EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城 登城ロープウエイ暫く運休

2013年01月16日 | 伊予松山歴史散策
昭和41年7月13日開業した伊予松山城登城ロープウエイが老朽化した設備機器等乗客の安全を保つために運休を行う。期間は、1月16日~3月22日までとする。
現在のロープウエイは第4代目のゴンドラが運行しているが、今回の改修後には、ゴンドラが新しくなる。

初代のゴンドラは、可愛い「ひよどり」の愛称で運行開始。2代目は、江戸時代の駕籠をモチーフにしたゴンドラが運行していたが、第5代目のゴンドラはどんな形でご披露されるのか3月23日が楽しみである。
運休期間に、古くなったゴンドラを降ろし、新しいゴンドラに取り替えると共に、滑車や、ロープ等々消耗品全て取り替え、乗客の安全を保つ。

ロープウエイ運休期間は、隣接して運行しているリフトで対応する。晴天時はいいが雨天時は大変、雨合羽を用意し対応との由、リフトが嫌いな人は、徒歩で登城するしかない。歩くと本丸まで21分掛かる。
画像は、1月16日~3月22日まで改修工事の為運休する松山城ロープウエイ


松山城ロープウエイ山頂駅(長者ヶ平・ちょうじゃがなる)に掲示されたお礼とお別れの挨拶板。


ロープウエイ山頂駅に停車中のゴンドラにも「16年間のお礼の言葉が書かれている。」、15日でお別れ。


昨日15日、地元幼稚園児がお見送り。


地元幼稚園児からお別れの挨拶があった。「しらさぎ号さん、16年間ご苦労様でした。そしてありがとう。明日からはゆっくり休んで下さいさようなら。」・・でした。


15日、一日だけの限定「まつかぜ号」のヘッドマークを取り付ける職員。


15日一日だけのヘッドマーク「しらさぎ号」をつけてさようなら運行。


山頂駅、下山するお客さんを待つ最後のゴンドラ「しらさぎ号」。


松山城のマスコット・キャラクター「よしあき君」もお見送り。


真ん中で、一日限定のヘッドマーク「しらさぎ・まつかぜ」を着けてゴンドラが行き交う。
ロープウエイと平行して運行しているリフトがある。1月16日~3月22日までの運休期間は、リフトのみで観光客を運ぶ。雨天は、雨合羽を用意して乗ってもらう。乗車出来るのは小学生以上。乳幼児の観光者は徒歩で登城となる。徒歩21分かかる。


ゴンドラを支えている機器16年間耐えてきた。滑車も大分劣化している様に見える。


ゴンドラのロープを支える固定滑車。


上の太いロープがゴンドラを支え、下の細いロープがゴンドラを引っ張る。


滑車の溝も大分劣化している。これも取替え3月22日から運行再開。


よしあき君も16年間ありごとう・・と最後のゴンドラを見送った。
3月23日には、5代目のゴンドラです。よろしくお願いします。と書かれるのでは??
そして5代目の愛称は、なんと命名されるのでしょうか!!
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伊予松山城 誕生411年記念日

2013年01月15日 | 伊予松山歴史散策
加藤嘉明は、慶長5年(1600)9月関ヶ原の戦いで武勲をあげ、徳川家康から伊豫ノ国20万石を拝領した。松前城が手狭となり、慶長7年(1602)1月15日、勝山に新城の築城に着手してから今年で411年を迎える。
15日本丸で伊予松山城誕生記念日祭が行われた。松山城完成には26年の長きを要したが、加藤嘉明は完成1年前に幕府の命令で会津若松に40万石で転封した。会津若松行きに付いては硬く幕府にお断りをしたが聞き入れてもらわなかった。よって完成した松山城は見る事が出来なかった。

その後、出羽国の、上ノ山城主であった、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が24万石で松山藩主となり、城が完成した。寛永11年(1634)、参勤交代の途上、京都の藩邸で急死した。享年31。死因は不明だが、兄・忠郷と同じく疱瘡が原因とも言われる。嗣子が無かったため、蒲生氏は断絶した。
寛永12年(1635)7月に伊勢ノ国、桑名城主、松平定行が15万石で松山藩主に封ぜられた。この時期に5層の天守を何故か3層の天守に改築した。以後松山藩は親藩となり維新を迎える。(松平定行は、徳川家康の異父同母弟である久松定勝の子供である。よって徳川幕府の信頼を受ける事が厚かった。)

天明4年(1784)、天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失し、現在の天守は、安政元年(1854)第12代松平勝善の時に再建され、現存12天守で一番新しい天守である。
なお、松山という地名は、慶長8年(1603)10月加藤嘉明が松前城から家臣と住民ともども新城下に居を移したとき、「この地を、松山とすると公に称したのが始まりである。」


伊予松山城誕生記念日「松山城のシンボル・よしあき君」、今日は、誕生日のお祝いに来てくれてありがとう。411歳になったよ。


これは、「我輩は猫である」夏目漱石に代わって、我が輩がお祝いに来たぞな。


それでは、お祝いの餅つきをするぞな。甲冑を着た若武者が餅を搗く。
御主、なかなかやるじゃないか。


初代城主、加藤嘉明公にも搗いてもらう。


よし、各々方搗くからよく見ておれよ。


殿が搗いた振る舞い餅を頂く観光者たち。今日は松山城に来てよかった。美味しいお餅が頂けて。


地元の小学生も誕生祝に本丸まで来ました。松山城の誕生のお話を聞いて帰ろうね。


今日は、地元の報道関係者も取材に来ていた。某放送局の取材を受ける市民。


松山城天守で、安政元年に再建された現存12天守の一つ。加藤嘉明が創建した天守は5層の大きな天守だった。


伊予松山城一番の絶景の場所。今日は天候がよく、いい景観であった。


東雲口、ロープウエイ駅舎横にある「加藤嘉明の騎馬像」
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秋山好古生誕154年祭 開催

2013年01月13日 | 伊予松山歴史散策
司馬遼太郎の『坂の上の雲』の登場人物の一人である「秋山好古」の生誕154年祭が本日、平成25年1月13日(成人の日)秋山兄弟生誕地で中村愛媛県知事・野志松山市長のご臨席を賜り厳かに開催された。
この日は、秋山兄弟武道場で、秋山兄弟柔道部・合気道部の稽古始めも行い記念の餅搗きを行った。偶然来館したお客さんに搗きたてのお餅を振舞い美味しく賞味する事が出来いい時に秋山邸に来たものだと喜んでいた。

今日は、連休であり全国の秋山フアンは、好古さんは生誕154年になるのか、生前はご苦労様でしたと、好古騎馬像に対して言葉を掛ける来館者もいた。
好古顕彰活動は、地元松山は元より、千葉県習志野市大久保・新潟県新潟市では「秋山好古と新潟の人びと・著者、神田勝郎氏」「秋山好古と習志野・著者、山岸良二氏」の書籍が刊行され両市では著者が講師になり人間として有意義な人生を送った事に感銘を受け両市で講演活動を展開している。

註1:好古は、安政6年(1859)伊予松山藩徒歩目付けの秋山家3男として、現 秋山兄弟生誕地に誕生した。

福沢諭吉の「学問のすすめ」に共感し青少年の教育推進に教育者を目指し大阪師範学校に学び卒業後、名古屋師範学校付属小学校に赴任したが、郷土の先輩、和久氏と名古屋鎮台山本武官の強い勧めで陸軍士官学校に入学し日本の騎兵隊を創設、日本騎兵の父と言われた。

その後大正12年元帥に推薦されるもこれを辞退、大元帥(大正天皇)は驚いた。未だかって元帥を辞退した者はいなかったからだ。大元帥は元帥を辞退した秋山大将に、特旨として官位従二位を与えた。

好古は、官位従二位を拝命し大正13年郷里の伊予松山から強い要望に答え北豫中学校長として昭和5年3月まで本来の教育者として勤務し同年3月北豫中学校長を辞任、11月4日東京・陸軍軍医学校で永眠(享年72歳)現在東京青山霊園に眠っている。
註2:秋山好古の信条、「明瞭、簡単、質素、倹約、そして人は心穏やかで豊かであり、元気な間は、働くべき、仕事はその気で探せば幾らでもある」
画像は、秋山好古生誕154年祭の様子である。


秋山好古生誕154年祭、カラー肖像画は、千葉県習志野市学園大久保商店街、三橋正文理事長からの寄贈。


秋山好古生誕154年祭開催にあたり挨拶をする、財団法人常盤同郷会、平松昇理事長。(財団法人常盤同郷会は、秋山兄弟生誕地の管理運営母体)


好古生誕154年祭、来賓の挨拶をする中村愛媛県知事、今年も挨拶の内容が素晴らしかった。


好古生誕154年祭、来賓の挨拶をする野志松山市長・・今年も中村知事・野志市長、揃って生誕祭に臨席くださった。


来賓の挨拶を聞く、秋山兄弟柔道部・合気道部関係者。


柔道部、合気道部の稽古始めに先立ち鏡開きを行った。


柔道部、合気道部の稽古始め。


柔道部が中村知事・野志市長との稽古始の記念にと一枚。


続いて、合気道部が中村知事・野志市長との稽古始の記念にと一枚。


生誕祭、式典も無事終了し恒例の餅搗き、先ずは最初に杵を持ち力強く餅を搗く中村時広愛媛県知事。


続いて二番手、野志松山市長が搗いた。


秋山邸の近くにある検番から今年も4名の芸子さんがお祝いに駆けつけた。
好古さん、今年も来てくれて、だんだん。


好古さん生誕154年祭おめでとうございます。男性は、秋山兄弟生誕地宇都宮運営委員長。


芸子さんも記念の杵を持ち一搗・・同僚の芸子さん曰く、もっと力を入れて搗きなさい。
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新伊予松山紀行 松山八社八幡 7番社 還熊八幡神社

2013年01月12日 | 伊予松山歴史散策
還熊八幡神社は、松山八社八幡第7番目の神社で、旧社格は村社である。
祭神は、品田和気命、帯中彦命、息長帯姫命、迦具都知命、である。
社伝によれば、貞観年間(859~877)越智(後の河野)氏によって、石清水八幡を勧請して創建された。

延久5年(1073)国司の源頼義により八社八幡の一つに加えられたという。八幡神は神功皇后の伝説から弓矢の神となり源氏の氏神といわれた。河野氏も源氏と深い関係をもっていたので当社への尊心は厚かった。

延元年間(1336~1339)には後醍醐天皇の皇子懐良親王が武運長久を祈願したと伝えられる。
慶長5年(1600)関ヶ原に出陣した加藤嘉明の留守をねらって河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し、伊予松山藩家老、佃十成と戦ったとき、当神社に立て篭もった河野一族は敗北し、社殿、宝物等すべてが焼失した。

のちに、松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し、八社八幡の一社として崇敬した。「愛媛面影」に「旅行する人此社詣(づ)れば必(ず)恙無くかへり来とて信ずる人多し。還熊と云(ふ)名によるなるべし。」とある。

この付近には多くの寺院があり、加藤嘉明が松山城築城、町割を行った時、瀬戸内海からの敵の防御策として寺を集めたといわれている。


参道鳥居横に鎮座する「還熊八幡神社」の社号碑、裏面に明治42年5月、氏子中と刻印ある。


参道中腹に鳥居がある。見た所新しいのでもしかしたら平成13年3月24日午後3時27分発生した「芸予地震」時に破損し建替えたのか??


注連石を潜り48の石段を上ると拝殿がある。
所在は、松山市山越三丁目3番2号に位置する。


神門は無く、左右の狛犬が迎えてくれる。


拝殿、奥に神殿がある。


拝殿内部で、絵馬が掲示してあり、古札も置かれていた。


拝殿には立派な社号額が掲示してある。


社号額の横に還熊八幡神社の由来の説明板が掲示してある。


拝殿奥にある神殿。


境内に大きな「戦勝記念碑」の石碑が建立してあった。裏面等々を拝察するも建立年月日が無かった。日露戦争の記念碑だろう。


参拝と境内散策も済ませて48段の石段を下り八社八幡最後の神社阿沼美神社に向かった。
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新伊予松山紀行 松山八社八幡 6番社 朝日八幡神社

2013年01月11日 | 伊予松山歴史散策
朝日八幡神社は、松山八社八幡第6番目の神社で、旧社格は郷社である。
祭神は、品陀和気命、帯中津彦命、息長帯比売命、市杵島比売命、多紀理比売命、多岐津比売命である。

社伝によると、持統天皇の代に仲哀天皇神功皇后の行宮後に足頬地主神を祭り、沼戸明神と称えたことに始まるという。のちに山城国山崎八幡神(現離宮八幡宮)を勧請し山城八幡と改称した。

貞和年間(1345~1349)に兵火に会い、延文6年(1361)伊予守護河野通尭の命によって、平範有が今の朝日谷の地に社殿を再築し、さらに応永19年(1412)に河野通成が社殿を増築した。

慶長8年(1603)伊予松山藩初代藩主加藤嘉明が松山城の固めとした近郷の八社八幡の一つとして武運長久の祈願所となる。明治3年(1870)に、朝日八幡神社と改称された。

隣接して大宝寺がある。松山市内に国宝の建造物は3件あり本堂がその一つ、建立は鎌倉前期ごろといわれ愛媛県下では最古の和様建築とされている。
本堂前に、市指定天然記念物「姥(うば)桜(ざくら)」がある。松山地方で二番目に早く開花する。毎年多くの観桜者とカメラマンが来る松山の名所である。


神社の所在は、松山南江戸五丁目12番1号に位置する。
注連石手前に社号碑がある。


注連石は、明治216月吉日と刻印されている。


注連石、鳥居を潜り128の石段を上り社殿参拝する。


石段を上りきると本殿が見えてくる。
巫女さんがいた。正月初祈祷にこられる氏子さんを待っていた。


拝殿内部、正月3日の初詣、家族で参拝に来て初祈祷を受ける準備が整っている。


拝殿と神殿、神社の全景。


朝日八幡神社のお守り、お札。


神社、注連石手前に「国宝大宝寺」の寺号碑があり、左に行くと大宝寺がある。


鎌倉前期創建の国宝大宝寺本堂で愛媛県最古の和様建築とされている。


国宝大宝寺本堂前にある「姥(うば)桜(ざくら)」で開花時期は3月中旬頃、画像は昨年3月29日撮影。根回り2,8m、高さは低いが枝張りよく、その姿態は美しい。
姥桜(うば桜)の由来は、角(すみ)木(き)長者の娘が病に倒れたとき、姥の袖が自分の命と引き替えに娘の命を助けた。娘は全快したが、袖が急病になり「袖は、お嬢様の身代わりを薬師様にお願いしたのだから歎かぬように、ただお嬢様のお礼に寺に桜を植えて欲しい」と遺言して世を去った。それでこの桜を「姥桜」という。品種は、エドヒガン。
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