EEKの紀行 春夏秋冬

紀行&散策を画像を交えた紹介です

日本100名城紀行 甲府城

2012年04月01日 | 伊予松山歴史散策
習志野市で講演が終り3月26日甲府城に行った。
この日は寒く甲府市内は小雪が降り風が強かった。
東京駅から中央快速で新宿駅に出て特急スパーあずさ11号に乗り換えて1時間28分の列車の旅でした。
甲府城は、日本100名城第25番目の指定で、私は75番目の紀行である。

甲府城(別名:舞鶴城)
 築城年 天正11年(1583年)

古くは甲斐府中城、一条小山、赤甲城などとも呼ばれていた。
天正10年(1582)甲斐国は戦国大名武田氏の滅亡後、まず織田信長の領地となり、本能寺の変後は徳川家康の支配するところとなる。しかし豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令で甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長親子によって完成をみる。

また慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり幕末まで存続した。
舞鶴城は江戸時代の初めは、徳川直系が城主となる特別な城だったが、宝永元年(1704)に徳川綱豊が第5代将軍徳川綱吉の養子となり江戸城西ノ丸へ移るとこの後に柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され城下町とともに大きく発展した。しかし柳沢吉保が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府直轄地となり、舞鶴城は甲府勤番の支配下におかれた。

その間、享保年間の大火により本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮観な姿は失われた。明治時代になると、舞鶴城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんど取壊された。現在は山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、氏清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城址としての景観を保っている。

明治元年(1868) 明治維新、板垣退助らが無血入城。舞鶴城は、明治に入り、徳川時代の面影を大きく失い、残された城跡が明治37年(1904)舞鶴公園として一般に開放された。
公園の面積:6,2ha 昭和43年12月県指定文化財(史跡名称・甲府城跡)となり現在に至っている。・・と舞鶴城公園事務所で頂いた資料に記載されている。


 甲府と新撰組「甲府の戦い」
局長の近藤勇を筆頭に、鬼の副長 土方歳三、一番隊隊長 沖田総司など、新撰組のその人気は高く、今現在も彼等のファンは数多くいる。そんな新撰組が、山梨で新政府軍と一戦交えたった。今もその古戦場跡が残っている。
幕末慶応4年(1863)新撰組局長 近藤勇は、江戸城で幕臣 勝海舟と会い、天領である甲府を新政府より先に押さえるよう出陣を命じられた。これは近藤たちを江戸から遠ざけたとも言われている。

新撰組は「甲州鎮撫隊」と名前をかえて、慶応4年3月1日に江戸を出発!甲府に向かった。(沖田はもちろん、永倉新八や原田左之助も同行)
近藤は混成部隊を鼓舞するため、行軍中に大名旅行のように振る舞った。それに加え、天候悪化なども重なり、時間を浪費。(ノロノロしていたため、沖田の病状が悪化!江戸に帰ってしまう)そうこうしているうちに土佐藩の板垣退助、薩摩藩の伊地知正治らが先鋒総督府参謀として、3000の兵を率いて甲府城に入ってしまう。まさに自爆!!!! 甲州鎮撫隊は、ようやく勝沼(現在の甲州市)まで進軍。甲州街道と青梅街道の分岐に陣をしいた。300いた兵も、新政府軍の最新鋭武器とその数に、ビビリまくり121人まで減ってしまいます。そこで、天下の近藤勇「会津の兵が加勢にかけつけている」とホラを吹き、なんとか脱走兵を防いだ。

土方はこの間に、神奈川へ赴き、旗本衆に援助を頼むがだめ3月6日、甲州鎮撫隊 圧倒的劣勢の中、戦闘が始まりこの戦闘中、なんと!近藤のホラがばれてしまい兵は逃亡。その結果、甲州鎮撫隊は八王子に退却した後解散、江戸へ敗走、こうして、あっという間の戦闘は、新政府軍の圧勝で幕を閉じました。この戦いのことを、「甲州勝沼の戦い」または「甲州柏尾戦争」と呼ばれこんな事もあった。

伊予松山藩脱藩して新撰組入隊:原田 左之助

伊予松山藩の中間だったが、のちに出奔し、近藤勇の江戸道場、試衛館以来の生え抜き隊士で十番組長となる種田流槍の名人。後に種田宝蔵院流と自称した。
鳥羽・伏見の戦い、甲陽鎮撫隊まで新撰組として戦いその後、永倉新八と共に靖兵隊結成する。だが、なぜか江戸を離れてから用を思い出したと江戸に戻って彰義隊に加入、上野戦争の際に負傷し、その傷がもとで慶応4年5月17日に死亡したとされる。享年29歳。

入隊時期が遅い為に彰義隊の名簿に原田の名は載っていない。彰義隊の生き残りは厳しく詮議された。上野で戦死したことにして、故郷にも帰れず明治の時代を戸籍なしで送った人も多々いたという。
新選組の中では美男子だったといわれ、永倉新八とは仲が良かった。

馬賊としての逸話
原田は上野では死なず生き延び、新潟・下関・釜山を経て大陸へ渡り馬賊の頭目になったという伝説がある。日清戦争のときに昔語りをする人がいて「私は原田左之助だ」と名乗ったと伝わっている(日露戦争の時も)。明治40年頃の新聞で報じられたが真偽は不明。・・逸話として伊予松山藩出身の秋山好古が騎兵隊を指揮し戦った時馬賊から支援を受けたのは先輩である原田佐之助であったのではないか?? 

原田佐之助:天保11年(1840)生まれ 秋山好古:安政6年(1859)生まれ


甲府城「舞鶴公園」正面・・遊亀橋を渡り登城・・75番目の登城である


甲府城の全景図


天守台から見た数奇屋曲輪


天守台から見た稲荷曲輪と、復元された稲荷櫓・・甲府城復元された唯一の櫓


立派な石垣が整備されている・・鍛冶曲輪望む天守台、よく見受けられる石垣に生える草も無く手入れが行き届いていた


本丸からの天守台で石垣も綺麗に整備され、よく見受けられる石垣に生える草も無く手入れが行き届いていた


平成8年に復元された鍛冶曲輪門


遊亀橋を渡り城内に入った所に甲府城のシンボルがある、明治維新以降は舞鶴公園として市民の憩いの場所として親しまれている


天守台からの富士山・・この日は雲が掛かり中腹あたりしか見えなかった、この日甲府盆地周辺の山々は雪が降っていた
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