EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

東山古墳公園、散策

2013年11月09日 | 伊予松山歴史散策
東山古墳公園は、松山平野のほぼ中央に位置する独立丘陵で、『伊予国風土記』逸文に記されている「伊予三山:天山・星岡山・東山、の一つとしてよく知られている。周辺には縄文時代をはじめとして古墳時代から中世にわたる数多くの遺跡が存在している。
特に、東山は、現在までの調査によって23基の古墳を検出し、松山平野の中でも有数の古墳時代の群集墳であることが判明している。
調査からは、縄文土器、弥生時代前期の土媛墓、古墳6基、中世の土器を検出した。特に、古墳6基からは古墳の墳形と石室構造など松山平野全体の古墳形態を考える上で貴重な資料となっている。また、弥生時代前期の土娠墓は松山平野で数少ない出土例である。我が家の近くには歴史ある史跡があり、久しぶりに散策した。
「伊予三山:天山・星岡山・東山の標高は、
天山:50,4m 星岡山:75,4m 東山:48,5m


所在地:松山市東石井三丁目。


空撮でみる伊予三山、「天山・東山・星岡山」。


東山古墳公園


東山古墳公園、山頂には画像のような展望台がある。





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俳句の町松山の句碑巡り 18 村上霽月

2013年11月07日 | 伊予松山歴史散策

画像は、村上霽月邸跡。

この所毎日自転車で句碑めぐりをしている。昨日は三津地区を散策。
本日は、垣生地区を散策した。時より降雨があり雨宿りをしながらの句碑散策、帰りは城北の、御幸一丁目にある足立重信の墓所まで足を伸ばした。
さて、本日は村上霽月である。
村上霽月は、愛媛県伊予郡西垣生(現・松山市西垣生町)に明治2年(1869)8月9日生まれる。父・久太郎、母・ナヲの長男で、本名半太郎。祖父の時代産をなした家である。松山中学より、明治20年、第一高等中学校に入学したが、家庭の事情で明治24年退学、父の興した今出絣株式会社社長に就任、この年11月頃より句作を始める。明治26年より新聞「日本」に投句を始め、4月、大阪で「蕪村句集」上巻を入手、子規よりも早く蕪村を知り心酔する。明治28年9月より愚陀佛庵にいた子規との交際が深くなり、10月7日、子規は今出霽月邸を訪う。明治29年3月1日には、漱石と虚子が霽月を訪ね、三人で「神仙体」と称する句を作り、東京の「めさまし草」巻3に載せる。その後子規との交わりは、明治28年11月、上京中に根岸の子規庵を二度訪ねるがその後伺ってない。明治30年、松山で「ホトトギス」発刊に当たって創刊号より投句、一時期その選者も務めたが、大正4年から東洋城の「渋柿」に参加する。
村上霽月は、本来経済人で、伊予農業銀行頭取、今出産業信用組合長、県信用組合連合会長、県信用購買利用組合連合会長、愛媛銀行頭取などの要職を務め、その傍ら句作に励んだが、昭和20年、産業組合事業の第一線より引退した。松山市南堀端の農協会館入口には、村上霽月胸像がある。
昭和8年に霽月句集三巻、昭和53年11月、霽月句文集(青葉図書)が出版された。
昭和21年2月5日、逝去、78歳であった。


村上霽月邸にある、村上半太郎翁頌徳碑。
揮毫者は、全国農業協同組合中央会会長 荷見 安・・立派な石碑である。


俳句の里松山、市内散策城西地区にある句碑。
松山市西垣生町、三嶋神社にある。
句は「初暦好日三百六十五」碑の裏面に今出吟社とある、明治40年頃、地区の俳人で霽月に師事するものが作った結社で、師を崇拝することの深かった三由淡紅がその中心となって月例会を開いていた。この句碑は、その人々が霽月三回忌の祥月に建立した報恩の句碑で、碑には、その人々の俳号と、淡紅はじめ、10名が刻まれている。句の文字は、霽月の自筆。


俳句の里松山、市内散策城西地区にある句碑。
松山市西垣生町、三嶋神社にある。
句は「酔眼に天地麗ら麗らかな」
地元有志が昭和39年4月20日建立した。霽月自筆である。


俳句の里松山、市内散策城西地区にある句碑。
松山市西垣生町、鍵谷カナの頌項堂の前にある。
句は「朝鵙ニ鵙ニかすり織りすすむ」碑の文字は、霽月自筆。句の右側に「報恩謝徳」が揮毫されている。この報恩謝徳は、頌項堂に祀られた「鍵谷カナ」の「伊予絣を創始した御恩に報いありがたく思うの意を表し、鍵谷カナ嫗の御恩に報いるため、自分たちも、休まず努力し励む」ことを誓うことを述べたものであると。・・ある。
鍵谷カナは、天明2年(1782)元治1年(1864)で、伊予絣の創始者で、伊予絣は「伊予節」に唄いこまれている松山の特産品として全国に知られている。


村上霽月の墓所、長楽寺にある霽月の石碑。


松山市立垣生中学校にある霽月の句碑。
句は「第一峰に立てば炎天なかりけり」


足立重信の墓所で、所在地は、松山市御幸一丁目来迎寺
重信は、美濃国の生まれで、若い頃より加藤嘉明に小姓として仕えた。
重信は、松山城築城に際して南麓を流れる湯山川(現在の石手川)の流路を変更して伊豫川(現重信川)と合流させ、城の外堀として活用する等、堅固な築堤と水制工事、城下開発に卓越した手腕を見せた。その後も松山城の城郭や堀割などの構築に尽力し、伊予松山藩の初期土木行政に活躍し、その後筆頭家老として活躍したが、松山城の完成を待たず死去した。生前望んだ松山城下を見渡せる愛媛県松山市の山越来迎寺に葬られた。


足立重信の墓所に二つの灯篭がある。右に内藤鳴雪の句が刻まれていて、左に、村上霽月の句が刻まれている。
句は「寶川伊豫川の秋の出水哉」・・寶川は、現在の石手川、伊豫川は現在の重信川の古称で、改修前のこれらの川を偲んで詠んだ句、大正14年建立。
献灯碑脚に句が刻まれているものとしては、異色のものである。
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俳句の街松山の句碑巡り 17 栗田樗堂

2013年11月06日 | 伊予松山歴史散策

画像は、庚申庵の庭園。

栗田樗堂は、松山市松前町酒造業豊後屋後藤昌信の三男として寛延2年(1749)8月21日生まれる。本名政範、通称貞蔵、俳号は、はじめ畹室・蘭芝、のち息陰・樗堂と改めた。同町酒造家廉屋こと栗田家に入夫し、7代目与左衛門専助と称し、5代目与左衛門政恒(俳号・天山)が初代二畳庵を興したのを継いで、二畳庵を再興した。栗田家は松山きっての造り酒屋で、近年まで、その銘酒「全世界」・「白玉」・「呉竹」の名は有名で、他店の酒よりも値がよかった。
樗堂は、家業の酒造業で財をなした外に、明治8年より町方大年寄役見習、大年寄、大年寄格となり、享和2年(1802)53歳の時、病のため辞したが、その間、大年寄であること通算20数年に及んだことでも、彼の人柄と人望の程がうかがえることがわかる。その間、俳諧に親しんで、天明6年(1786)当時の全国諸芸の達人を示した書「名人異類鑑」に、38歳の樗堂は、早くも「俳諧上々、廉屋左衛門」と記された。天明7年、京都に上がり、加藤暁台に学び、近世伊予の第一の俳人と言われた。小林一茶は、その師竹阿の旅の跡をたどり、寛政7年(1795)と翌年の二度、樗堂を訪ねており、名古屋の同門井上士朗も親交があり彼を訪ねている。
寛政12年(1800)(庚申の年)、松山城の西、味酒の地に「古庚申」と称する青面金剛を祀る祠の近くに、その年の「干支」との祠の名に因んで「庚申庵」を建てて、風雅な生活を楽しみ「庚申庵記」を書いた。寛政1年(1789)妻の没後、安芸(広島県)三原藩の宇都宮氏より後妻を迎えた縁で、安芸の御手洗島(大崎下島)へ移り、ここにも二畳庵をいとなんで没する迄の約10年間この地で過ごした。
「一畳は浮世の欲や二畳庵」・・樗堂
味酒二丁目にある庚申庵入口に句碑があり、「草の戸の古き友なり梅の花」、
樗堂を訪ねた年若い小林一茶は、寛政7年・8年と二度二畳庵(現、阿沼美神社にあったとされる樗堂の最初の庵)に滞在し、生涯の交友を結んだのはこの庵であった。
樗堂は、常々私の名はあまり外に出さぬようにと言っていたそうだ。当時伊予松山に俳人樗堂ありとはあまり知られていなかった。芭蕉や多くの文人がしたように、「名誉を求めず一介の旅人として」御手洗の島で亡くなった。66歳であった。


松山市味酒二丁目6-7にある庚申庵の正面玄関、右手の石碑に栗田樗堂の句碑がある。


庚申庵は、昭和20年の松山大空襲から逃れた。しかし日を追う毎に確実に老朽化は進んでおり、存続の危機にさらされていたが、松山東雲女子大学学の学生、教授による声をきっかけに、松山市は、平成12年公有化の上で修復・保護し、活用することを決定。平成15年5月、庚申庵は史跡庭園として開園され、現在に至っている。昭和24年9月17日愛媛県指定の史跡となっている。




平成12年公有化の上で修復、平成15年5月、開園された庚申庵内部。






庚申庵正面玄関にある、庚申庵と樗堂の句。


松山市味酒三丁目、阿沼美神社にある樗堂の句。
句は「浮雲やまた降雪の少しづつ」・・文字は、樗堂の自筆。
二畳庵は、この碑のある辺りにあった。


「浮雲やまた降雪の少しづつ」句碑の裏面。


樗堂の句「はつさくら華の世の中よかりけり」

松山市神田町、厳島神社にある樗堂の句碑で、石碑は、四角の石碑に、松尾芭蕉と、栗田樗堂の句が刻まれている。両句とも桜の句で「さくら塚」と言われている。
四角の石碑正面に、「紗(さ)空(く)楽(ら)都(つ)閑(か)」(桜塚)
左に「木のもとにしるも膾(なます)もさくら哉」・・芭蕉
右に「はつさくら華の世の中よかりけり」・・樗堂
裏面に「文化十二年乙亥三月」とある。
文化12年は樗堂死去の翌年で、芭蕉の句は、元禄3年(1690)の句で、芭蕉が郷里伊賀上野の花見の宴に桜の散り掛かる様子を詠んだものと言われ各地で句碑になっているそうだ。樗堂の先妻は、三津の出身で、実家の離れ座敷でしばしば句会を開いたとある。この句碑のある厳島神社も三津にありそんな縁もありこの神社に句碑を建立したのではと思う。


「紗(さ)空(く)楽(ら)都(つ)閑(か)」と「木のもとにしるも膾(なます)もさくら哉」・・芭蕉


裏面に「文化十二年乙亥三月」
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俳句の街松山の句碑巡り 16 酒井黙禅

2013年11月05日 | 伊予松山歴史散策
酒井黙禅は、明治16年3月15日、福岡県八女郡田村(現筑後市)に生まれ、本名和太郎。熊本5校より東大医学部卒、大正7年学位を得た翌年、東大俳句会に句作を始め、長谷川零余子、のち虚子に師事し、4年目に早くも「ホトトギス」同人に推され、課題句の選者になった。大正9年3月、38歳で日本赤十字社松山病院長として松山に赴任して来た時、虚子は、「東風の船博士をのせて高浜へ」の句をはなむけに贈った。
黙禅は、虚子のこの句に応えるかのように、一生、松山、愛媛県を離れず、本務と句作に励んだ。日赤松山病院長を昭和23年まで29年間務め、その年より昭和25年まで、東宇和郡町立野村病院開設の為に尽くし、その後松山市道後多幸の地に住むようになってから診療に従いながら、虚子の後を受けて、俳諧文庫会の会長として、伊予俳諧文庫の充実を余生の仕事として、また地元民の句作グループまで親切に指導し、自らも生涯句作に励み、老いて益々その句境に冴えを見せ、「愛媛新聞賞・昭和30年」「県教育文化賞・昭和35年」を受けた。句碑は、日赤松山病院など県内に多く建立されている。
昭和47年1月8日、逝去88歳であった。


画像は、酒井黙禅が病院長として勤めた日赤松山病院で句碑は、正面玄関南角にある。


日赤松山病院正面玄関南角にある。
句碑は、昭和29年3月日赤松山病院付属高等看護学院の卒業式の祝辞の中で詠んだ句、赤十字人の心の糧にと同年5月建立した。


日赤松山病院正面玄関南角にある碑。


句は「春光や三百年の城の景」
酒井黙禅、80歳の誕生日の昭和37年3月15日除幕式。文字は黙禅の直筆。三層の伊予松山城天守は松平定行の代、寛永19年(1642)改装したときである。この碑が出来た昭和37年(1962)から300年の昔になる。
句碑の所在地は、松山市祝谷五丁目、道後公民館祝谷分館にある。分館から松山城が良く見える。分館内には、黙禅愛用の文具および聴診器等々がガラスケースに納められ保管展示されている。句碑は、祝谷分館俳句会の指導者として毎週木曜日に行った。句碑は、祝谷分館俳句会が建立した。


句は、「東風の船高浜に着き五十春」・・松山市祝谷東町・松山神社参道中ほど右側にある。
酒井黙禅が東大医学部卒業後、日赤松山病院長として東京から赴任したのは大正9年3月、数え年38歳、3月5日東京向島・「喜多の家」での送別会で、高浜虚子は、「東風の船博士をのせて高浜へ」の句を贈って黙禅の前途を祝福した。句碑建立は昭和47年3月15日は、黙禅90歳の誕生日になる筈であったが、今日が待てなかった。この年の1月8日に逝去した。文字は、黙禅自筆。


宝厳寺境内にある、時宗開祖一遍上人成道700年を記念して建立された。
句は「子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋」
宝厳寺本堂には、一遍上人立像(明治34年3月27日、国指定重要文化財)があったが、今年8月10日、の火災により消失した。全国の国指定重要文化財が焼失で指定取り消しになるなは30数年ぶりとか??
所在は、松山市道後湯月町・宝厳寺・・時宗の総本山は、神奈川県藤沢市にある清浄光寺(しょうじょうこうじ)で通称「遊行寺(ゆぎょうじ)」です。


今年8月10日火災で焼失する前の宝厳寺本堂。


8月10日、午後2時15分頃失火で炎上する宝厳寺本堂。・・松山城天守最上階から撮影。


句「梅が香やおまへとあしの子規眞之」・・松山市梅津寺町にある。
「おまへとあし」は、「君と僕」の伊予の方言である。
日本海軍聯合艦隊、東郷平八郎司令長官の参謀として信頼の厚かった、秋山眞之は、この銅像建立に際して「智謀湧如」の名言の揮毫が石碑に刻印されている。松山中学の竹馬の友、正岡子規と秋山眞之、そして清水則遠の三人は東京大学を目指して上京、東京予備門時代に清水則遠は病死する。その後子規は、東大に進学するが眞之は海軍兵学校に進み、明治29年、米国に留学、見送る子規の句に「君を送り思ふことあり蚊帳に泣く・・子規」という句を眞之に送った。
昭和38年、石手寺に再建された秋山眞之の立像はここ梅津寺に建てられた。
酒井黙禅の句碑も石手寺から銅像とともに移した。銅像も句碑も、愛媛海友会によって昭和43年9月に建てられた。


昭和38年、石手寺に再建された秋山眞之の立像はここ梅津寺に移し建てられた。
酒井黙禅の句碑も石手寺から銅像とともに移した。銅像も句碑も、愛媛海友会によって昭和38年5月12日建てられた。
画像手前の石は、大分県竹田市にある広瀬神社から送られたもので、「旅順口閉塞作戦の船に積んだ石」(護国の石)である。第二次閉塞作戦は、3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船を投入して実行されたが、ロシア軍に察知されて失敗した。この作戦においては、閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神とされ崇められた。広瀬神社から贈られた「旅順口閉塞作戦の船に積んだ石」(護国の石)である。
海軍中佐、広瀬武夫は、秋山眞之とは、海軍兵学校の先輩、後輩の間柄で、広瀬武夫は、海軍兵学校第15期生、秋山眞之は、第17期生である。



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第15回 松山・城山門前まつり

2013年11月04日 | 伊予松山歴史散策



坂の上の雲の町松山の、大街道3丁目商店街で15回目を向かえる「城山 門前まつり」・毎年11月3日の文化の日にロープウェー通りを交通規制して、1日歩行者天国となった開放的な商店街で、各種のイベントが開催された。今日の松山は朝から小雨が降る生憎の一日であったが、今や坂の上の雲の町松山の大きいな行事の一つとなっている。
主催者は、松山大街道3丁目まちづくり委員会・委員長藤島寛昌氏で、松山ロープウェー街商店街振興組合・ 松山ロープウェー街中央商店街振興組合:松山ロープウェー街北商店街振興組合の合同開催で、それに地元松山商業高校・東雲女学校の生徒さん達も応援参加して多くの人出で賑わった。しかし松山では楽しく過ごせる賑わいの行事が行われ平穏な地であるが、東北震災地は未だ復興途上、門前祭りに来た人々の心にその労りの気持ちを持っている人が何人いるのだろう??そんな事を思いながらシャッターを押した。


私は、「たんたん」松山ロープウエー商店街のマスコットキャラクターです。よろしくね!!・・ゆるきゃらグランプリにエントリーします。応援よろしくお願いします。
ゆるきゃら「たんたん」は私達、松山商業高等学校が製作しました。


第15回城山門前祭り今年も近郊の市民や県外からの観光のお客さんたちで賑わった。


路上ステージ・キッズダンス「Smile Hart」・・見事なダンスでした。


午前11時過ぎから少し大振りな雨が降り出した。門前祭りに水をさした感、それを感じさせないかのように「綺麗に着飾った芸子さんが現れ時を演出した。


松山ロープウエー商店街直ぐ東側に秋山兄弟生誕地がある。生誕地の研究員も門前祭りに参加して秋山兄弟生誕地の観光案内に勤めた。


松山ロープウエー商店街には芸子さんたちのお店もあります。お茶も用意しております。お気軽にお越し下さい・・と。


松山コンベンション協会所属のガイドさんたち、普段はロープウエー山頂駅舎で待機して松山城をご案内しておりますが、門前祭りはロープウエー山麓駅舎前で受付をしていただき案内しました。・・毎年行っております。


城山門前祭り「シエルで前コンサート」懐かしい歌を弾き語り・・懐かしき歌を聞き入っていました。


松山ロープウエー商店街にはいろんな店舗がありますが、その一つに杉原楽器店があり、この日は、三弦のライブ演奏が、3回演奏されました。なかなか迫力のあるライブ演奏でした。
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