EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

伊予松山城・本丸の桜

2012年04月10日 | 伊予松山歴史散策
久しぶりに伊予松山城本丸の建造物と桜を撮ってみました。
伊予松山のシンボル「松山城」は慶長7年(1602)徳川家康の許可を受け現在地「勝山」に加藤嘉明が築城開始。翌8年(1603)この城下町を松山と命名した。
明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。

存続を願い伊佐庭如矢は、大蔵卿大隈重信に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申した。
維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿大久保利通は公園化を条件で認め存続を許す事になった。

大正12年7月久松定謨(旧伊予松山藩主久松家の当主「華族(伯爵)」は、政府から松山城の払い下げを受け、維持費の一部にと寄付金を付けて松山市に寄贈した。この時の市長は、正岡子規の叔父で第5代松山市長・加藤恒忠(拓川)で城を大切に保存した。

昭和41年偉大なる松山の先輩達が護ってきた松山城本丸建造物を第18代松山市長・宇都宮孝平氏の英断で、不審火や戦火で焼失した櫓・城門・続き塀等々を99%木造で復元した。1%は、馬具櫓でここは地盤が軟弱な為地中をケーソン工法で地盤を強化し建物は鉄筋コンクリート造りにするよう文化庁からの指示であった。

松山市の観光資源は、第一に松山城、第二に道後温泉でどちらが欠けても半減す
もので、俳句だけでは松山の観光は成り立たない。
松山人は、肝心な功労者の顕彰がなってない。・・と私は痛感する、特に伊佐庭如矢氏の功績は多大である。

松山城登城口に存続の経緯たる説明板を設置すべきである。
信州松本城、姫路城には天守存続経緯の説明板が設置してある。

参考:伊佐庭如矢
文政11年(1828)年9月12日に伊予国に生まれる。
明治維新後、愛媛県吏員、高松中学(現香川県立高松高等学校)校長、金刀比羅宮(ことひらぐう)禰宜(ねぎ=神社で、宮司《ぐうじ》・権《ごん》宮司を補佐する職。また、一般に神職の総称)などを歴任した後、明治23年(1890)に初代道後湯之町町長となり、温泉の町営及び三層楼本館(道後温泉本館)の改築、日本唯一の皇室専用の浴室である又新殿(ゆうしんでん)増築や道後鉄道設立などに尽力した。明治40年(1907)年9月4日死去。享年80歳。
※ 愛媛県吏員の時に愛媛県参事名で伊予松山城存続の上申書を提出した。


4月6日に撮った・・太鼓門西塀内側から・・ここが一番の撮影場所


南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・合横矢の石垣下から


松山城本丸裏鬼門に当る乾門からの画像、屏風折の石垣とその上に乾門続櫓・続塀・奥に南隅櫓と小天守ここも絶好の撮影場所・・地元の人も知らない


戸無門を潜り本丸一番の大きな門「筒井門」、枡形に素晴らしい桜が皆さんをお出迎いする


上記画像と同じ場所、奥の石垣その奥に隠門があり外国人もこの光景がお気に入り


伊予松山城本丸一の隘路


巽櫓をバックに満開の桜


松山お城祭り開催中で、太鼓櫓前でお茶会が開催されていた・・花見で一服


本丸本壇の二ノ門東塀の石垣と桜・・奥に久松定謨(旧伊予松山藩主久松家の当主「華族(伯爵)」の石碑がある


伊予松山城本丸一の隘路、奥に天守を望むことが出来る


本丸本壇、仕切門内塀の下から桜と天守


現存12天守の一つ伊予松山城最上階から(標高約160m)本丸と15万石の城下町


城山中腹に建つTV塔・・建設には文化庁から許可を得るのに困難を要した・鉄塔の色は出来るだけ目立たないようにと緑色にした・・現在塔から出ている電波はNHKFM放送のみ・・その内文化庁から撤去の指示が出るのでは??



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伊予松山お城祭り・大名行列

2012年04月09日 | 伊予松山歴史散策
伊予松山お城祭り

昨年は、3,11大震災で伊予松山お城祭りは中止したが、今年例年の通り松山春まつり「お城まつり実行委員会」主催で開催された。

4月6日から4月8日の三日間、松山城ロープウェイの運行を午後9時まで延長するなど行事は、多彩に実施された。
6日(金):第22回歌謡チャンピオン・松山市民会館大ホール
7日(土):第42回野球拳全国大会・松山城本丸山頂広場(特設舞台)
      第9回伊予節全国大会・松山市民会館中ホール
8日(日):大名武者行列・ロープウェー街、大街道、千舟町通り
      春まつりIN堀之内・城山公園・愛媛県内のご当地グルメ出店、ダンスコンテスト、ジャズコンサートなど、      少年剣道大会・松山城天守東側広場
その他行事:松山春まつり撮影会・松山城茶会・いけばな展・東雲能・春のよそおい展・等々多彩な行事が行われた。

昨日(8日・日曜日)お城祭りの最大の行事」「大名武者行列」が行われ、今年は200人が参列、お姫様役は「アッキーナこと南明奈さん」が務めた。
快晴の下、松山城ロープウエイ山麓駅舎前から出発、大街道、千舟町を、松山城歴代藩主第3代「松平定行」・第2代「蒲生忠知」・初代「加藤嘉明」の順番で行列は大勢の観光者の見守る中、艶やかな時代絵巻を披露した。
千舟町の大通りでは、大名行列に立ち向かう敵の侍を警護する武士の立ち振る舞い「演武」が行われ観衆から喝采の拍手を得ていた。

伊予松山20万石初代藩主「加藤嘉明」の行列

伊予松山20万石初代藩主:加藤嘉明・・慶長4年(1602)から26年の歳月を掛けて伊予松山城を築城するが完成前に、寛永5年(1628)40万石で会津藩主として転封する

伊予松山初代藩主、お姫様役の「南明奈さん」・・観衆から綺麗、可愛い、顔が小さく美人と多くの声援があった。・・アッキーナ・・の連呼





美人の腰元も、徒歩目付けに付き添われて行列に参加


千舟町に出ると、行列を襲う敵の武士を遣っ付ける藩主・加藤嘉明を警護する武士との戦いが演じられた。


迫力の演武に見学者から大きな拍手が送られた・・後方は、加藤嘉明とお姫様役の「南明奈さん」

熱の入った演武ご苦労様
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秋山邸の桜に悪戯をする雀達

2012年04月08日 | 伊予松山歴史散策
秋山邸の桜に悪さをする雀達。
松山の桜は満開になりました・・一昨日から松山城お城祭りです。
今日は秋山兄弟生誕地の桜に雀がやって来て悪戯をしております様を画像で捕らえてみました。


秋山邸の桜も満開です・・市街地にこんなに大きな桜はなく、カメラ持参で画像を撮って帰る皆さん多いです


雀がやって来ました・・た今まさに嘴で切り落とし直前


花と花の間に悪戯雀が飛来






盛んに切り落としております


どれを切って蜜を吸い取ろうか品定め


花の下側を嘴で切り落とし、蜜を吸い取るので樹の下は下記の画像の花が沢山落ちてます


悪戯雀が切り落とした花達
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田貫湖畔からの富士山

2012年04月07日 | 伊予松山歴史散策
山中城から見た富士山が素晴らしかったので、もう一つ私が感動した富士山を撮ってますので見て下さい。
平成19年5月16日静岡市葵区羽鳥の洞慶院境内にある「秋山好古揮毫の:忠魂・愛馬追悼碑」の写真取材に行ったとき富士山一周をした。その画像である。
松山市から車で行きましたが静岡県に入ってから幾ら走行しても静岡県、長かった。

以前から一度は富士山一周を車で回ったみたい願望がありいい機会が出来たので石碑の写真を撮り終わり、御殿場から左回りで走行した。16日夕方から天候は悪くなり、翌17日は早朝から雨天、朝霧高原で雨は止んだが以前富士山は雲の中、翌18日虫の知らせか早朝4時に目が覚めた。カーテンを開けてびっくり今回富士山を見ることが出来ずあきらめていたが夜明けの富士山が出迎えてくれた。

早速カメラを取り出し撮った。刻一刻と表情が変わる富士、ちょっと古い画像ですが見て下さい。
撮影場所は:静岡県富士宮市佐折。4月20日頃と、8月20日頃に、田貫湖では、山頂から日が昇りダイヤモンド富士になるそうです。

午前4時37分撮影の富士、ここ田貫湖畔は絶景の富士山撮影場所で多くのカメラマンが撮影に訪れるそうです


午前4時39分撮影


午前5時02分撮影一羽の鳥が飛んで来て湖面を気持ちよく泳いでいた




午前5時16分、少し東の空が明るんで来た


午前5時20分中腹に太陽が出た・・時期が4月20頃であれば山頂に太陽が出てダイヤモンド富士になるそうだ・・今回は5月18日変形のダイヤモンド富士・・それでも見えないよりはいい・・湖面も風が無く穏やかでダブル富士が撮れた・・ラッキー


午前5時21分、湖面に弱風が吹き富士が揺らいだ


午前5時23分変形ダイヤモンド富士確認・・日差しが強くなりレンズにこんな模様がでた


午前5時25分少し露出を絞り撮ってみた・・山中城から見た富士と違った富士でした


午前8時30分小鳥が飛来してきて、よかったねいい富士山が撮れた様子で・・ご苦労さん言ってくれた感じ


午前9時24分、スッカリあたりは明るくなり富士山は霞んでいた・・手前はの建造物は富士山観賞と撮影者の為に作った見学施設


静岡市葵区羽鳥・洞慶院にある秋山好古揮毫の石碑「愛馬追悼碑」で建立者は、好古の部下であった、陸軍騎兵大尉従六位勲五等功五級・三浦金蔵氏。旧陸軍には、歩兵・騎兵・工兵・砲兵の四科あった。騎兵隊は馬の管理が大変であった。日露戦線終了後日本内地に引き上げる時将校達の軍馬は連れて帰ったが、多くの軍馬は祖国の土を踏む事が出来なかった。戦闘中亡くなった軍馬、一部の軍馬は、支援を得た馬賊に御礼として差し上げたとか??だから騎兵隊の皆さんは自宅で馬を飼い家族同様に可愛がったそうです。三浦金蔵さんもそのお一人、秋山好古も大正13年故郷の松山「北豫中学校校長」に帰るまで東京の自宅で馬を飼っていた。
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日本100名城 山中城からの富士山

2012年04月06日 | 伊予松山歴史散策
東京駅発「こだま・635」午前7時26分発に乗りJR三島駅に午前8時25分に着いた。
バスは1時間に一便しかないのでタクシーで山中城登城口まで30分掛かった。
山中城は箱根の方角で少し走ると山間に入りすると綺麗な富士山が所々に見えてくる。

タクシーの運転手さん曰く今日の富士山は最高によく見えますよ・・そして一言付け加えた・・三島から見る富士が一番かっこよく形の綺麗な富士を見ることが出来ますよ・・お客さんどちらから来られましたか??と・・四国愛媛県松山市からですと・・遠路ご苦労様です・・お帰りはもしタクシー利用でしたら山中城には待機するタクシーは居りませんのでよければTELして下さいと名刺を頂いた。

さあいざ登城西の丸に出ると、なんと眼前に富士山が見えた。雲ひとつ無い日本一の名峰富士山がクッキリと暫く立ち止まりカメラのシャッターを押すのも忘れ見居ていた。それから思い出したようにシャッターを押しカメラに収めた。
何も言葉は要らない・・富士山を見て下さい。







画像左に青く見えるのが駿河湾・正面の山が愛鷹山(1187m)・・そして富士山(剣ヶ峯・3776m)




暫くすると黒い煙のようなものが三島市街地方向から流れてきた





持参したレンズはズームで320mm相当で撮影・・この時黒い煙みたいなものが流れて来た。

山中城の植木画像のように綺麗に刈り込みしてあった。


宝永大噴火(ほうえいだいふんか)跡も良く見える。
宝永大噴火とは、江戸時代中期の宝永4年(1707)に起きた富士山の噴火である。現在までにおける歴史上最後の富士山の噴火となっている。
コメント (2)
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