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和歌山県串本町 トルコ記念館

2012年03月15日 | 伊予松山歴史散策
今から122年前の出来事の場所に3月12日(月曜日)松山市から行って来た。そこは、和歌山県串本町にあるトルコ記念館である。
秋山兄弟生誕地研究員の県外研修として14名が行った。

トルコ記念館は、明治23年(1890)9月16日、大島樫野崎の沖合でトルコ軍艦エルトゥールル号が嵐の中遭難し乗組員656名のうち587名が還らぬ人となった。遭難した乗組員を地元住民の献身的な救助活動を行いこの事がきっかけで、トルコと串本町との友情と友好関係が現在まで続くこととなった。異国の海に散った将士たちの霊を慰めるために建設された慰霊碑では、5年ごとに追悼式典が行われている。また串本の姉妹都市であるトルコのメルシン市にも同じ碑が建てられている。

送還

日本は、遭難者に対する支援が政府をあげて行われ、69名の生存者は一旦東京に送られ、遭難事故の20日後の10月5日に明治天皇の特旨として、戦艦でお送りせよとのおっ達しで、東京の品川湾から出航した日本海軍の「比叡」と「金剛」により、翌年の明治24年(1891)1月2日にオスマン帝国の首都・イスタンブルに送り届けられた。

なお2隻には、秋山眞之他海兵17期生が少尉候補生として乗り組んでいた。・・後の日露日本海海戦の作戦参謀である。


日本ではあまり知られていない「日本人216名を救ったトルコ航空機」

イラン・イラク戦争が始まった、昭和60年(1985)3月17日、イラクのサダム・フセインが「今から40時間後に、イランの上空を飛ぶ飛行機を打ち落とす」ということを世界に向かって発信した。イランに住んでいた日本人は、慌ててテヘラン空港に向かったが、どの飛行機も満席で乗ることができなかった。世界各国は自国民の救出をするために救援機を出したが、日本政府はすばやい決定ができなかったため空港にいた日本人はパニックに陥った。 そこに1機のトルコ航空の飛行機が到着した。トルコ航空の飛行機は日本人216名全員を乗せて、成田に向かって飛び立った。タイムリミットの、1時間15分前であった。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか、日本政府もマスコミも知らなかった。この時、元駐日トルコ大使のネジアティ・ウトカン氏は次のように語られた。「エルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を、今もトルコの人たちは忘れていません。私も小学生の頃、歴史教科書で学びました。トルコでは子どもたちでさえ、エルトゥールル号の事を知っています。今の日本人が知らないだけです。それで、テヘランで困っている日本人を助けようと、トルコ航空機が飛んだのです」・・これは明治23年に日本から受けたトルコの運返しであった。


















樫野埼灯台から見た太平洋の大海原・・地球の丸みが何となく見受けられる・・この日は海は穏やかであった。

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