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俳句の街松山の句碑巡り 13 大高子葉

2013年11月01日 | 伊予松山歴史散策
大高子葉は、赤穂浪士「大高源五」の雅号で俳諧にも事績を残した武士であった。大高家は平安時代から続く名門で、奥州豪族安倍貞任の一族、奥州の大高館を本拠としていたので大高氏を称するようになったとある。
源五は、赤穂藩士大高忠晴(200石)の長男として赤穂に生まれた。幼名は六郎。延宝4年(1676)4月3日に父忠晴が死去したため、大高家の家督を相続。藩内では金奉行・膳番元方・腰物方などを務めた。
元禄14年、赤穂藩主浅野内匠頭の江戸城松の廊下において、吉良上野介に刃傷に及び切腹となったのを受け、翌元禄15年12月14日、赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入りし、上野介を討ち、亡き主君のあだ討ちを果たした浪士達は江戸幕府の指示により浪士47名の内、大石主税良金他9名が、芝三田の伊予松山藩にお預けとなり、第5代将軍、徳川綱吉の命により、元禄16年2月4日、伊予松山藩江戸中屋敷で切腹となった。この時大高源五と木村岡衛門の切腹の介錯をしたのが、伊予松山藩士、宮原久太夫頼安であった。宮原は、大高・木村とは以前から親交があったことから、二人の遺髪を伊予松山に持ち帰り藩主の許可を得て、宮原家の菩提寺である興聖寺に墓を建てて供養した言い伝えが記録されている。
宮原久太夫頼安は、この介錯の後、著名な俳人でも殺さねばならない武士稼業というものに嫌気がさし、武士を捨てて酒屋に転じている。
註1:伊予松山藩江戸中屋敷は、現在はイタリヤ大使館となり、イタリヤ大使はこの事を後世に伝えたくイタリヤ大使館の庭に石碑を建立している。
註2:戦前開催されていた義士祭も昭和20年7月26日の大空襲で中断されていたが、昭和26年荒廃した松山の町も復興がなり、人の心も安定しかけたので、末広町の有志が町興しも兼ねて、松山義士祭として義士の供養をして現在も12月14日に開催している。
註3:伊予松山藩にお預けとなった10名。
     大石主税良金    15歳        堀部安兵衛武康   33歳 
      中村勘助正辰      44歳      木村岡衛門貞行   45歳
     岡野金右衛門包秀  23歳      不和数右衛門正種  33歳
     菅谷半之丞政利   50歳       貝賀弥左衛門友信  53歳
     千馬三郎兵衛光忠  50歳        大高源五忠雄    31歳
画像は、松山市末広町にある興聖寺にある大高源五(子葉)の句碑と昨年12月に開催された義士祭である。


松山市末広町興聖寺にある大高源五(子葉)の句碑。


大高源五(子葉)の句「梅てのむ 茶屋も有へし 死出の山」
赤穂浪士、大高源五は子葉と号し、宝井其角に俳句を習った。元禄16年2月4日、伊予松山藩江戸中屋敷で切腹となった。その死に臨んでこの句を残して清く自刃した。
享年32歳。其角遺稿の俳諧選集「類柑子」宝永4年(1707)刊により、昭和39年建立。


興聖寺山門にある、木村岡衛門・大高源五埋髪之碑。


木村岡衛門・大高源五の墓。
伊予松山藩江戸中屋敷で最後の切腹をしたのは大高源五と言われている。


宮原久太夫頼安の墓。


昨年開催された松山義士祭、これから街に出て義士行列をするその準備風景。


興聖寺に掲げられている表示板。


高島屋デパート前での記念撮影・・昨年。


松山市一番の商店街を義士行列。平成14年討ち入り300年記念義士祭の画像。


興聖寺本堂で行われる義士供養。画像は、昨年12月14日。
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