
画像は、新潟市江南区沢海にある「北方文化博物館の空撮」
伊予松山市と、越後国新潟市との関係はNHK坂の上の雲が放映されるまでは知られてなかった。
その関係が明るみになったのは新潟市江南区沢海、日枝神社境内に建立してある秋山好古が揮毫した石碑「忠魂碑」が切っ掛けであった。
古くは、江戸時代この地に新発田藩支藩、沢海藩があり、第4代藩主が伊予松山初代藩主、加藤嘉明の孫であった。
また、元禄時代赤穂浪士吉良邸討ち入りに際し、堀部安兵衛ら10名を伊予松山藩江戸中屋敷に収容し、切腹まで面倒をみた。
堀部安兵衛は新発田藩の出身、伊予松山藩中屋敷邸は現在イタリア大使館となり、館内に赤穂浪士に関する記念碑が建立されている。
明治維新後、大正2年に秋山好古が高田市にあった第13師団長とし在籍、そして伊澤新潟県知事は、前任地が愛媛県知事であった。
また、昭和5年8月20日に信濃川洪水の危機が迫り、工事の主任技官の宮本武之輔(松山市出身)が下流域の洪水を回避するため、仮締切堤防を独断で破壊したという信濃川大 河津分水路改修工事に従事した技術者宮本武之助の関係である。
この様な事柄がNHK坂の上の雲が放映された事で表面に出て来た。
前回、千葉県習志野市を研修した事を紹介したが、習志野に行く前日に新潟市でも研修したのである。
映像の力は計り知れないものがあり色んな潜在している物事が蘇る。
秋山兄弟生誕地で奉仕活動で行っている研究員達は、全国からお越しになられる皆さんをご案内する為に現地に伺い、現地の方から話を聞き知識の蓄積に努力しご案内の糧としている。
研修の費用は全て自費である。
では、新潟での研修を画像で見て下さい。

新潟市江南区沢海にある北方文化博物館の正面玄関

日枝神社境内に建立してある秋山好古が揮毫した石碑「忠魂碑」で、旧新潟県中蒲原郡横越村から日露戦役に出征し戦死された方は13名、その内、大町助作、斉藤源次郎氏が大字沢海から出征し戦死された。特に203高地奪回の激戦での戦死。
横越村は、戦死者の英霊を祀り後世に伝えるために村葬とし、忠魂碑を建立した。
その揮毫を秋山好古が大正2年に書した。秋山好古は当時第13師団長として新潟県高田に赴任していた。伊澤新潟県知事から特別な事柄として忠魂碑の揮毫依頼を受けた。
先ず最初の研修は、秋山好古が揮毫した忠魂碑で、「秋山好古と新潟の人びと」の著者、神田勝郎氏の説明を聞く事から始まった。

平成25年新潟市は、新潟市民文化遺産制度を制定、秋山好古が揮毫した石碑「忠魂碑」平成26年3月13日付で文化遺産に認定された。
認定された理由の一つに、現在も忠魂碑の前で、日露・大東亜戦争で亡くなった方々の慰霊祭を今も継続している行為が人の心の温もりが地域の宝として認定されたのと、揮毫者がNHK坂の上の雲の主人公であった事も加味されたのか??これは私の勝手の思いである。

さてここからが北方文化博物館で、司馬遼太郎、柳宋悦、バーナード・リーチ、浜田庄司も訪れ素晴らしい博物館で、所蔵している美術品が凄いと言っている。
画像は、北方文化博物館の主屋大広間。

北方文化博物館は、旧越後一の豪農伊藤家の屋敷跡である。

研修に伺った時、第8代伊藤文吉館長直々の説明案内をして頂いた。

第7代伊藤文吉館長とGHQ新潟司令長官との関係の記念碑。

第7代伊藤文吉館長とGHQ新潟司令長官との関係の記念碑。

北方文化博物館設立と名称の由来説明板で、博物館中庭に建立されている。
説明文を是非読んでみて下さい。
説明文に「ライト中尉が特別な行為をマッカーサー元帥に働きかけて、マッカーサー元帥が戦後最初の私立博物館の設立を許可した施設が北方文化博物館である。」
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