画像は、庚申庵の庭園。
栗田樗堂は、松山市松前町酒造業豊後屋後藤昌信の三男として寛延2年(1749)8月21日生まれる。本名政範、通称貞蔵、俳号は、はじめ畹室・蘭芝、のち息陰・樗堂と改めた。同町酒造家廉屋こと栗田家に入夫し、7代目与左衛門専助と称し、5代目与左衛門政恒(俳号・天山)が初代二畳庵を興したのを継いで、二畳庵を再興した。栗田家は松山きっての造り酒屋で、近年まで、その銘酒「全世界」・「白玉」・「呉竹」の名は有名で、他店の酒よりも値がよかった。
樗堂は、家業の酒造業で財をなした外に、明治8年より町方大年寄役見習、大年寄、大年寄格となり、享和2年(1802)53歳の時、病のため辞したが、その間、大年寄であること通算20数年に及んだことでも、彼の人柄と人望の程がうかがえることがわかる。その間、俳諧に親しんで、天明6年(1786)当時の全国諸芸の達人を示した書「名人異類鑑」に、38歳の樗堂は、早くも「俳諧上々、廉屋左衛門」と記された。天明7年、京都に上がり、加藤暁台に学び、近世伊予の第一の俳人と言われた。小林一茶は、その師竹阿の旅の跡をたどり、寛政7年(1795)と翌年の二度、樗堂を訪ねており、名古屋の同門井上士朗も親交があり彼を訪ねている。
寛政12年(1800)(庚申の年)、松山城の西、味酒の地に「古庚申」と称する青面金剛を祀る祠の近くに、その年の「干支」との祠の名に因んで「庚申庵」を建てて、風雅な生活を楽しみ「庚申庵記」を書いた。寛政1年(1789)妻の没後、安芸(広島県)三原藩の宇都宮氏より後妻を迎えた縁で、安芸の御手洗島(大崎下島)へ移り、ここにも二畳庵をいとなんで没する迄の約10年間この地で過ごした。
「一畳は浮世の欲や二畳庵」・・樗堂
味酒二丁目にある庚申庵入口に句碑があり、「草の戸の古き友なり梅の花」、
樗堂を訪ねた年若い小林一茶は、寛政7年・8年と二度二畳庵(現、阿沼美神社にあったとされる樗堂の最初の庵)に滞在し、生涯の交友を結んだのはこの庵であった。
樗堂は、常々私の名はあまり外に出さぬようにと言っていたそうだ。当時伊予松山に俳人樗堂ありとはあまり知られていなかった。芭蕉や多くの文人がしたように、「名誉を求めず一介の旅人として」御手洗の島で亡くなった。66歳であった。
松山市味酒二丁目6-7にある庚申庵の正面玄関、右手の石碑に栗田樗堂の句碑がある。
庚申庵は、昭和20年の松山大空襲から逃れた。しかし日を追う毎に確実に老朽化は進んでおり、存続の危機にさらされていたが、松山東雲女子大学学の学生、教授による声をきっかけに、松山市は、平成12年公有化の上で修復・保護し、活用することを決定。平成15年5月、庚申庵は史跡庭園として開園され、現在に至っている。昭和24年9月17日愛媛県指定の史跡となっている。
平成12年公有化の上で修復、平成15年5月、開園された庚申庵内部。
庚申庵正面玄関にある、庚申庵と樗堂の句。
松山市味酒三丁目、阿沼美神社にある樗堂の句。
句は「浮雲やまた降雪の少しづつ」・・文字は、樗堂の自筆。
二畳庵は、この碑のある辺りにあった。
「浮雲やまた降雪の少しづつ」句碑の裏面。
樗堂の句「はつさくら華の世の中よかりけり」
松山市神田町、厳島神社にある樗堂の句碑で、石碑は、四角の石碑に、松尾芭蕉と、栗田樗堂の句が刻まれている。両句とも桜の句で「さくら塚」と言われている。
四角の石碑正面に、「紗(さ)空(く)楽(ら)都(つ)閑(か)」(桜塚)
左に「木のもとにしるも膾(なます)もさくら哉」・・芭蕉
右に「はつさくら華の世の中よかりけり」・・樗堂
裏面に「文化十二年乙亥三月」とある。
文化12年は樗堂死去の翌年で、芭蕉の句は、元禄3年(1690)の句で、芭蕉が郷里伊賀上野の花見の宴に桜の散り掛かる様子を詠んだものと言われ各地で句碑になっているそうだ。樗堂の先妻は、三津の出身で、実家の離れ座敷でしばしば句会を開いたとある。この句碑のある厳島神社も三津にありそんな縁もありこの神社に句碑を建立したのではと思う。
「紗(さ)空(く)楽(ら)都(つ)閑(か)」と「木のもとにしるも膾(なます)もさくら哉」・・芭蕉
裏面に「文化十二年乙亥三月」