久しぶりに伊予松山城本丸の建造物と桜を撮ってみました。
伊予松山のシンボル「松山城」は慶長7年(1602)徳川家康の許可を受け現在地「勝山」に加藤嘉明が築城開始。翌8年(1603)この城下町を松山と命名した。
明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
存続を願い伊佐庭如矢は、大蔵卿大隈重信に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申した。
維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿大久保利通は公園化を条件で認め存続を許す事になった。
大正12年7月久松定謨(旧伊予松山藩主久松家の当主「華族(伯爵)」は、政府から松山城の払い下げを受け、維持費の一部にと寄付金を付けて松山市に寄贈した。この時の市長は、正岡子規の叔父で第5代松山市長・加藤恒忠(拓川)で城を大切に保存した。
昭和41年偉大なる松山の先輩達が護ってきた松山城本丸建造物を第18代松山市長・宇都宮孝平氏の英断で、不審火や戦火で焼失した櫓・城門・続き塀等々を99%木造で復元した。1%は、馬具櫓でここは地盤が軟弱な為地中をケーソン工法で地盤を強化し建物は鉄筋コンクリート造りにするよう文化庁からの指示であった。
松山市の観光資源は、第一に松山城、第二に道後温泉でどちらが欠けても半減す
もので、俳句だけでは松山の観光は成り立たない。
松山人は、肝心な功労者の顕彰がなってない。・・と私は痛感する、特に伊佐庭如矢氏の功績は多大である。
松山城登城口に存続の経緯たる説明板を設置すべきである。
信州松本城、姫路城には天守存続経緯の説明板が設置してある。
参考:伊佐庭如矢
文政11年(1828)年9月12日に伊予国に生まれる。
明治維新後、愛媛県吏員、高松中学(現香川県立高松高等学校)校長、金刀比羅宮(ことひらぐう)禰宜(ねぎ=神社で、宮司《ぐうじ》・権《ごん》宮司を補佐する職。また、一般に神職の総称)などを歴任した後、明治23年(1890)に初代道後湯之町町長となり、温泉の町営及び三層楼本館(道後温泉本館)の改築、日本唯一の皇室専用の浴室である又新殿(ゆうしんでん)増築や道後鉄道設立などに尽力した。明治40年(1907)年9月4日死去。享年80歳。
※ 愛媛県吏員の時に愛媛県参事名で伊予松山城存続の上申書を提出した。
4月6日に撮った・・太鼓門西塀内側から・・ここが一番の撮影場所
南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・合横矢の石垣下から
松山城本丸裏鬼門に当る乾門からの画像、屏風折の石垣とその上に乾門続櫓・続塀・奥に南隅櫓と小天守ここも絶好の撮影場所・・地元の人も知らない
戸無門を潜り本丸一番の大きな門「筒井門」、枡形に素晴らしい桜が皆さんをお出迎いする
上記画像と同じ場所、奥の石垣その奥に隠門があり外国人もこの光景がお気に入り
伊予松山城本丸一の隘路
巽櫓をバックに満開の桜
松山お城祭り開催中で、太鼓櫓前でお茶会が開催されていた・・花見で一服
本丸本壇の二ノ門東塀の石垣と桜・・奥に久松定謨(旧伊予松山藩主久松家の当主「華族(伯爵)」の石碑がある
伊予松山城本丸一の隘路、奥に天守を望むことが出来る
本丸本壇、仕切門内塀の下から桜と天守
現存12天守の一つ伊予松山城最上階から(標高約160m)本丸と15万石の城下町
城山中腹に建つTV塔・・建設には文化庁から許可を得るのに困難を要した・鉄塔の色は出来るだけ目立たないようにと緑色にした・・現在塔から出ている電波はNHKFM放送のみ・・その内文化庁から撤去の指示が出るのでは??
伊予松山のシンボル「松山城」は慶長7年(1602)徳川家康の許可を受け現在地「勝山」に加藤嘉明が築城開始。翌8年(1603)この城下町を松山と命名した。
明治6年2月政府は、廃城令を出して旧権力の象徴である城郭を取り壊すと共に、売却による維持経費の削減を図ろうとした。
存続を願い伊佐庭如矢は、大蔵卿大隈重信に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申した。
維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿大久保利通は公園化を条件で認め存続を許す事になった。
大正12年7月久松定謨(旧伊予松山藩主久松家の当主「華族(伯爵)」は、政府から松山城の払い下げを受け、維持費の一部にと寄付金を付けて松山市に寄贈した。この時の市長は、正岡子規の叔父で第5代松山市長・加藤恒忠(拓川)で城を大切に保存した。
昭和41年偉大なる松山の先輩達が護ってきた松山城本丸建造物を第18代松山市長・宇都宮孝平氏の英断で、不審火や戦火で焼失した櫓・城門・続き塀等々を99%木造で復元した。1%は、馬具櫓でここは地盤が軟弱な為地中をケーソン工法で地盤を強化し建物は鉄筋コンクリート造りにするよう文化庁からの指示であった。
松山市の観光資源は、第一に松山城、第二に道後温泉でどちらが欠けても半減す
もので、俳句だけでは松山の観光は成り立たない。
松山人は、肝心な功労者の顕彰がなってない。・・と私は痛感する、特に伊佐庭如矢氏の功績は多大である。
松山城登城口に存続の経緯たる説明板を設置すべきである。
信州松本城、姫路城には天守存続経緯の説明板が設置してある。
参考:伊佐庭如矢
文政11年(1828)年9月12日に伊予国に生まれる。
明治維新後、愛媛県吏員、高松中学(現香川県立高松高等学校)校長、金刀比羅宮(ことひらぐう)禰宜(ねぎ=神社で、宮司《ぐうじ》・権《ごん》宮司を補佐する職。また、一般に神職の総称)などを歴任した後、明治23年(1890)に初代道後湯之町町長となり、温泉の町営及び三層楼本館(道後温泉本館)の改築、日本唯一の皇室専用の浴室である又新殿(ゆうしんでん)増築や道後鉄道設立などに尽力した。明治40年(1907)年9月4日死去。享年80歳。
※ 愛媛県吏員の時に愛媛県参事名で伊予松山城存続の上申書を提出した。
4月6日に撮った・・太鼓門西塀内側から・・ここが一番の撮影場所
南隅櫓・十間廊下・北隅櫓・合横矢の石垣下から
松山城本丸裏鬼門に当る乾門からの画像、屏風折の石垣とその上に乾門続櫓・続塀・奥に南隅櫓と小天守ここも絶好の撮影場所・・地元の人も知らない
戸無門を潜り本丸一番の大きな門「筒井門」、枡形に素晴らしい桜が皆さんをお出迎いする
上記画像と同じ場所、奥の石垣その奥に隠門があり外国人もこの光景がお気に入り
伊予松山城本丸一の隘路
巽櫓をバックに満開の桜
松山お城祭り開催中で、太鼓櫓前でお茶会が開催されていた・・花見で一服
本丸本壇の二ノ門東塀の石垣と桜・・奥に久松定謨(旧伊予松山藩主久松家の当主「華族(伯爵)」の石碑がある
伊予松山城本丸一の隘路、奥に天守を望むことが出来る
本丸本壇、仕切門内塀の下から桜と天守
現存12天守の一つ伊予松山城最上階から(標高約160m)本丸と15万石の城下町
城山中腹に建つTV塔・・建設には文化庁から許可を得るのに困難を要した・鉄塔の色は出来るだけ目立たないようにと緑色にした・・現在塔から出ている電波はNHKFM放送のみ・・その内文化庁から撤去の指示が出るのでは??