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俳句の街松山の句碑巡り 16 酒井黙禅

2013年11月05日 | 伊予松山歴史散策
酒井黙禅は、明治16年3月15日、福岡県八女郡田村(現筑後市)に生まれ、本名和太郎。熊本5校より東大医学部卒、大正7年学位を得た翌年、東大俳句会に句作を始め、長谷川零余子、のち虚子に師事し、4年目に早くも「ホトトギス」同人に推され、課題句の選者になった。大正9年3月、38歳で日本赤十字社松山病院長として松山に赴任して来た時、虚子は、「東風の船博士をのせて高浜へ」の句をはなむけに贈った。
黙禅は、虚子のこの句に応えるかのように、一生、松山、愛媛県を離れず、本務と句作に励んだ。日赤松山病院長を昭和23年まで29年間務め、その年より昭和25年まで、東宇和郡町立野村病院開設の為に尽くし、その後松山市道後多幸の地に住むようになってから診療に従いながら、虚子の後を受けて、俳諧文庫会の会長として、伊予俳諧文庫の充実を余生の仕事として、また地元民の句作グループまで親切に指導し、自らも生涯句作に励み、老いて益々その句境に冴えを見せ、「愛媛新聞賞・昭和30年」「県教育文化賞・昭和35年」を受けた。句碑は、日赤松山病院など県内に多く建立されている。
昭和47年1月8日、逝去88歳であった。


画像は、酒井黙禅が病院長として勤めた日赤松山病院で句碑は、正面玄関南角にある。


日赤松山病院正面玄関南角にある。
句碑は、昭和29年3月日赤松山病院付属高等看護学院の卒業式の祝辞の中で詠んだ句、赤十字人の心の糧にと同年5月建立した。


日赤松山病院正面玄関南角にある碑。


句は「春光や三百年の城の景」
酒井黙禅、80歳の誕生日の昭和37年3月15日除幕式。文字は黙禅の直筆。三層の伊予松山城天守は松平定行の代、寛永19年(1642)改装したときである。この碑が出来た昭和37年(1962)から300年の昔になる。
句碑の所在地は、松山市祝谷五丁目、道後公民館祝谷分館にある。分館から松山城が良く見える。分館内には、黙禅愛用の文具および聴診器等々がガラスケースに納められ保管展示されている。句碑は、祝谷分館俳句会の指導者として毎週木曜日に行った。句碑は、祝谷分館俳句会が建立した。


句は、「東風の船高浜に着き五十春」・・松山市祝谷東町・松山神社参道中ほど右側にある。
酒井黙禅が東大医学部卒業後、日赤松山病院長として東京から赴任したのは大正9年3月、数え年38歳、3月5日東京向島・「喜多の家」での送別会で、高浜虚子は、「東風の船博士をのせて高浜へ」の句を贈って黙禅の前途を祝福した。句碑建立は昭和47年3月15日は、黙禅90歳の誕生日になる筈であったが、今日が待てなかった。この年の1月8日に逝去した。文字は、黙禅自筆。


宝厳寺境内にある、時宗開祖一遍上人成道700年を記念して建立された。
句は「子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋」
宝厳寺本堂には、一遍上人立像(明治34年3月27日、国指定重要文化財)があったが、今年8月10日、の火災により消失した。全国の国指定重要文化財が焼失で指定取り消しになるなは30数年ぶりとか??
所在は、松山市道後湯月町・宝厳寺・・時宗の総本山は、神奈川県藤沢市にある清浄光寺(しょうじょうこうじ)で通称「遊行寺(ゆぎょうじ)」です。


今年8月10日火災で焼失する前の宝厳寺本堂。


8月10日、午後2時15分頃失火で炎上する宝厳寺本堂。・・松山城天守最上階から撮影。


句「梅が香やおまへとあしの子規眞之」・・松山市梅津寺町にある。
「おまへとあし」は、「君と僕」の伊予の方言である。
日本海軍聯合艦隊、東郷平八郎司令長官の参謀として信頼の厚かった、秋山眞之は、この銅像建立に際して「智謀湧如」の名言の揮毫が石碑に刻印されている。松山中学の竹馬の友、正岡子規と秋山眞之、そして清水則遠の三人は東京大学を目指して上京、東京予備門時代に清水則遠は病死する。その後子規は、東大に進学するが眞之は海軍兵学校に進み、明治29年、米国に留学、見送る子規の句に「君を送り思ふことあり蚊帳に泣く・・子規」という句を眞之に送った。
昭和38年、石手寺に再建された秋山眞之の立像はここ梅津寺に建てられた。
酒井黙禅の句碑も石手寺から銅像とともに移した。銅像も句碑も、愛媛海友会によって昭和43年9月に建てられた。


昭和38年、石手寺に再建された秋山眞之の立像はここ梅津寺に移し建てられた。
酒井黙禅の句碑も石手寺から銅像とともに移した。銅像も句碑も、愛媛海友会によって昭和38年5月12日建てられた。
画像手前の石は、大分県竹田市にある広瀬神社から送られたもので、「旅順口閉塞作戦の船に積んだ石」(護国の石)である。第二次閉塞作戦は、3月27日未明に決行された。4隻の閉塞船を投入して実行されたが、ロシア軍に察知されて失敗した。この作戦においては、閉塞船「福井丸」を指揮した広瀬武夫少佐(のち中佐に特進)が戦死し、のちに軍神とされ崇められた。広瀬神社から贈られた「旅順口閉塞作戦の船に積んだ石」(護国の石)である。
海軍中佐、広瀬武夫は、秋山眞之とは、海軍兵学校の先輩、後輩の間柄で、広瀬武夫は、海軍兵学校第15期生、秋山眞之は、第17期生である。



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