秋山好古揮毫の石碑が神奈川県平塚市広川に新しく発見され、その取材に伺ってから早一年数ヶ月が経過した。
昨日(11月20日)遠路平塚市から添田吉則氏が秋山兄弟生誕地にお越しになられた。
秋山好古揮毫した平塚市の石碑は、明治27年7月から同28年3月に掛けて行われた日本と清国との戦争に騎兵隊員として従軍し名誉な戦死をされた添田賢次郎騎兵一等卒のため、実父の添田保吉さんが上官である、秋山好古に揮毫を依頼した。
好古は、これに応じ名誉な戦死をした優秀な騎兵隊員であった添田賢次郎騎兵隊員に対して心から哀悼の意を最高の漢詩で撰文した。父親である保吉さんがそれを石碑として建立したものである。
現在、好古揮毫の石碑は全国に51基発見されているが、好古が漢詩で哀悼の意を書き送り石碑として建立されているのは、神奈川県平塚市と千葉県習志野市の織戸家にあった石碑のみであるが、織戸家にあった石碑は、現在ある事情で鎌ヶ谷市の道野辺八幡神社境内に三つに折れ眠っておる。よって現在建立されている石碑は、平塚市の石碑のみである。
昨日、添田吉則氏は秋山邸に来館され、石碑の写真と、石碑の拓本を軸物として表装し展示しているのを見られて、上官秋山好古生誕地にこんなに大切に展示して頂き感激ですと言われた。
また、秋山好古は、東京都世田谷区池尻に、自身が石を調達し、碑文も揮毫し日清戦役で戦死した騎兵隊員のために石碑を建立し、裏面に戦死した騎兵隊員の氏名を刻印して建立した。その中に添田賢次郎騎兵隊員の名前も書いてあることが石碑建立後116年たった昨年確認された。添田吉則夫妻は、世田谷の石碑にお参りに行かれた。なお、添田賢次郎は、添田吉則氏の大祖父である。
註1:秋山好古が、東京都世田谷区池尻に石碑として建立せず、文書として残しておれば、現在は、防衛省の資料館の片隅におかれ国民の知るところではなかったのではないだろうか?・・高が石碑、然れど石碑である。
註2:明治時代、東京都世田谷区池尻あたりは、陸軍騎兵隊があったところでその後千葉県習志野に移転する。現在の陸上自衛隊習志野駐屯地に騎兵学校があった。秋山好古は騎兵学校第二代目校長を歴任していた。
秋山兄弟生誕地で秋山好古騎馬像前にて右は、常盤同郷会常務理事(秋山兄弟生誕地運営委員長)宇都宮氏。
昨年(平成24年4月18日)添田吉則氏の奥様が石碑所在情報を画像奥に掲示している拓本持参で秋山邸に来られた。この拓本を表装して現在秋山邸に展示している。添田吉則氏(右)常盤同郷会常務理事 宇都宮氏。
拓本展示前で、添田吉則氏。
昨年4月18日、添田吉則氏の奥様が石碑の碑文を拓本にとりその拓本を秋山邸に持参された。・・現在秋山兄弟生誕地にて展示公開中。
秋山兄弟生誕地裏庭にある秋山両将の記念石碑前で。
秋山兄弟生誕地のオリジナル映像をご覧になる添田氏。
秋山好古の北豫中学校長時代の資料の説明を熱心に聞き入っていた。
秋山両将の記念石碑の説明を研究員から聞く。
お帰りになる前に宇都宮理事と秋山兄弟生誕地入口で・・秋山兄弟生誕地の文字は、秋山宗家第10代、秋山哲兒氏(東京在住)の直筆。
神奈川県平塚市広川にある秋山好古が揮毫した石碑。昨年(平成24年5月23日)現地取材時に撮影。拓本の石碑。
秋山好古が添田賢次郎騎兵隊員の名誉な戦死に対して漢詩で書き上げた撰文。
秋山好古が添田賢次郎騎兵隊員の名誉な戦死に対して漢詩で書き上げた撰文に送り仮名をつけた文書。・・作成は、添田吉則氏。
東京世田谷区池尻の石碑で、日清戦役戦で戦死した騎兵隊員の事を後世に伝え好古が直筆で名前を揮毫し、石碑の石も自分が調達し建立した。建立年月日は、明治29年6月30日で当時好古は、騎兵第一連隊長であった。
それから月日は流れ116年後に世田谷の石碑と平塚市の石碑の結びつきが判明し好古の思いは伝わった。
世田谷区池尻の碑文表面
征清之役戦死者哀悼碑建設工ヲ竣ル茲ニ其ノ姓名ヲ勤シ永久後世ニ傳フ
明治二十九年六月三十日
騎兵第一聯隊長秋山好古謹記
世田谷区池尻の石碑裏面の文字。
日清戦争戦騎兵隊の戦没者 世田谷区池尻の碑文裏面
陸軍騎兵少尉 山口毅夫
君資性謙譲ニシテ敏活頗ル支那語ニ通ス征清ノ役金州乃旅順ニ転戦シ常ニ勇徃奮進敵状地形ノ偵察ニ盡力シ我騎兵隊ノ活動ヲシテ極メテ容易ナラシメタリ旅順陥落ノ後普蘭店ニ派遣セラレ復洲方面ノ警戒ニ任ズルヤ疾病ヲ犯シ尚能ク激務ニ服シ遂ニ起ツ能ハサルニ及ビ帰朝シ明治二十八年二月十三日廣島陸軍豫備病院ニ於テ卒ス享年二十八歳
陸軍騎兵曹長 吉田四郎 明治二十八年二月八日於老爺廟
豫備陸軍騎兵一等軍曹 藤堂立 明治二十七年十一月十七日於龍口戦死
陸軍騎兵一等軍曹 渡邉武松 明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒 西澤三十 明治二十八年二月二十四日太平山戦死
陸軍騎兵一等卒 根本由之助 明治二十八年二月八日於高刋戦死
陸軍騎兵一等卒 羽毛田安太郎 明治二十八年二月八日年於老爺廟戦死
陸軍騎兵一等卒 添田賢次郎 明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒 内田與作 明治二十八年二月八日於二道河戦死
陸軍騎兵一等卒 新井斧三郎 明治二十七年十一月十九日於龍口戦
豫備陸軍騎兵一等卒 小野田勝三郎 明治二十七年十一月十九日於龍口戦
陸軍騎兵一等卒 飯尾金彌 明治二十七年十一月十八日於土城子
陸軍騎兵一等卒 芝章 明治二十八年二月二十二日聶家堡子戦死
豫備陸軍騎兵一等卒 加瀬音吉 明治二十七年十二月三十日於蘇家屯病死
陸軍騎兵一等卒 蕪木夘八 明治二十八年一月三十一日朱家旬子戦死
石碑裏面記載事項調査は、神奈川県平塚市の添田吉則氏である。
今年、添田さんご夫妻は、上記の遺族の方々二家族の所在が判明し交際を始めたとの由。
裏面、陸軍騎兵一等卒 添田賢次郎 明治二十八年二月八日於二道河戦死・・の文字のみ見えやすくカットしました。
世田谷区の石碑撮影は、平成18年10月6日、私が撮影。