EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本100名城紀行 山中城 紀行

2012年04月05日 | 伊予松山歴史散策
平成24年3月27日松山市に帰る途中静岡県三島市にある山中城に行った。
山中城は、日本100名城第40番目の指定で、私は77番目の紀行である。

資料によると
山中城は、北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつで、三島市によって当時を反映した整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被履の上芝を張って保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるように整備されており北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡となっている。
また、北条氏滅亡と共に廃城となったため、北条氏独特の城郭の構造を多く残していることが注目される。永禄年間(1558年 ~ 1570年)に北条氏康により築城される。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。

北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。天正18年(1590)、小田原の役で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将である北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら4千は奮戦し、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出すものの、猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。戦後、城は廃止された。

昭和5年(1930)に国の史跡に指定され、昭和48年(1973)から三島市が公園として整備をはじめ、合わせて学術的な調査もなされ現在に至っている。
私が訪れた3月27日は早朝冷え込み散策路は凍りつき、霜柱が出来ていた。天候は最高によく東京から新幹線「こだま」で移動、横浜市手前から富士山が良く見え、JR三島駅からはタクシーで城に行き西の丸に登城するとなんと眼前に富士山が見える、雲ひとつ無い日本一の名峰富士山が暫し東屋で富士山を眺めカメラに収めた。・・

富士山の画像は明日のブログに富士山特集で掲載します。

山中城跡バス停も直ぐ傍にある表示板・・国道1号線沿い


日本100名城スタンプは、バス停前にある売店の外に何時でも押せるよう置いてある。
スタンプは薄い、この売店は山中城跡の観光案内所も併設してあるが売店が営業開始は10時過ぎで、肝心な城の資料がもらえない、スタンプは24時間外に置いてあるのだから、資料も一緒においてもらうと観光者は助かる。
 画像は頂いた資料である。案内図の通り城は国道1号線を挟んで両側にある。タクシーの運転手さんの案内では、1時間もあれば充分見れますとの事でしたが、1時間では全容を散策する事は出来ない・・私は2時間以上掛かった。・・願わくばもう少し詳しい見学順路案内板を設置してほしい。


山中城は国道1号線を挟んで両側が城跡で、城跡の中を国道1号線が建設されたのでは??


この空堀は国道1号線の北側にある。・・本丸も・・木陰に白く見えるのは霜柱


西の丸南側にある「畝堀」・・このあたりは霜柱が出来ていた。・・寒かったので


西の丸下にある「障子堀」草一つ無く綺麗に整備管理されていった。こんな形状の堀ははじめて見た・・用水池も兼ねた造りだそうです。


西の丸入り口冠木門を潜り


畝堀越しに世界に誇りうる名峰富士山が見えた。


西の丸から見た富士山・・素晴らしいく綺麗に見えました。この日は気温が低く城址各所に霜柱が出来ていた。帰りに売店が営業開始していたので話を聞くと・・今朝は氷が出来てました・・気温が低く大気の水蒸気も少なく綺麗な富士山が見えたのだ・・これからは霞が出てきて今日のようなくっきりとした富士山は見えませんよ・・と言われた・・いい気象条件の時に来たものだ。
コメント
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