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和歌山県琴ノ浦 温山荘園と新田長次郎

2012年03月17日 | 伊予松山歴史散策
研修会二日目、琴の浦温山荘園

琴の浦温山荘園は、新田長次郎が創り上げた和歌山県海南市にある日本庭園で、国の名勝として平成10年に荘園の建造物が、文化庁文化財部より「登録有形文化財」の指定を受け、平成22年2月に庭園が国名勝の指定、平成22年6月に建物が重要文化財指定を受けた。
新田長次郎は、伊予国温泉郡山西村の農家の次男として生まれ廃藩置県後伊予松山の城下で秋山好古と出会う、そして好古が愛読していた福沢諭吉の「学問のすすめ」を通して二人は独立自尊を座右の銘として人間形成を確立し、好古は教師の道を、長次郎は会社を興しその財をもって青少年の学業の施設(学校)を作る志を抱いた。

この時長次郎16歳、好古14歳であった。好古は16歳の時教師にと官立大阪師範学校に入学卒業後名古屋師範学校付属小学校の教師となるが、伊予松山藩の先輩和久正辰(わくまさとき)と名古屋鎮台の山本忠彰の強い薦めで陸軍の道を歩むが晩年郷里松山の北豫中学校の校長として生涯を捧げた。
新田長次郎は、20歳で大阪に出て明治21年に日本で初めて動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカーとなった新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)の創業者で「東洋一のベルト王」と呼ばれるまでになり、その後学校建設に尽力をする。

先ず大阪難波に私立有隣尋常小学校を開校(現在の大阪市立栄小学校)設立時、教職員や学校運営の一切の経費を負担した上、生徒の学用品、衣服、履物まで支給して教育に尽くした。・・好古と読み交わした「福沢諭吉の学問のすすめ」に共感して、現在の松山大学は、大正12年四国で始めての私立松山高等商業学校として発足、加藤拓川(正岡子規の叔父さん)の意に賛同し開校設備費全額を負担した。また郷里の味生尋常小学校校舎増築に際しても多額の寄附を行い青少年の育成に多大なる尽力をされた。

晩年和歌山県海南市に琴の浦温山荘園を造り命名は、東郷平八郎元帥が命名した。
好古が昭和5年3月に北豫中学校長を退職し東京に帰る時温山荘園を訪れ主屋の座敷で一晩語り明かし東京に帰り11月4日陸軍病院で亡くなった。

長次郎は、信さん(好古)別れの挨拶に来てくれたのだったのか、もっと話をしたかったと号泣されたそうだ。
主屋の座敷には、秋山好古・清浦奎吾・東郷平八郎・桂太郎・そうそうたる人物が揮毫した扁額がある。
温山は、新田長次郎の雅号である。
平成17年1月18日に秋山兄弟生誕地整備事業についてもニッタ株式会社から多額の寄附があったと聞いている。
 このあとは、今回の研修最後の地、東大阪市の「司馬遼太郎記念館」に移動する。



正面玄関から長い通路がある


その奥に新田長次郎の立像が出迎える


そして暫く行くと主屋玄関がある、入り口には東郷平八郎揮毫の扁額「温山荘」が掲げてある






庭園内の池の水は全て海から引き込んでいる海水である


主屋座敷にある好古揮毫の扁額


紀州随一の大庭園 広さ18,000坪

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