幅:東西80m 南北:43m
6、建設費    102万円(現在に換算すると100~120億円。
         但し、現在、実際に建設すると120億円かけても建設出来ないと言われている。貴重な建造物。
7、特  徴  中央にドームを配した、左右対称の構えで、空から見ると鳥が翼を広げた形で、どっしりとした中にも優しさ と美しさがある。アーチや装飾が多く取り入れられた、格調の高い建物。
8、設計者    木子 七郎で、東京帝国大学建築科を卒業後、大林組を経て設計事務所を開き、大正末期から昭和初期にかけて大阪を拠点に、多くの公共建築などを手がけた建築家。仏のレジオン・ドヌール勲章受賞。明治17年、京都生まれで、東洋一のベルト王と言われた、新田長次郎(松山大学創設者)の娘婿。 


昭和4年2月9日、完成の愛媛県本庁舎正面で、全国で3番目に古い県庁舎。
一番古いのは、大阪府庁舎、二番目が、神奈川県庁舎。


愛媛県本庁舎正面玄関から二階ロビーへ。本日の見学会の集合場所である。


二階ロビーの床は大理石で、アンモナイトの化石がある。


愛媛県本庁舎二階ロビーに集合した見学者40名、担当職員が見学コースの説明があり見学開始。床は全て大理石。


先ず最初の見学場所は、迎賓室で、天皇陛下、各皇族方、外国大使、総理大臣など県の公式の特別なお客様をお迎えする部屋。


続いての見学場所は、知事が記者会見や、市町村の関係者、知事に陳情にくる人たちと会見する部屋。


その次は、正庁で、正庁とは、辞書には「正面の大広場」とある。現在では講堂。この部屋では、叙勲や県功労賞の伝達式などの式典を行う。


正庁に掲げてある、日本国旗と、愛媛県旗で昭和27年5月5日制定。


4階上塔屋「ドーム会議室」で、ドームの真下にある塔屋という場所。建設当初は会議室。近年は書庫、しかし芸予地震(平成13年)で本棚崩壊再び会議室になった。壁には愛媛県が誕生してからの歴代県庁舎の写真が展示してある。


明治6年誕生した愛媛県で、初代県庁舎、場所は松山市堀の内三の丸にあった国立病院付近に粗末な平屋建ての庁舎として発足した。画像左下の建物。


第2代目県庁舎で、明治10年6月、現在地にあった松山藩家老奥平家の屋敷跡を買収し、翌明治11年11月25日木造平屋建ての庁舎を新築した。


第3代庁舎で、事務量増大により庁舎が狭いと言う事で、明治42年6月26日、木造二階建の洋風庁舎が誕生した。


現代の庁舎で、画像は現庁舎が建設されている最中の写真で、昭和4年、木子七郎の設計で建てられた。


昭和22年の画像で、迷彩の残る現庁舎。
昭和20年7月26日の松山大空襲に焼け残った。空襲を避けるために県庁本館の前面に施された迷彩は、この年(昭和22年)になっても黒っぽく残されていた。


現庁舎を上から見た写真で、撮影場所は、NTT四国のビル屋上から撮ったものと推察。
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いにしえの絵図・地図を楽しむ

2013年11月10日 | 伊予松山歴史散策


伊豫史談会100周年記念事業の一環として、愛媛県立図書館及び伊豫史談会が所蔵する近世・近代の絵図や地図を紹介し、活用事例を紹介する記念講講演会があったので公聴に行って来た。

1、日 時   平成25年11月10日、午前10時~12時迄
2、場 所   愛媛県立図書館 5F多目的ホールで
3、内 容   伊豫史談会所蔵の絵図を楽しむ
        講師:井上 淳氏 (伊豫史談会役員)
        図書館所蔵の絵図・地図を楽しむ
        講師:柚山 俊夫氏(伊豫史談会役員) 
4、参加対象者 県民一般、定員100名で募集していたので、興味があったので、募集開始後直ぐに申し込んだ。
最近は、各地で、切り絵図、古地図で楽しむ町歩き散策が紹介されている。
今日の講演は、藩政時代の絵図を使い井上 淳氏(学芸員)が画像を使いながらの話であった。
藩政以降、明治、大正、昭和(戦前)にかけて伊予松山にふさわしい街づくりをして来たが、残念ながら昭和20年7月26日、B29による大空襲で古い町は失われた。当時の愛媛新聞には「敵機遂に県都松山を焼爆、B2960機、2時間半夜襲、軍官民敢闘し、重要施設は殆ど無事」という見出しで報じた。
松山大空襲第一弾は、古町方面に投下、第2番機は、城山を中心に50キロ、及び6ポンド混合投下、東雲小学校だけでも大型23個、小型数知れず・・とある。松山市の罹災状況は、面積4,785平方キロ、戸数14,300戸、被災者数62,200人が被災した。
松山市は、昭和3年1月1日に都市計画法の適用を受け、都市計画街路の計画決定をみたが事業の決定をみずして終戦を迎えた。市街地の殆どが昭和20年7月の空襲で全焼したので従来の計画を一変し、昭和26年4月1日、松山国際観光温泉文化都市建設法が公布され、これにもとづいた建設計画により、街路・上下水道・港湾等の整備・公園緑地・住宅・観光道路・温泉その他の観光資源の開発の実施が行われ、その後数次の改定を経て現在の松山市が構築されている。
戦災復興が遅れたのは、6年8ヶ月にもおよぶ長き占領体制が続けられたからである。昭和22年3月に連合国軍最高司令官マッカーサーによって早期講和条約の提唱がなされたが実現されなかった。日本と連合諸国との講和条約は、昭和26年9月6日調印、昭和27年4月28日発行し、日本の独立が回復したのである。私は何故4月28日を独立記念日(日本主権回復)として式典が行われないのか不思議である。・・日本は??
朝鮮戦争、昭和25年6月25日から昭和28年7月27日による朝鮮特需による日本経済の急激に好転した。

画像は、藩政時代の伊豫松山城と江戸屋敷の絵図&画像であります。


140名が聴講、定員を越え急遽会場は補助椅子を準備しての講演会大盛況であった。


伊豫松山藩第2代藩主、蒲生忠知(20万石)の時代に幕府の隠密が城の状態を詮索に来たとき描いた伊豫松山城絵図。


伊豫松山藩第2代藩主、蒲生忠知(20万石)の時代に幕府の隠密が城の状態を詮索に来たとき描いた伊豫松山城絵図で、本丸本壇の絵図で、何故か天守が描かれてない。


伊豫松山城、三の丸、二の丸、本丸の絵図で、時代は、正徳~享保年間。


伊豫松山城、二の丸、本丸の絵図で、時代は正徳~享保年間。


伊豫松山城、三の丸、二の丸、本丸の絵図で、時代は、文久4年(1864)。
江戸時代最大であった南北の登り石垣もはっきりと描かれている。


伊豫松山城、三の丸、二の丸、本丸の絵図で、南北の登り石垣は立体的に描かれている。時代は、幕末期。


伊豫松山城二の丸御殿の絵図で、時代は、嘉永7年(1854)。


伊豫松山城三の丸の絵図、時代は、天明3年(1737)。


伊豫松山藩主第3代松平定行が隠居して東野に御殿を造営し居住した。そして隣接して、吟松庵を造った時の絵図、描かれた時代は不明だが、定行が隠居するために、萬治元年~3ヵ年掛けて御殿が造営とあるからその時代では??


伊豫松山藩江戸上屋敷(芝愛宕下)の絵図で、現在は、慈恵大学。時代は、嘉永4年(1851)。


伊豫松山藩江戸上屋敷(芝愛宕下)時代は不明。面積は1万坪あったとか。


伊豫松山藩江戸中屋敷(芝三田)時代は不明。
画像下の長屋は、他の藩屋敷で、一段上が伊豫松山藩江戸中屋敷。
この中屋敷で赤穂浪士10名が切腹した。


伊豫松山藩江戸中屋敷(芝三田)跡で、現在は、イタリア大使館。
この屋敷で赤穂浪士10名が切腹したことに付いて、イタリヤ大使は後世に伝えたく庭に石碑を建立している。
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