EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

石鎚山・融雪

2012年04月17日 | 伊予松山歴史散策
西日本最高峰「日本七霊山の一つ、霊峰・石鎚山」の雪が解けた。
昨年初冠雪から、175日間積雪状態でしたが、四国の山地にも春が来た。
これから四国山地も木々の若葉で淡緑の山姿に変化する。
正に、「目に青葉 山時鳥 初鰹」・・山口素堂・・である。

所在地は、愛媛県西条市と久万高原町の境界に位置し我が家の玄関から正面に見ることが出来、山の形は松山市から見る姿が一番綺麗である。

石鎚山は、最高峰にあるのが「天狗岳:1982m」石鎚山頂社の場所が「弥山:1974m」北西端の「北岳:1921m」の総称である。
また昭和18年軍事上の必要から航空気象観測網の充実から山頂に測候所があったがGHQにより禁止され昭和22年4月廃止された。

画像は、初冠雪から昨日まで(175日間)の石鎚山の変化である。

昨年11月23日:初冠雪の石鎚山・・我が家から


12月10日:我が家から・・この時期としては積雪が平年と比べると少ない


12月18日:国道33号線1級河川「重信川」に架かる森松橋から


12月26日:我が家から


12月27日:伊予松山城天守を入れて・松山市衣山町から


2月3日:松山地方平野で4cmの積雪、25年振りの事であった


2月11日:3日松山地方平野で4cmの積雪があったが、石鎚山には思ったよりも積雪は少なかったのか??松山城本丸から撮影


2月12日:伊予松山城天守を入れて・松山市衣山町から、この時期が一番多い積雪だが今年は少なかった・・いやこれから少ないのか??地球温暖化の影響で??


2月28日:我が家から、だいぶん融雪が始まった


3月13日:先日から寒波襲来少し積雪があった


4月16日:一部谷あいに残雪を残し融雪した・・この時期になると春霞でくっきりとした姿は見えなくなる
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西法寺の鐘馗さん

2012年04月16日 | 伊予松山歴史散策
松山市で鐘馗さん発見、松山で三体目である。
所在地は、松山市下伊台町969番地・西法寺でこの寺は松山市指定の天然記念物「薄墨桜(学名・イヨウスズミ)」で有名である。

境内には、薄墨桜を筆頭に、西法寺桜、新西法寺桜、大島桜、染井吉野桜と時期をずらしていろんな桜を鑑賞する事が出来る。
昨日鐘馗さんを撮り行って来たが、薄墨桜今が満開で日曜日と好天に恵まれ大勢の観賞者で賑わっていた。

毎年、薄墨桜の写真を撮りに行っているが、鐘馗さんは全然気が付かなかった。
住職の奥さんに鐘馗さんのことをお聞きしたが、西法寺が揚げたのではなく続塀を建築した際に塀の角々に七福神を設置した。その時施行業者の方が置いたようです。・・と言われた。

寺院に鐘馗さんが居られるのは初めて発見した。
松山市には鐘馗寺があるが、この寺は鐘馗がご本尊で、日本でも珍しい寺である。

では、西法寺の鐘馗さんです。見て下さい。


境内には、画像のような桜があります
市指定:薄墨桜は三代目
西法寺桜:薄墨桜と染井吉野桜の自然交配で出来た
新西法寺桜:薄墨桜と大島桜の自然交配で出来た
西法寺桜は、愛媛大学教授によってこの西法寺桜が学会で発表され新品種として登録された。また東京の国立遺伝学研究をされている先生も西法寺へ来られ研究調査され、そして浦和市の桜の研究の先生も続いておとずれ、全国に一本しかない貴重な西法寺桜を研究されているとの由


西法寺の鐘馗さん昨日まで気づかなかった・・鐘馗さんの後ろの桜が「西法寺桜」・・鐘馗さんは続塀の一番端本堂側に鎮座してそして鐘馗さんの直ぐ前に「薄墨桜」がある。
現在の桜は三代目で、二代目は平成6年7月松山市の大渇水の断水(11月25日まで続いた)この大渇水の時枯れた。
三代目が元気で現存できるようにと見守っているようです








この鐘馗さん左手に三重の塔のようなものを持っている・・沢山の鐘馗さん見て来たが初めてである


それから今までの鐘馗さんは全面の姿しか見ることが出来なかったが、西法寺の鐘馗さん後ろ姿も見ることが出来る


続塀には七福神が置かれている・・その一つ布袋さん


薄墨桜を鑑賞する皆さん・・薄墨桜は花崗岩で四角の囲いが設けられているが囲いの中で「西法寺桜」が誕生したそうです


西法寺に新たに誕生した「新西法寺桜」・・未だ幼木
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松山地方気象台管内で今季最後の花見

2012年04月15日 | 伊予松山歴史散策
平成24年松山地方気象台管内で観賞出来る桜も終わりを告げようとしている。
この時期は一年で一番いい季節、人生にとっても節目の時期、卒園、卒業、退職、そして新たな幼稚園、から大学入学、社会人に旅立つ季節、その時に桜の花が咲き、旅立ちを見守り確認し散って行く。
清く・正しく・美しく・・何処かで聞いた文言である。

昨日(14日)今日(15日)松山市唯一の花見の名所、松山城本丸と湯築城跡(中世の城・道後公園)で今年最後となるだろう花見を楽しむ光景を撮ってみた。


昨日の松山城本丸で何処かの大学生達が楽しそうに花びらが散る中、各自一言コメントを述べ自分訴えていた
桜の下は、花びらが散り落ちて桜のじゅうたん


小天守から少人数で散る行く桜を惜しんでいるかの見えたので思わずシャッターを押した


湯築城跡(道後公園)で家族、友人、会社の関係者か?楽しんでいた


このグループは、野球拳(じゃんけん)で勝ち負けを争い、負けるたびに両足を広げて行く遊びをしていた


秋山兄弟生誕地の桜も散りました・・11日撮影・・この日は雨でした


秋山兄弟生誕地の続塀に落ちた花びら・・こちらも桜のじゅうたん
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伊予松山城・三ノ丸の桜

2012年04月13日 | 伊予松山歴史散策
伊予松山城三ノ丸は、通称「堀之内」と呼ばれ二ノ丸に続いた西方の平地に構築された地域である。
寛永12年に第3代藩主松平定行になってから、松平2代藩主定頼、3代定長に至るまでは二ノ丸邸に居住するが4代藩主定直から三ノ丸に邸を新しく造営、そして13代藩主勝成は三ノ丸の続きに西ノ丸を新しく造営し居を西ノ丸に移した。

そして維新を迎え明治4年8月堀之内全域は兵部省の管轄となり明治17年軍備拡張に伴い松山に歩兵第22連隊の編成が開始され堀之内は兵営敷地にあたられた。
戦後GHQに接収され、昭和26年9月8日サンフランシスコ講和条約調印、GHQの占領が終翌27年4月28日日本の主権が回復、これが日本の独立。
松山の三ノ丸もGHQから開放され、文化・スポーツ施設が建設され現在に至っている。(スポーツ関連施設は移転)

参考に、松平が藩主になってからの松平氏の系譜を書いてみた。
初代藩主定行・ 徳川家康の甥。伊勢国桑名藩から転封、15万石となる。
2代藩主定頼・ 定行の嫡男であるが治世わずか5年で、寛文2年1月に江戸の中屋敷で落馬して急逝した。 

3代藩主定長・ 2代藩主定頼の次男。
4代藩主定直・ 今治藩第2代藩主松平定時の長男。
5代藩主定英・ 定直の3男、石手川の大改修をした。
6代藩主定喬・ 第5代藩主定英の長男で、「久万山騒動が勃発」
7代藩主定功・ 第5代藩主定英の次男である。
8代藩主定静・ 第4代藩主定直の5男の長男。
9代藩主定国・ 第8代将軍徳川吉宗の次男徳川御3卿の一つ田安家の党主・田安宗武の2男である。
          伊予松山藩は徳川親藩の色が濃いくなった時代である。・落雷で天守焼失
10代藩主定則・定国の子達は、早くして世を去り6男が継承。
11代藩主定通・兄定則が逝去したので、年僅か6歳で第11代藩主となる。
12代藩主定穀・薩摩藩主第9代島津斉宣(なりのぶ)の11男を養子とした(松平定穀・勝善)・・
          島津斉宣は、篤姫の祖父である。・・現天守再建完成(安政元年)
13代藩主勝成・定穀(勝善)にも子宝に恵まれず、讃岐国高松藩主第9代松平頼恕(よりひろ)の6男を養子
          とした。松平定成・勝成(以下勝成と呼ぶ)勝成は、第15代将軍、徳川慶喜の
          従兄にあたる。
14代藩主定昭・第13代藩主勝成も子宝に恵まれず、伊勢国津藩主第11代藤堂高猷の4男を養子として、
          松平定昭が継承する。藤堂高猷の祖先は、今治藩初代藩主の藤堂高虎で、
          伊予松山初代藩主加藤嘉明とは豊臣秀吉時代共に活躍した武将である。
15代藩主は、第13代藩主を務めた勝成が再び藩主となる。
16代藩主定謨・定昭も子宝に恵まれず、久松松平家系の旗本松平松実の3男を養子として迎え、
          久松松平家第16代当主になる。(16代から久松姓に帰る)
17代久松家当主・定武・妻の貞子は島津忠義公爵の娘。次男の定武は貴族院議員・参議院議員を経て
          愛媛県知事を5期務める。定武の長男定成(第18代)は元愛媛大学農学部教授で靖国神社
          崇敬奉賛会会長であったが平成20年10月4日逝去、82歳。香淳皇后(今上天皇の母)
          の従甥にあたる。
18代久松家当主・定成・元愛媛大学農学部教授で靖国神社崇敬奉賛会会長であったが
         平成20年10月4日逝去、82歳。香淳皇后(今上天皇の母)の従甥にあたる。
現久松家当主は第19代である。


本丸小天守から見た二ノ丸御殿跡と三之丸で二ノ丸御殿は海抜39mの山麓にあるが、三ノ丸は平地にある・・明治6年存続を願い伊佐庭如矢は、大蔵卿大隈重信に城郭を公園化する事で、庶民の観覧のためにと上申した。
維持費は地元で負担する事を条件で、内務卿大久保利通は公園化を条件で認め存続を許す事になった。・・平成のいま伊佐庭如矢が描いた通り本当の市民の憩いの公園として大きな花を開く事が出来た。・・現松山市民は意義ある歴史が秘められた三ノ丸を有意義に使って生きたい。心ない人はペットを連れ込み芝生に平気でオシッコをさせている。ペットの連れ込みは禁止にすべきである。


二ノ丸御殿跡、海抜39mから見た三ノ丸東側部分で埋蔵文化財発掘調査後公園として整備され植栽された桜等々の木々は未だ幼木で何十年後には桜の名所になるだろう


二ノ丸御殿跡、海抜39mから見た三ノ丸西側部分で埋蔵文化財発掘調査後公園として整備され市民の憩いの公園として利用されている


三ノ丸公園桜は幼木であるが、松山市民花見を楽しんでいた


この桜は戦後植栽された木で三ノ丸では古い染井吉野桜である


三ノ丸の外側、東堀端で奥に天守を見ることが出来るいい撮影場所である  


三ノ丸南堀端から本丸の太鼓櫓と筒井門を望む


三ノ丸の外堀は、水量が少なく水を浄化して利用していて、浄化された水を噴水状態にして堀に変化を与え楽しんでもらえるよう工夫をしている


三ノ丸東堀端の浄化装置と白鳥、奥のビルは愛媛県警本部


この日は松山お城祭りで、今治市から「バリーちゃん」が駆けつけてくれました
今ユルキャラの人気投票で全国2位だそうですよ


今治城「バリーちゃん」の生みの親・・若く中々の美人です・・伊予松山藩第3代藩主松平定行の弟が今治藩主松平定房なので、兄の地松山に応援に来てくれました


外堀、南堀端の夜景

三ノ丸から二ノ丸そして本丸天守を望む・・何時もはライトアップされてない、特別な行事に行う
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伊予松山城・二ノ丸の桜

2012年04月11日 | 伊予松山歴史散策
加藤嘉明は、慶長5年(1600)9月15日関ヶ原の戦いで東軍として3000人の兵を連れて伊予から参戦し武勲を挙げ徳川家康から伊予国20万石を拝領した。
松前城が手狭となり慶長7年(1602)徳川家康の許可を受け現在地「勝山」に加藤嘉明が新たな城を築城開始。翌8年(1603)新しい城下に家臣と松前の住人達と共に居を移した。町を松山と命名した。

築城に要した年月は実に26年を費やした。この間松山の住人特に農民年貢の取立ては厳しく生活に苦労した。
完成は、寛永4年(1627)2月幕府から40万石で会津に転封を命ぜられた。松山城完成1年前の出来事であった。・・嘉明は会津城転封を断ったが聞き入れられなかった。

嘉明が会津に転封後出羽国の上ノ山城主であった蒲生忠知が伊予松山藩主に任ぜられた。忠知は有名な蒲生氏郷の孫である。忠知は近江国日野の地を併せて24万石を領有した。未完であった二ノ丸を忠知が手掛けて松山城は完成した。当時二ノ丸に城主の居住である御殿があった。・・大奥と表があった。現在は御殿の復元はされてなく基礎のみが復元されていてこれを「平面復元」と呼んでいる。

画像は、二ノ丸で桜が少ない。


多聞櫓門、二ノ丸御殿入口


画像は二ノ丸御殿跡で、本丸南西の山裾を海抜39mの高さに造成され、松山城最後の築城工事を蒲生忠知によって完成された。二ノ丸御殿は(藩邸)平成元年から整備が行われ多聞櫓・四足門・渡塀等々一部が復元されたが、御殿そのものは復元されず礎石のみの復元となっている。(平面復元)・・画像右側が表御殿で、左側が奥御殿跡である。


多聞櫓と南続塀


多聞櫓の内部は現在、管理事務所と展示室・休憩所として利用している


二ノ丸にある数少ない桜で未だ幼木である・・奥の門は藩政時代には無かった門で二ノ丸通用門戸して(展示物等々汎用の為に造られた)


二ノ丸跡には、城東中学校があった。昭和二十五年から三十三年間にわたって、松山中心部の子供たちのほとんどが通った学び舎であった。 桜横にある石碑は学校の沿革が刻まれている。   


三ノ丸と二ノ丸を区切る石垣でその上下に桜が植栽されている


画像は登り石垣(日本城郭最大)
二ノ丸は、御殿をはじめ面積が広く二ノ丸を防御する為に高さ5m長さ233mの日本城郭最大の登り石垣を南北に構築しその上に続塀と要所要所に櫓を造り防御した。北面の登り石垣の石は取壊されたが、南面の登り石垣は現存している。


二ノ丸石垣の下にある桜


二ノに丸から本丸に登城する路で奥に見える石垣は松山城で最も高い石垣がある


二ノ丸下から本丸天守を望む・・この桜の下でよく花見をするが、この日は何故か花見客はいなかった。
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