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村上水軍縁の地・村上3島めぐり日帰りの旅 3因島村上水軍

2014年09月18日 | 伊予松山歴史散策
能島を船上見学し、船折瀬戸を通り、多々羅大橋を潜り最後の観光地因島に上陸観光した。因島村上水軍の拠点である島は、広島県尾道市に位置している。豊臣秀吉と対立した能島村上氏は瀬戸内海から追放されるが、因島村上氏は小早川隆景に属し、毛利氏の船手組番頭としてその後も勢力を維持する。惣領家の能島村上氏は独立路線であったのに対して、因島村上氏は、毛利氏に近い立場にあった。因島村上氏が毛利氏と関わりをもつようになったのは、天文23年(1544)のことであった。当時、安芸・備後に勢力を伸ばしつつあった大内義隆が、尼子方に転じた備後神辺城主山名理興を討伐するため、村上新蔵人尚吉に毛利氏へ協力をするように要請してきた。尚吉は、それに応じて、小早川水軍を率いる小早川隆景と提督浦宗勝の支配下に入った。
弘治元年(1555)、「厳島合戦」が行われたが、戦いに先立って元就は、能島村上武吉に協力を要請し、因島村上吉充のところにも毛利氏から出陣要請があった。吉充は、ただちに毛利氏に味方し、同じく毛利氏に味方した能島村上水軍とともに毛利方の勝利に貢献した。天正4年(1576)、織田信長と対立する毛利氏は、織田軍の兵糧攻めに苦しめられる石山本願寺に兵糧米を搬入する作戦を展開、毛利水軍は、因島村上・能島村上元吉、浦宗勝が指揮して、織田水軍との間で「第一次木津川口海戦」が行われた。この作戦に因島村上吉充も参加し、得意の火矢戦法で織田水軍を壊滅させ、兵糧米を本願寺に運び込むことに成功した。その後、毛利水軍は「第二次木津川合戦」で信長水軍の鉄甲船に大敗北を喫した。関ヶ原の戦いでは西軍の敗北となり、毛利氏は長門と周防の二国以外の領地はすべて没収処分となった。因島村上氏は、備後から退去せざるをえず、毛利氏に従って長門に移住していった。その後、因島村上氏は吉亮の子元充が継いだが、領地は削減、家臣たちは四散したことから領地を返上して因島に帰り、そこで死去した。元充のあとは吉忠の子吉国が継ぎ、毛利氏の船手組番頭となり、代々世襲して明治維新に至った。
「村上海賊の娘」、天正4年(1576)の第一次木津川口の戦いで、村上水軍の当主・村上武吉(能島村上水軍の当主、村上義忠の子)の娘・景(きょう、20歳)を描いている作品のお陰で三島村上水軍が今年脚光を浴びた。今回三島村上水軍ゆかりの地巡りをした中で、来島村上は、拠点の来島は小さく、唯城跡を来島保存顕彰会が細々と管理してあるのみで、能島村上には近くに、立派な村上水軍博物館があり、因島村上は、島は大きく、因島水軍城として歴史資料館があり立派であった。その点来島村上は施設も無く何か可哀相な気がした。
今回で村上3島めぐり日帰りの旅日記は終わりですが天候の良い恵まれた旅であった。


因島水軍城の城門。


因島水軍城。


水軍祭りでは、因島村上水軍の伝令船「小早」に乗船して「かい」を漕ぐ体験が出来るとか!!


昭和58年建設された因島水軍城。


昭和58年建設された因島水軍城。


因島水軍城の説明板。


夏季は因島水軍祭り一色で賑やかになるそうだ。


昭和58年建設された因島水軍城内部展示。


因島観光案内図で、因島(いんのしま)は、広島県尾道市に属する。かつては因島市として独立していたが平成の大合併で尾道市となった。廃藩置県前は備後の国に属する島で、伝承では、神功皇后の乗った船がこの島に立ち寄った際に、陸から多くの犬が吼えて困ったので皇后が「犬の島」と名づけ、それがなまって「インの島」になったとも、平安時代に島が院領だったことから「院の島」が「因の島」になったと言われている。


因島水軍城のパンフ1。


因島水軍城のパンフ2。
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